第39話
雨が降っている。ひび割れた空を水滴が叩きつけている。トキコはその音を聞きながら屋上の柵にだらりと倒れ込むように寄りかかっていた。そうして、指を組んで食事前の祈りを再現する。
自然のものを毎回食べられるわけじゃない。だから、食べられるたびに生き物たちに感謝して次も食べられますようにって祈る。イラハの人たちは命の循環に敬意を払っていた。
わたしはそんなこと考えたことなかった。食べることは当然の営みで、人間の権利だと、きっとそんな傲慢な考え方をしていたのだろう。
トキコは指を解いて、自分の右手をひらひらと眺める。灰色の町に暗赤色の手がよく目立つ。肉片のように生々しいのに、機械的で、他の人やロボットを見れば見るほど自分は異常だと思う。
そのまま目を閉じると滞ったイラハの生温さが、身体中を掴む感覚に陥る。そうか、ここは地下都市と同じで、自然に風は吹かないんだ。
「トキコ」
不意にアイの声がした。むくりと体を起こして、振り返るとアイは洗濯物で山積みの籠を抱えていた。ミーヴィはもうすでに干し始めていた。2人が来たことに、全く気がつかなかったのはきっと雨音のせいだった。
「オ洗濯、終ワッタ」
「うん、手伝うね」
トキコは背伸びをしながらミーヴィが干す横で同じように、防護服を干す。物干し竿に届かないアイはミーヴィに洗濯物を渡して手伝っていた。
防護服は分厚い布が三重構造になっている。水を含んでずっしりとしている。他にも、イラハの中でもみんな肌を出すような格好はしないため、一つ一つの服は大きく、トキコの着ていた地下都市の服に比べて随分とこれも重たいのだ。
ワッペンだらけの服はシェイリのものだ。防護服だけどスカートみたいなデザインで、ずいぶん可愛い。だけど、そのワッペンの中の一つ、落書きみたいな星のワッペンが剥がれかけているのに気がつく。よく見ると、ワッペンの下の防護服は──三重構造になってる布全てが──切り裂かれたように破れていた。
「ね、ミーヴィ。防護服が破れてるよ。これじゃ危ないよ」
ミーヴィは手を止めて、トキコが渡した防護服をじっと見た後に、左手を突き出す。そこからふわりと文字が浮かぶ。
──気づいてくれてありがとう。乾いたら直しますね。
ミーヴィはシェイリの防護服を他の服と離して干した。6人分の洗濯物を干すと、屋上はまるで布の森みたいだ。
「午後カラ晴レル。洗濯物モ、オヒサマゴハン」
アイが籠を頭に抱えて、トキコに擦り寄った。
「うん、よかった。晴れてくれたら嬉しいね」
シェイリの研究の協力とやらで、あまり外出はしない。やることといえば、ミーヴィの手伝いをしたり、時々ツルギと散歩して、町の人の困りごとに首を突っ込む。トキコにできるのは拾ってきた箱が開かないとか、鉄屑を溶かす前に小さくして欲しいとか、そう言った力仕事ばかり。2日間、そんなことをしていたら町の人にはすっかり名前を覚えてもらったし、ちょっとずつ話をするようになった。ツルギはそのうち町の人全員の名前とプロフィールがわかるようになると笑った。イラハには40人程度しか人がいないらしい。
トキコはミーヴィについて、階段を降りた。何かやることはないか尋ねると首を振ったので、アイと一緒にリビングへと向かった。ロイムとシェイリとツルギは仕事中。ウェルもなんの用事か知らないけど、怠そうな顔して今朝からふらふらと出かけて行った。
トキコはアイと並んで椅子に座り、テーブルにあった本を開いてパラパラとめくってみた。アイもその様子を見て真似るように本を手に取って眺めるが、きっと彼女は読む気なんて更々ないのだろう。文字も図も逆立ちしている。
基本的にロイムとシェイリの本だから医学書や衛生学や環境理論なんかの本ばかり。それに混ざってツルギのだろうか、機械系の本も置いてある。トキコにとってはどれも頭が痛くなりそうな文字の羅列だ。
不可解な四角から無数の線が伸びている図形は、地下都市の子供たちが描いていた不思議な架空の生き物に似ていると、目を細めていた。そんな時、不意に「本なんか読んでんの」とシェイリの声が飛び込む。
「見てるだけ。わかんない」
トキコの顔からへらりと力が抜けた。テーブルに本を戻すと、アイも同じように本を置いてトキコの方へピタリと体を密着させた。赤い目線だけはジッとシェイリを捉える。
「その辺の、古いから信憑性あるかわかんないんだよね」
シェイリは少し苦い顔をして、アイとトキコの順番に瞳を動かして、ふっと鼻で笑った。その時、ちょうどシェイリが腰に手を当てた時、彼女が何か黒っぽいゴツゴツとした皿みたいなものを持っているのに気がついた。だけど、見慣れないものを見るのは珍しいことじゃない。トキコは特に気にも止めず分厚い本の表紙を横目で眺めた。
「じゃあどうして置いてあるの」
「当時の考え方の指標になるでしょ。本当に信じてたんだって。それに、いつ電気の供給がなくなるかもわからない。そうなったら知識は紙媒体しかなくなるの」
「そうなったら、知識の前に毒で……」
そう言って、口を噤んだ。
シェイリは何も気にする様子なんてなく、トキコの隣に座って笑顔を見せる。そして手に持っていた掌ふたつ分の塊を突き出した。
「マスク?」と、トキコは受け取って、暗いグレーの表面をなぞる。目元にはゴーグルと口元には丸いフィルターが付いている。フルフェイスではなくて、お面みたいな形だ。太いベルトが付いていて、後頭部と耳裏でしっかり固定できそうなデザインだ。シェイリは「着けてみてよ」と半ば強引に手を出し、トキコにマスクを当ててベルトで固定した。
ベルトにあたるため髪を高い位置に結い直し、キリキリとマスクは顔に押しつけられる。顎周りは特に頑丈ですっぽりと覆われた。だいぶ苦しい。
「キツいけど、このくらいしないと危険だからね。フルフェイスメットみたいなのは簡単で楽だけどコスパがよろしくないの。だから、君は耐性もあるしこっちで我慢してね……って、めっちゃ似合う!!」
ペラペラと説明調に喋っていたシェイリはトキコのマスク顔を見るなりケラケラと笑い出した。あまりにシェイリが笑うものだから、「顔なんて見えないのに」と、トキコもつられて肩を竦めた。
「ほら、笑った。笑わせるなんておこがましい。やっぱり一緒になって笑わないとさ、ダメなんだよ」
「なんのこと?」
「理論や根拠はないし、統計もとったことないけど経験上の話」
シェイリが誇らしげに笑っている。その反対隣でアイは突然立ち上がりトキコのマスクを緩めて外した。緩んで顔から落ちそうになるマスクを、トキコは慌てて手に取り、ゆっくりと外した。呼吸が楽になる。
「トキコ、マスク……必要性」
「ロボットなんだから少しくらい計算して答えを出したらどうなの」
アイはプイとそっぽを向いて少し乱暴にトキコの隣に座り直す。どしりと振動が椅子からトキコの体へも伝わった。そんなアイをシェイリは不服そうな目線で一瞥し、わざとらしく心配そうな顔して、トキコの顔を覗き込んだ。
「ツルギが気にしてた。食事になんて連れてったから、泣かせたって」
「ツルギが?」
反射的に驚くように声をあげたが、ツルギが心配するのは不思議でもなんでもない。あの後もやたらと散歩に誘ってくれたのは、ただイラハを紹介したかっただけではなかったのだろう。
「あいつ良い子でしょ? あたしはトキが食べられるきっかけになって良かったなって思ったけど」
シェイリは悪魔が嘲笑うみたいに口角を上げ、トキコの真っ赤な右腕を手に取った。拗ねたように黙っていたアイはトキコの腕にギュッと絡んで、シェイリを凝視する。
「だって、その方が丈夫になるでしょ?」
「異端……サイコパス」
シェイリの言葉にアイはすかさず反応して、トキコを自分に引き寄せるようにトキコの腕を抱きしめ、反動で赤い腕はシェイリの手からするりと抜ける。シェイリはニヤリと笑って「お互い様だよ」と笑うのだった。
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