第41話

 しばらく、リビングの長椅子に座ってぼんやりとマスクの凹凸を撫でていた。そうしていると、ドアが静かに開いてミーヴィがするりと入ってきた。

 トキコの隣で呼吸するように微かな機械音を鳴らしていたアイは、パッと彼女を見上げて無言でピョコンと立ち上がった。発声器官が故障しているミーヴィだが、アイとは交信できるらしい。よく無言でやりとりをしていた。

 「更新、スル」とアイはトキコにそう言って立ち上がる。昨日も随分と長い時間更新をしていたが、それでもまだ終わらないのだろうか。

 アイは挨拶するみたいに、トキコの体をギュッと抱きしめた。力加減は相変わらず下手くそだから呼吸器が潰されてしまうかと思った。アイはすぐにトキコから離れて、ミーヴィの後ろをついていった。

 また、一人になったトキコは一息ついた。マスクを膝の上に乗せ、上半身を倒して横になる。


 シェイリの言う通り浅はかな考えや計画のままツバメの所へいくのは間違ってる。気持ちばかりが先行してしまっている。冷静にならなきゃ。よく考えなきゃ……。


 「マスク、貰ったのか」


 低く少し嗄れた声に飛び起きる。ロイムがカップを2つ持って、向かいの椅子に座った。トキコは情けない声で返事をして、マスク片手にくちゃくちゃの前髪を直した。


 「ここでは必需品だからな。全員が持っている」


 ロイムはカップを1つ本の上に置いた。少し危なっかしいが、他に置けるような場所もない。


 「交易組がさっき戻ってきたんだ。裏ルートで嗜好品なんかの取引をしてる奴らなんだが。それで、コーヒーを貰ったんだ。飲むか?」


 トキコはマスクを膝に戻して、本の上に置かれた湯気のたつ黒い液体を覗き込んだ。そっと取手をつまんで持ち上げる。振動で黒く、ゆらゆらと波打っている。

 事務室からこんな芳ばしい香りが時々していて、カリンがコーヒーの香りだよって教えてくれたのを思い出した。


 「職員がたまに飲んでたと思う。でも、わたしは飲んだことない」


 「俺も大釜だとよく飲んでた。今はなかなか手に入らないから、久しぶりだ」


 おずおずしながら少し啜ると、焼けるような熱さと苦味が舌を撫でるように刺激した。慌ててカップから口を離して、息を吸う。空気が口の中をひんやりと冷ましていく。

 「苦かったか」とロイムは笑う。


 「苦いけど、飲めるよ」


 トキコはそう言って、もう2口啜ってカップを長椅子の上に置いた。

 

 「調子はどうだ? 見てると少し太った気がする」


 「そ、そんなに?」


 トキコは自分の頬に触れてみる。もともと頬は柔らかい方だ。だから、そんなに太った実感はなかったけども。あまり太り過ぎていたらやだなぁと、目を閉じた。


 「健康的になったって意味だ。まあ、それでも痩せてるがな」


 ロイムは少し面白そうに息を吐いて答えた。


 「そもそも太るやつなんかいないか」


 そう言えば、と思う。イラハで太った人は見たことがないのだ。でも、それも7日間過ごしてなぜなのかわかった。食べ物は飢えるほどではないけど少なくて、人々はみんな常に動き回ってるからだ。地下都市の職員みたいに机に向かってずっと機械の操作をしている人なんてそうそう見ない。

 太った人と言えば、時々監査というものでやってくるオジサンがいたのを思い出した。風船みたいなお腹で、スーツがはちきれそうだった。小さかった頃のロロはそのオジサンのお腹を大変気に入った様子で、その日の夜は服にボールを入れて遊んでいたのを覚えている。


 「地下都市でも偉い人は太ってたよ。ロイムよりも大きなオジサンで。きっとロイムより歳上なんだよ」


 「イラハの食事とは違うんだろ。良いもん食ってんだ──」


 ロイムの言葉が不自然に、故障したロボットみたいに途切れた。目線は机の上の本の山に向いている。トキコも彼の目線を追ってみる。電子工学なのか、プログラミングか、心理学か人体解剖学かどれを見ているのか全くわからなかった。


 「どうしたの?」


 「ああ、いや……。無頓着に見えたが、お前も見た目気にするんだな」


 目を覚ましたように、そう言って軽く笑った。一呼吸遅れた会話に少し呆れて、ちょっぴり失礼でムッとする。


 「わたしだって可愛い服も着たいし、お洒落したいし……」


 「確かにその服はお前に地味すぎるな」


 ロイムはコーヒーを本の山の谷間に置いて、目を細める。

 トキコは今朝、シェイリに渡された飾りっ気のないグレーのダボダボワンピースを掴む。重たい生地が大きな鳥みたいにバサバサとはためく。ズボンも手を隠すためにもらった手袋も黒い。唯一、地下都市から履いてきた薄汚れた靴だけが真っ白に見えた。


 「それでも、地下都市よりは個性的。普段着と検査着だけだったの。わたしが着てたのは普段着。それぞれにデザインは違うんだけどね。わたしは一際地味だった」


 暗い色のノースリーブにスパッツみたいなショートパンツは、動き易いがどうしても可愛いと思えなかった。16歳になった時に、デザインが変わったんだ。カリンが好きな色を入れてあげるって言ったから、ピンク色とリクエストしたのだ。そしたらなんと裏地にしかならなかったのであった。

 あの後、関係のないツバメに文句を言ったら笑われたので軽い喧嘩になってしまった。仲直りを前提とした喧嘩をするなんて、幸せの渦中にいることにさえ気づかない。贅沢で無駄な時間の使い方をしていたと、トキコは歯痒くてスカートを掴む手に力がこもる。


 「ねえ、ロイム。わたしがツバメを迎えに行くのは無理なのかな……無謀で、独りよがりなのかな」


 「シェイリかハヤかウェルに何か言われたか?」


 「シェイリ……」


 「ああ……」


 案の定、といった感じでロイムは頭を押さえる。トキコは下唇を噛んで息を飲み、もう一度口を開く。


 「考え方が浅はかなのは認めます。わたし、気持ちだけで走りすぎてた」


 理不尽に怒られた時のこと──検査数値が悪いとか、ロロが嫌いなものを食べてあげたとか──を思い出しながら、口を尖らせた。


 「でも、やっぱりツバメが一番望むのはわたしだけが外の世界にいるんじゃなくて、ツバメだって一緒に行きたかったと思うの。それを叶えたいと思うのは、わたしのエゴなの?」


 言葉が途切れて、トキコの怒りのような悲嘆したような息苦しさが流れる。


 「俺はツバメのことは知らない。地下都市のことも。ただ──」


 ロイムの声は焼けたような、静かな声だ。専ら感情というものが焦げ落ちたみたいに、冷静で冷め切ってて。


 「お前と一緒に来なかったのは、どうしてだろうな」


 その一言はあんまりにも鋭くて、閉じ込めていた思考をこじ開けようとする。だって、来ようと思えばツバメだって──

 トキコはゾッと恐怖に似た感情が背中から這い寄るような感覚を覚えた。

 (わたしはツバメの気持ちなんてわかんないよ)

 そうか、シェイリは思考停止したわたしを馬鹿にしてるんだ。それなら馬鹿にされて怒りで誤魔化してる方が楽だな。冷静に言われたら受け止めるしかないじゃないか。


 「行かなかったのか、行けなかったのか。どっちだろうな」


 ロイムは純粋に疑問に思ってるだけなんだろう。目を閉じて顎に手を当てて考える素振りを見せる。


 あの場に残るメリットなんて、自由を得ることよりも重要な何かなんて、そんなものがあったのだろうか。それは嘘をついてまで、別れるほどのものなのだろうか。

 「もうやだ」とトキコは、唇が勝手に動くのを耐えて飲み込んだ。すると、言葉は口の中で勝手に反響した。当然、ロイムにはそんな言葉は届かない。


 「少なくとも、今のままじゃ不可能なことの方が多いだろ」


 「今のまま? じゃあ──」


 「ロイム!! ゲンが怪我をしたんだ!! ちょっと診てくれないか?」


 トキコの言葉は突然の声、ツルギの大声に呆気なく掻き消された。「すぐに行く」とロイムは立ち上がってコップもそのままで部屋を出て行く。本が振動でバラバラと崩れ落ちたがお構いなしだった。


 「いつかは、できるの……」


 トキコは泣きそうな声で、膝のマスクに向かって呟いた。

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