第34話 とりあえず服を着ろ

「それがさ、アシュラドの山だったんだよね」

 マロナはとうとう、一切の感傷を表さずに語りきる。あまりにあっけらかんとしているので、内容とのギャップにパニーは困り顔だ。

 力尽きたマロナが気が付くとベッドの上で、身体には毛布が掛かっていた。

 そして気付いたアシュラドが顔を覗き込んできた。

「起きたらいきなりあの顔じゃん? 思わずベッドから転がり落ちたわ」

 部屋を飛び出し、目に入った台所から包丁を取って

『ただじゃ殺されないから! 目玉のひとつは抉ってやる!』

 と、追ってきたアシュラドに怒鳴った。

「そしたらあいつ、傷付いた顔して『そんな怖がらなくても………』って」

 様子を思い出したのか、軽く吹き出す。


 裸で刃物を突き付けるマロナの動きを、アシュラドは『操作』で封じた。

 マロナは半狂乱になった。せっかく逃げてきたのに、結局、こうなるのかと。誰かの思いどおりにされることに耐え難い屈辱を感じ、堰を切ったように涙と罵声がとめどもなく溢れた。鬼、悪魔、お前たちは人間じゃない! などと、ある意味では当たっていることを連呼され、アシュラドは非常に複雑な顔になったが、ベッドから持ってきた毛布を、一糸まとわぬマロナの身体に被せた。包丁を奪い、

「落ち着け。俺たちは、お前に危害なんか加えない」

 と、拗ねたように言った。そこで初めてマロナは部屋の中にもうひとり、グラサンマッチョがいることに気付いた。マロナの顔が引きつる。

「えっと、こんにちは」

 手を掲げたその男は、全裸だった。

「いっ……いやぁあああああっ! 犯されるぅううっ!」

「えっ、違」

「この馬鹿が! 服を着ろぉおおっ!」

 アシュラドが包丁をサイに投げつける。かがんだサイのドリルヘアーを串刺しにした。

「あっぶねぇっ! ち、違うんだ。俺は家では裸族派で」

「近寄らないで!」

「いいからてめえは服を着てこい!」

 事態をややこしくするだけしてサイが部屋に消えると、アシュラドはマロナから距離を置き、背中を向けてあぐらを掻いた。

「……今ので信じろというのは難しいよな。そりゃ、解る」

 マロナにはその背が、ひとりぼっちの子どもが肩を落としているように見えた。

「だが俺はお前が家の近くに倒れていたから、連れてきただけだ。なにもしてねえ……あ、いや、一応足は手当てしといたが」

 言われてマロナは自分の足を見る。両足に包帯が大雑把に巻かれていて、今にもほどけそうだった。

「……下手くそ」

 あっけに取られながら漏らすと、

「う、うるせえ! 自分で巻き直せ」

 とマロナを見ずに言い返してくる。

 自分の置かれている状況がすぐには飲み込めなかった。いや、頭はもう明瞭だったし、助けられたのだろうと理解はしていた。目の前の男が見た目よりも親切で、まともに会話できそうな相手だとも感じた。

 だからこそ、呆然とするしかなかった。

 絶望に慣れきったマロナには、すんなり受け入れられなかった。

 一方、マロナが恐怖や警戒から喋らないのだと思ったアシュラドは、間を置いてぽつりぽつりと言葉を重ねた。

「服は、俺のでよければ好きなのをやる。出て行きたければいつそうしてくれても構わねえ」

「俺は、それまでずっとここに座ってる。外にいてもいい」

「お前がわけありなのは察するし、詳しくは訊かん。金が必要ならその辺にあるものを適当に持っていって売れ。少し片付いて助かるくらいだ」

 マロナはそこでやっと、家の中が随分荒れていることに気付いた。雑貨や置物や本が散乱し、床には埃が溜まっていた。

「……酷い有様」

 しばらくぶりに出した声に、アシュラドはほっとしたように「掃除をしていってくれても構わない」とおどけた。

 マロナは立ち上がる。いつの間にか『操作』は解除されていた。

 一歩踏み締めるごとに、足の裏から激痛がせり上がる。さっきまでは、それに気付く余裕すらなかったのだ。

 アシュラドの背に触れられる距離まで行って、しゃがみ込んだ。

「掃除は、得意だよ」

「……そうか」

「けど今は、足が痛い」

「……治ってからでもいい」

「炊事も、洗濯もできる」

「……ん?」

「算術も少しできるし、文字も読める。野良仕事はもっと得意」

「なに……を」

「……行くところが、ないんだ」

 アシュラドが息を呑むのが解った。

 そんなつもりはなかったのに、マロナの声は濡れている。

 アシュラドは振り向かなかった。顔を上げ、じっと前方を見ている。

 沈黙を破ったのは、マロナのほうだ。

「……突然わけ解んないこと言ってごめんなさい。手当、ありがとう」

 言って、立ち上がろうとすると手首を掴まれた。アシュラドが振り返る。

 とっさに、拒絶するようにびくりと跳ねたマロナに、アシュラドは手を離して、

「あ……ごめん」

 と言った。眼球も牙も恐ろしげなのは間違いないのに、違うところに意識が行った。

 目を伏せ、叱られた子どもみたいに肩を落とす様はまるで少年だった。

(もしかして……同い歳くらい?)

 実際、当時十五のマロナに対してアシュラドは八歳。『人間』換算ではほぼ同じ年齢ということになる。

「……ここでいいなら、別に、いたっていいんだ。ただ、俺たち……いや俺は、きっとお前よりもわけありだし、この家にはもう、なにもない」

 素っ気なさ過ぎるくらいの言い方と傷付いたひとがするような目から、それが、物理的なもののことを指していないことはすぐに解った。

 だけどマロナはそのことよりも、最初のひと言に揺れ動いていたから

「嘘でしょ」

 と涙声で言った。アシュラドは自嘲気味に「本当だ。家族も、目的も、なにもかも」と言いかけ、遮られる。

「そうじゃない」

「え?」

「いてもいい、って」

「ああ……まあ、それは別に」

「条件は?」

「条件?」

「仕事とか、身体を差し出せとか」

「は」アシュラドは心底「なに言ってんだ?」みたいな笑い方をする。「ねえよ、そんなの。家事をしてくれりゃ助かるが、やりたくなけりゃいい」

「……嘘でしょ?」

「いや、なんでこんなことで嘘つかなきゃいけねえんだ」

「極楽か」

「はあ?」

「なにもしなくてもいていいとか……そんな上手い話、あるわけない」

「信じられなきゃ無理して信じる必要は……」

「やだ」

「あぁ?」

「やだよ」

 すっかり頭の中がぐちゃぐちゃになっていた。意思とは関係なく勝手にこぼれていく涙を何度も何度もこすって拭うのに、収まらない。

 目が覚める前までいた世界と、ここはまるで全く違う世界みたいだった。目の前の鬼みたいな顔の男が、これまで誰からも言われたことがないようなことを言ってくる。夢か幻、でなければ詐欺だとしか思えなかった。少なくとも理性はそう判断していた。

 なのに、身体の中から突き上げるもうひとつの思いを、無視しきれない。

『今このときを逃せば、二度とこんな機会はやって来ない』

 細胞のひとつひとつが「逃すな」と叫んでいる。

(駄目だ。期待しちゃ、駄目だ。

 だって、こんなの、詐欺に遭う人間の典型的な精神状態だ。また裏切られる。また)

 自分に言い聞かせながら、しかし、身体は全く反対の動きを取った。

 アシュラドの頭を、マロナは胸に抱いた。締め付けるように強く、強く。

「信じさせてよ」

 その言葉はもう、マロナの意識から出ていない。

「裏切らないで。信じさせて。あたしを……ここに、いさせて」

 涙に溶けて、まともな発音にならない。されるがままのアシュラドは面食らいながらも

「ああ」

 と答えた。そして続いた声は酷く気まずさに満ちていた。

「それはいいが……お前もとりあえず服を着ろ」

 抱き締めるときに毛布が床に落ちていたことと、アシュラドの横顔が赤面していることに気付いて、マロナの顔が熱を帯びる。その背後で、

「お、お、お前らなにしてんの!? ひとを部屋に追いやっといて、そういう感じ!?」

 服を着て戻ってきたサイが顔芸と見まごうほどの悲愴感を漂わせて震えた。

 慌ててアシュラドから身体を離して毛布で前を隠したマロナは、やまびこが発生するほどの声量でやけくそ気味に叫ぶ。

「服、貸してっ!」

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