第40話

 シェイリが笑った奇妙な空気に、トキコはソワソワと落ち着かない。当の彼女は気にせず、タブレットを触っている。アイはまだ、ピタリとトキコの左腕にへばりついて離れようとしなかった。トキコは息を吸うたびに錆び臭い湿気が鼻について、肺を満たしていくのを感じた。

 地下都市の外に出てから2回目の雨だ。部屋の中まで、自然に支配されている。


 「シェイリ。わたしは、いつまで研究に協力するの?」


 トキコはマスクを膝に乗せ、表面を親指で撫でた。服もマスクも貰ってしまった。それだけじゃない。昨日なんて、ツルギは空き部屋を指して「トキの部屋にぴったりだ」と言って、はりきって片付け始めていたのだ。

 シェイリは顔も上げずに、答える。


 「まだ、7日しか経ってないけど?」


 「7日もいるよ」


 7日もあれば、何ができる? 筆記のテストなら3回。換気テストなら2回。筋力チェックは1回。検査だったら5種。運動場には2回行ける。それに加えて、勉強時間も取れるし、遊ぶ時間だって。本なら3冊くらい読めるかもしれない。7日経てば、初日に泣いていた子も馴染んでいた。

 それならきっと、トキコのいない生活にみんな慣れている頃。現にトキコだって、イラハの生活のペースに呑まれている気がする。

 地下都市の服はずっと着てないし、アイとミーヴィ以外からはトキって呼ばれるんだ。ツバメがくれた名前も、職員が便宜上つけた番号も、片付け終わったキッチンの残り香みたいに姿が見えない。

 地下都市のわたしと、イラハのわたしは同じなのに、違う人みたいだ。


 「それに、もっと言えば地下都市から出てきて11日も経つの」

 

 「じゃあ、アイと君は4日間だけなんだ。それなのにこの懐かれ具合は気色悪いね」


 にやりと意地悪に笑うシェイリに「そんなことないよ」と言い返そうと思って、やめた。アイとシェイリの仲が悪いのは7日間見ていて──ちゃんと見たのは5日間だけど──良くわかった。何を言っても無駄だ。


 「ふむ……でも、もともと人が好きなようにプログラムされてるロボットだし、トキも独り投げ出された身なら、アイを頼らざるを得ないし、自ずと共依存みたいな関係になるのかな」


 「トキコ以外、好キジャナイ」


 すかさず、アイは機械の声を張り上げた。絡む手に力がギュッと込もる。シェイリはちらりとトキコ越しにアイを見て顔をしかめて、「気持ち悪」と吐き捨てた。

 「それで」とシェイリはタブレットを膝に置いて、切り出す。画面には数字が表になっていて、その隣にビッシリと文字が敷き詰められている。


 「君はなんでそんなに日数を気にしてるの」


 「それは、早く地下都市に行かなきゃだし」


 時間制限があるわけではないのだけど、なんとなく早く行くべきだと、そう思っていた。

 シェイリは目線を斜め上に転がして、首を傾げる。


 「ああ。なんでだっけ……スルメ……? あ、カラスだっけ?」


 「ツバメだよ……」


 "研究"の合間にツバメの話をした。データや検体を見つめるシェイリの横顔に、記憶の整理をした。

 ずっと、初めてのことに頭の中が侵されて、ツバメが霞んでいく気がしていた。ツバメは、名前通りの渡り鳥みたいに記憶の果てに飛んで消えていくのだ。それは、あまりに悲しい。だから何度も何度も名前を口にして、思い出して、ツバメの輪郭を描いていた。

 ツルギからボンヤリと聞いたけど、イラハの人はお互いに詮索することをタブーとしていて、深く身の上の話をしないらしい。あまりに話を聞かれないから、トキコも体調が良くなるまではイラハの暮らしに専念することにしていた。

 シェイリは「ああ」と指を鳴らして声をあげた。


 「地下都市の子だっけ? 人体実験の毒の研究施設の。トキはそこから逃げてきて、ここまで来たんだよね」


 シェイリはタブレットの画面を暗く消して、考え事でもするように顎に手をあてて答えた。トキコはその答えに呆れてしまう。シェイリが覚えてないなんて考えにくいから、おそらく彼女は聞いていなかったのだろう。


 「なんか違うよ……人体実験でもないし、わたしは逃げたつもりはなかったし……。覚えてないの?」


 「興味ないことって頭に入らない質なんだ。君の冒険録も色恋沙汰もまるで興味ない。あたしが知りたいのは君の身体の仕組みと、君をそんな風にした施設の存在だけ。どう逃げてきたとか、なんで出てきたとか。そんなの調べるくらいなら、アメーバの無性生殖でも眺めてる方が楽しい」


 きっとシェイリは自分に呆れ返って笑った。彼女の流暢な言葉はトキコの無知な脳味噌に不愉快を叩きつけていく。


 「つーか、君って頭お花畑なんだね。あ、てか見たことある? 花畑?」


 相変わらずの、ニヤつく顔にトキコは目を背けて首を振った。アイはずっと手を握って、シェイリを赤いレンズで見つめていた。


 「口、悪イ」


 「無謀なんだよ。どういう思考回路を持ってたら戻ろうなんて思えるの」


 目線だけで見たシェイリは短く切り揃えた爪先で、自身のこめかみを指していた。そして、トキコよりもあまりに白いその手はこめかみから、トキコの頬へ伸びて軽く抓った。

 ゾッと背筋に悪寒が這った。


 「地下都市の場所は? 行き方は? 辿り着いたとして、侵入経路は? ノープランだけどとりあえず行ってみる……なんて浅はかなこと言ってない?」


 ど正論だ。どうしたらいいのかわからない。トキコは自分の浅はかさに胃袋がキュッと丸まってしまう気がした。


 「てかさ、そもそもツバメは君との再会を望んでると思う?」


 「……わ、わかんない」


 彼女がツバメの名前を口にすると、思わず眉間に皺が寄り、反射的に答えた。言葉というものを発したくないとでも言うように、口の中が乾いていた。

 その時突然、シェイリはもう片方の手も伸ばし、トキコの両頬を掴んで、顔を自分の方へ向かせた。努めて背けていた、シェイリと目が合う。「本当にわかんない?」と聞いた彼女の口角はまだあがったまま。


 「わ……わたしは、ツバメじゃないから……。わかんないよ、そんな……」


 トキコは目を泳がせながら、答える。そんなトキコにシェイリは「想像力がないなぁ」と小馬鹿にして、手を離した。


 「いや、それでも考えたんだよね。自分本位で都合よく。そこに、ツバメは、彼の意志は存在してるのかな」


 違う。違うんだよ。

 トキコは喉元に湧き出した言い訳を飲み込んで、カラカラの吐息を漏らした。

 ツバメの頭の中の思考という思考、構造を分解して読み解くなんてことはできない。それでもツバメとは10年近く一緒にいた。だから、彼がどんな人かくらいはわかる。少なくともシェイリよりはずっと知っている。

 ツバメがわたしと会いたくないなんてことは絶対ない。もちろん、また地下都市に戻ることはきっと望んでないのだろう。そのくらいはわかる。わかるから、どうしたらいいのかわからない。

 それなのに、どうしてシェイリは。


 悲しいのか腹立たしいのか、胃袋はひっくり返って煮えているけど、喉元だけが冷たくて、ぐるぐると目が回るようだ。目頭に不意に力が入って、きっと自分は睨んだ顔をしているとトキコは思った。

 だけど、シェイリにトキコの温度は全く届いていなかったみたいだ。肩を竦めて、「なんで何も言い返さないの」と鼻で笑うのだった。


 「そんなんだから、トキと話すのは本当に楽なんだよね」


 体の内側から「馬鹿にしないでよ」と声にならないまま叫んだ。それは体の中で跳ね返って、トキコの心臓のあたりを引っ掻き回した。そうして、肩から指先と足先の順に力が抜ける。

 悔しい反面、言い返せるほどの思考力もない、無知で自分本位な自分には呆れてしまうのだ。


 「サイテー」


 突然、アイは椅子から立ち上がり、目の前の本を引っ掴むとシェイリの体をバシバシと殴り始めた。もがくように声を上げて、腕で庇うシェイリなんてお構いなしに、何度も何度も。

 トキコはアイのそんな様子に驚いて、長椅子の彼女たちとは反対側に避難して、行く末を伺った。

 「良い加減にしろよ!!」とシェイリが怒ると同時にアイは本を彼女の顔面に投げつけた。シェイリの鼻からは一筋赤く垂れてきて、それを慌てて袖口で押さえながらアイを睨みつけた。


 「ああもう……2人とも!! なんでそう言われんのか考えろよ!!」


 涙目になったシェイリは珍しく感情的に叫んで、部屋をいそいそと飛び出していった。


 「ヒトツ、オマエノ、性格ノセイ」


 アイはポツリと呟いて、トキコの横にもう一度座る。そして、じっとトキコの顔を見たかと思うとゆっくりともたれかかってきた。


 「トキコ、アイガ、ツイテル……心配イラナイ」


 いつもの抑揚のある機械音。プログラムされた優しい言葉だった。でも、どうしてか、その声に元気がないと思った。

 トキコはそっと、アイの頭の傷痕を撫でてあげるのだった。

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