第37話

 「元気ない……」


 トキコはボソリと呟いた。

 目に見えてわかる。力なく息をするだけの生き物にキュッと胸が締め付けられるような気がした。こんなにかわいそうなのに、トキコは撫でることもできなくて、彼らの早い呼吸と虚ろな瞬きをじっと見つめていた。そうやって自分の右手を握って唇を噛んでいると、トキコの斜め後ろから手が伸びてきて箱をテーブルから引きずり、ウェルと一緒に来た男が乱暴に抱えた。トキコは驚いて腰を抜かすように座り込む。その間に男は「あとは任せろ」って眩しく笑って数人でその場を離れた。

 ウェルは嬉しそうにニッと笑ってそれを見送り、ツルギの横に無理やり座り込んで、棒状の紙──煙草っていうらしい──を咥えた。


 「あの子たち、どうなるの?」


 トキコはゾワゾワする胸を落ち着けようとしてツルギに聞いた。だって、病気や怪我をした生き物に対して、ちょっと扱いが乱雑で酷いじゃないか。

 確かに、アイもトキコへの扱いは乱雑ではあったけど、それでも助けようという意思──というかプログラムだろうか──は見えたのだ。でも、彼らは宝物を見つけた御伽噺の海賊みたいに熱気を帯びて沸いたのだ。これじゃあまるで──

 ふふん、とツルギはご機嫌に鼻を鳴らし「バラすんだよ」と何でもないように、いつものことみたいにそう言った。トキコはその言葉に理解できなくて、いやきっと理解したくなかったから呼吸が止まった。凍結したような頭から冷たく汗が伝って、ウェルが吐く白い空気に視界が霞んだ。


 「ヤグラ兎は捕まえるの大変だからな。余すとこなく食いたいだろ」


 「食うって……え……なに……どういうこと?」


 「そっか。お前、管理下から来てるもんな。野生動物は食ったことねえか」


 ツルギは目を丸く開いて、閃いたように的外れなことを言った。当然、あの魚の件を除けば野生動物なんて食べたことはない。


 「もしかして……殺しちゃうの?」


 恐る恐るトキコは聞く。どうか、どうか今更でも否定してほしい。知能の高い人間が、そんな野蛮で残虐なことするなんて間違いであってほしい。

 そんな願いをツルギはやっぱり吹き飛ばすように無邪気に笑って、それはもう最も簡単に、あっさりと肯定した。


 「殺さずにどうやって食うんだよ」


 トキコの気が狂いそうなくらい満面の笑みだった。その横でウェルがさっきの笑顔が嘘みたいに顔を顰めて、トキコを睨みつけた。そんな顔、いつもなら怖くて、たじろいでしまうが、それ以上にツルギの笑みが狂気じみていて恐ろしかった。

 身体中の血が重力に向かって落ちていき、冷え切ってしまう。今きっと鏡を見たら、トキコの顔は真っ青になっているだろう。そんなの、ツルギは知る由もなく、ニコニコと大きなテーブルの方を指差す。


 「そこに座ってる半分くらいは狩人だ。基本的には血抜きまで全部やって持ってきてくれる。兄ちゃんたちはそれを調理するんだ」


 トキコは振り返りもせず、じっとキッチンの鍋からもうもうと上がる湯気を見ていた。あれはいったい何が入っているのだろう。


 「体内の毒は死亡直後から低下していくから、調理する頃には安全に食えるんだ」


 ツルギの歯がちらりと覗く。犬歯がよく目立つ八重歯だった。これじゃ、まるで人間さえもが猛獣だ。


 「例えばあいつらが食ってるヴッカって生き物なんて、外で囲って家畜みたいにしてるから定期的に食えるんだ」


 鍋からレードルが上がる。茶色っぽい汁がボタボタと鍋の中に落ちている。レードルは汁をボウルの中に運ぶ。注がれている様子は、調理器具で丁度見えないが、今度はボウルから湯気が立つ。


 「ヴッカと似た奴なら食ったことあるんじゃないか? 四足歩行の角があって……ウシ科の生き物なんだけど。全身くまなく食えるんだ。皮も加工できて……」


 トキコは慌てて首を振った。そんなの知らない。食べたことはないんだから。肉を食べてたのはわたしたちが生まれるずっと、ずーっと昔の話なのだから。

 ツルギが眉間に皺を作って、怪訝な顔をする。それに少しまごついて、目を逸らした。


 「なら、また食ってみるといいよ。舌と内臓も美味いんだ。肉は岩塩だけで十分いけるし。意外と目玉が珍味で──」


 ツルギの話に目が回る。内臓が全てひっくり返ってしまいそうな不快感を覚えた。

 そんなときに、視界のど真ん中に透明で茶色いスープの中に黒っぽい塊がどんと現れた。

 

 「顔が真っ青だよ。調子悪いんじゃない?」


 ハヤがテーブルの真横に立っていた。心配そうに眉を垂らして、トキコの顔を覗き込む。トキコは首を振って答えた。


 「本当だ。ごめん、トキ。気づかなかった。大丈夫か?」


 「サイコ女のせいで貧血なんだろ。食えば治る」


 ウェルが不機嫌な顔して舌打ちし、煙草を地面に捨てて踏みつけた。


 「……そうだね」


 ハヤはちらりとウェルの方を見ると軽くため息をついて、ボウルの側面にそっと触れた。


 「これはルサルーって言って、細くてツノのある動物」


 頭の中にふと、森の中を横切ったほっそりとした茶色い四足歩行の生き物が浮かんだ。アイが捕まえようとした生き物。跳ねるように緑の中に消えていったんだ。


 「鹿さん……?」


 「そう、シカ科の動物。本来は硬い肉なんだけど、秘伝の方法で柔らかくしたからさ。食べやすいと思うよ」


 そう言って、ハヤはフォークの三又の方をスープの中に沈めた。スープはゆらゆらと波打って、きらりと光る。いつだったか、魚もこんなふうに光っていたのを思い出す。

 ツルギにも同じものが用意されていた。ツルギの分の方が少し多い。ハヤはツルギにフォークを手渡すと、ツルギはフォークを握ったまま指を組んだ。そんな彼からウェルがフォークをとりあげて「真面目にやれや」と嗜める。

 そのやりとりに少し、気を取られたがすぐに頭の中は目の前におかれた鹿の死体の破片のことでいっぱいになる。


 「俺にはなんかねえの?」


 ウェルは立ち去るハヤに気怠げに言った。


 「ヤグラ兎は?」


 「待てるかよ」


 「ちょっと待ってな」


 2人の会話の横でツルギは肉片をフォークで引きちぎり、突き刺し、口に運んで顔を綻ばせた。肉片が咀嚼されてぐちゃぐちゃになっていくのが容易に想像できる。


 「兄ちゃんの飯、基本美味いけど当たり外れあるんだ。でも今日のはまじで美味いから早く食ってみろよ」


 そう言って2口目を口にする。ウェルはテーブルに頬杖をつき、指先で膝をリズミカルに叩く。イライラした様子で、鋭くトキコを見ている。

 トキコはなるべくウェルの方を見ないようにして、幸せそうなツルギに問いかけた。口の中が渇き切って粘着いてしまい、上手く呂律が回らない。


 「ツルギ、ここではこれが普通?」


 トキコはドキドキと打ち付ける心臓を押さえつけるようにして、ツルギが2口目の肉片を飲み込むのを待った。

 ごくりと喉が鳴り、ツルギは純粋な目を更に丸くする。


 「なんのこと?」


 その一言だけで、十分にこれが当たり前の営みで、自分が如何に場違いかがわかった。人間がいるから安心していたけど、ここは自分が来ても良いところではなかったんじゃないかと、そう思ってしまったのだった。

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