第33話 柔肌に下半身を押しつけぶるっと震えて
貧しかった農村に生まれたマロナの家では、子どもは労働力だった。
六女だったマロナは、歩けるようになったころから仕事を叩き込まれた。兄や姉がそうであったように、働くことに疑問を差し挟む余地はない。掃除や炊事、野良仕事が生活の大半を占め、夜明けから日没まで、なにかを考える間もなく身体を動かし続けた。
大きくなるにつれて、それでも少しずつ周りが見えてきた。
きょうだいは減ったり増えたりした。
減る原因は主に事故や病、過労で死亡するから。または姉の場合、他の家に嫁ぐから。
増える理由は単純に、減ることを見越したように新しく生まれるから。年頃になった兄は嫁を取って、その子どもらも労働力に組み込まれていった。
減る原因のひとつに、『売られていくから』があることに気付いたのは、十歳のころだ。
家にやってきた怪しげな髭面の客と父親が、誰を売れば幾らになるか、という相談をしているのを偶然外から聞いてしまった。その会話の中の、
「できの悪い奴から連れていってくれ」
という父の言葉がその日から頭にこびりついて離れなくなった。
それまでも生き抜くのに努力をしている自覚はあった。けどさらに、必死になった。
できなければ、売られる。それは病に倒れる以上に、想像すると恐ろしいことだった。
売られた子どもがどうなるのかなんて解らないまま、ただただそうなりたくないという一心で、他のきょうだいがやりたがらない仕事も進んでやったし、小さな子の面倒も見て、仕事の指導もした。十分な量の仕事をこなした上で、さらに、学校へ通う裕福な家の子にも近付いて仲良くなり、算術を教えてもらったり、色々な本を読ませてもらったりもした。
その結果、十二になるころには、きょうだいたちの中でも一番賢く多芸だという評価を父から得られていた。年齢的には全体の平均くらいだったにも関わらず。
そして十三のとき、父に呼ばれた。
「お前を奉公に出すことにした」
そこにいたのは、あの人買いだった。
マロナはすぐに自分が、最も恐れていた道への扉が開いてしまったのだと理解した。
「どうして」
愕然として、父親に訴えた。
「どうして。あたし、役に立つでしょ? 誰よりも優秀でしょ?」
父親はしばらく、「なにを怖がっているんだ」とか「だからこそ、この生活から解放してやろうと思ったんだよ」とか、気持ち悪いくらい優しい声で答えていたが、もうそのときには、女が売られた場合の末路を知っていたから、とうとうその中身を言い当ててしまった。
酷く冷たい目になった父親は、
「ふん、やはり油断ならない娘だ。内心、俺を見下しているんだろう?」
と言った。全く理解できずに立ち尽くすマロナに、父親は嘲笑を向けた。
「できが悪い奴以上に、良過ぎる奴も困る。手に負えなくなる前に、手放すに限る」
そんな可能性を、マロナは考えたこともなかった。
「あたし、そんなことしない。父さんに逆らったりしない! だから、だから!」
いくら泣き叫んでも、もう父親の意思は動かなかった。
首に縄を付けられ、マロナは娼館に売られた。
女の身体になるまでは先輩方の世話係だと説明され、下働きをした。その仕事の内容自体は、家にいたころよりもむしろ楽で、マロナの要領の良さを誰もが重宝したし、算術が使えることを知ると、娼館のオーナーも一目置くようになった。
けど家での体験から、希望を持たなければ裏切られないということを骨の髄まで思い知らされていたので、いくら褒められてもそれで運命が変わることはないと思った。
それでも先輩たちの仕事の生々しさや過酷さは話を聞かずとも伝わってきたし、実体験がない分、マロナは余計に不安を煽られた。自分もいつかそこへ加わらねばならないと思うと、死刑の沙汰を待つ罪人のように精神を磨り減らす毎日だった。
ひとは、一年の間に何人も入れ替わっていった。いなくなった女性がどうなったのかは、未だに知らない。
それでも、十五になるまで
特に親切にしてくれていた先輩は、マロナに言った。
『いいかい? よくお聞き。
あんたは今日から役者になるんだ。自分とは違う人間を、内につくるんだよ。
部屋の蝋燭の火を消した途端、今のあんたは闇に溶けて消える。
あとは、人形になりな。
相手の男にとって、都合のいい存在になるんだよ。逆らわず、媚び、甘え、望む反応を感じ取って、そのとおり差し出せばいい。そうすれば、案外優しいもんさ。
間違っても、自分のままでいようなんて考えちゃいけないよ』
そう言われても勝手など解らなかったので、ただ、人形になれ、という部分だけ意識して、されるがままになった。
初物が好物だというその男の顔は全く思い出せないが、肌を見られると鳥肌が立ち、指が触れるとそこから毒に侵されていくようで、舌が這うと吐き気がした。だけど表にはおくびにも出さず、漠然と、場違いな暢気さで、どうしてこうなったんだろう、と考えていた。
(……なんでもできるようになれば、必要とされれば、売られないと思ってた。
けど逆だった。
相手にとって、都合のいい存在……今、しているようにしてればよかったのかな。
そこそこ利口で、そこそこ役に立って、けど決して父さんにできないことをできるなんてそぶりは見せず、従順で可愛い子どもを演じていれば……あたしは、まだ)
まだ?
急激に違和感が襲ってきた。
(まだ、あの家に…………)
開けてはいけない箱を開けているような思いだった。しかしもう川のように流れてきた思考は止められない。
(いたかった?)
あんな親のところに。
そう思った瞬間、頭の芯が凍り付くのが解った。思わず両目をかっと見開いて天井を凝視するマロナの異様さに気付いた男が、「どうしたの?」と手を止めた。もうそろそろ前準備が終わって、そのときを迎える寸前だった。
「……こわいです」
自分のものとは思えないくらいか細く弱々しい声が、ひとりでに出た。
「あかりを、けしていいですか?」
子どものように甘える猫なで声。それでいて緊張によって艶っぽさが混じる。
(あたし、こんな声、出るんだ)
と、他人事のように聞いている自分がいた。
男はたまらない、という感じで柔肌に下半身を押しつけぶるっと震えて頷いた。マロナはその腕の中へ躊躇いがちに身体を預け、片手を伸ばして燭台を引き寄せる。その薄明かりに顔を寄せて唇を微かに突き出し、
「ぶぁっくしょーいっ!」
思い切りくしゃみをかましてその勢いで燭台を取り落とした。
え、と男が反応したときにはもう遅く、火は寝具に燃え移り、みるみる勢いを増していく。
「にっ……逃げてぇえええええっ!」
迫真の演技で叫びながら男を部屋の外へ追い立てる。
「ここはあたしが、命に代えても火を消します!」
豹変するマロナと広がる火炎の勢いに呑まれ、男は情けない声を上げながら逃げた。
ひとりになったマロナは布きれだけを纏うと、煙を吸わないように口を覆い、半裸のまま窓から飛び降りた。建物の裏手なのでひとの姿はなく、地面も石造りで火が回っていないことも確認していた。怪我は避けられないと覚悟したが、二階なので死にはしないとも思っていたとおり、運良く足も折らず、打撲と擦り傷で済んだ。既に館全体に火が回っており、表通りは騒ぎになっているようだった。とにかくこの場から離れようと、走り出した。
もちろん、行くあてなんてなかった。
だけどこの機会に消えれば、焼死したと思ってくれるんじゃないかという期待があった。
ろくに娼館の外に出たこともなかったが、幾度か見たことがある地図で、街周辺の地形は頭に入っていた。とにかく歩いて三日の距離にあるはずの、隣町まで辿り着こうと決めた。
だが街を出てすぐ、道に迷った。
広がっているはずの荒野はなく、いつの間にか山の中に迷い込んでいた。こんなところに森はないはずだと思ったが、見た地図が間違っていたのか、自分の記憶が間違っているのか、あるいはただ方角を間違えたのかは解りようがなかったし、考えても仕方がなかった。
やがて体力は尽きかけ、それでも足を止めたらまたあの場所に戻らなきゃいけないと思うと、倒れる寸前の状態で彷徨い続けた。裸足だったので、とっくに足の皮は破けて血が噴き出していたけど、痛みはさほど感じなかった。
夜が来て、また明るくなっても、マロナは歩き続けた。いつからか涙が勝手にこぼれて止まらなくなり、それが妙に可笑しくて、声を上げて笑った。
(あたしには、いたい場所が初めからなかった)
とめどもなく、思考が溢れてくる。
(なのに必死だった。自分が居場所を守るっていうことは、他のきょうだいが売られるってことなのに、心を痛めもせず、ずっと目と耳を塞いでた。そこまでして、守りたいものなんてなかったくせに)
それなのに、と思う。
(誰かの思いどおりになりたくない。
死にたくもない。
自分の身体ひとつ諦めきれずに、わざと火事を引き起こしてまで、逃げ出した。誰かが怪我をしたり、誰かの財産が燃えてしまうことを知りながら)
「あたし……は…………我が儘、なの、かな……?」
答える者がいない疑問を呟きながら、指先から力が抜けていく。
マロナはとうとう森の中で力尽きた。
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