第三章「生きている人々」
第30話
暗い水の中にいるみたいだ。どんどん沈んでいく。水の底はいつか見た宇宙で、星のように見えるそれはクリーチャーたちが蠢いているのだ。そこで彼らは人を殺す毒を吐いている。わたしの周りには赤い血が薄い布みたいに揺蕩う。まだ体温が残っている……。
ツバメはどこにいるのかよくわからない。
目を開けると見知らぬ顔があった。気の強そうな女の子だ。小さなタオルを持って、トキコの顔を覗き込んで目を大きく開いている。
「あ、起きた」
彼女はいたずらっぽくニッと笑う。可愛らしい顔立ちだが、あまり安心できる笑顔じゃない。トキコは少し怖くなって、布団を掴んで目を細める。
そういえば布団で寝ている。服も見知らぬ白いシャツになっている。いったい何がどうなって、この状況になったのだろう。
「だ、だれ?」
トキコは声を震わせて、おそるおそる尋ねた。じっとりと額や背中に汗をかいていた。
「あたしは──」
「トキ、起きたか?」
彼女の言葉に被せて男が彼女の後ろから顔を出し、声をかける。二人ともトキコやツバメと同じくらいの歳の子だ。
「ちょっと、黙ってなよ。あたしが話してんだよ」
「お前だけずるいぞ」
女の方は男の頬を押し除けて、トキコの方を向く。彼は好奇の目をしたまま、少し不服そうに唇を尖らせて彼女の隣に立って黙った。
「あたしはシェイリ。で、こいつはツルギ……ついでに、あそこに座ってるのがウェルで、あの子がミーヴィね」
シェイリは一人ずつ指差していく。まず隣の少年をツルギと言った。無造作な髪をした、シェイリより少し幼い印象の少年だ。ツルギの後ろ、部屋はそんなに広くない。壁一面が棚や収納スペースになっており、ごちゃごちゃしている。そんな部屋のど真ん中に低い長椅子とテーブルが向かい合って置いてある。テーブルの上も椅子の上も服や本やその他見たことないもので散乱しており、ウェルはその椅子のわずかな空きスペースに大股と口を広げて寝ている男だった。そして、ミーヴィと言って差したところに人はいない。銀色のつるりとした背の高い人形がいた。棚をくり抜いたように設置されているドアの前で立っている。
これは、ロボットだ。
「アイちゃんは……どこ?」
トキコは起き上がった。身体中が痛い。背中も肩も怠く痛む上にヒリヒリと刺すような痛みが何箇所にも走った。思わず顔をしかめたが、口には出さなかった。少しクラクラと目が回り、目の奥と頭がズキンと痛くなる。視界がジワジワと黒くなるが布団を掴んで耐えた。
「大丈夫かよ、起き上がって」
ツルギが心配そうにトキコの背中に触れた。久しぶりに人の体温を感じた気がする。
「アイなら、後で会わせてあげる。今は君の体が優先。水、飲める?」
差し出されたのは銀色のカップに入った水だった。トキコは言われるがままにコップに口をつけた。温く、鈍い味の水がカラカラの舌を流れ、喉を通り、満たして潤していく。
「どうして、わたしのこと知ってるの?」
空になったコップを受け取りながらシェイリは答えた。
「まず大事なことから説明するから」
シェイリがツルギの手を払って、ミーヴィにロイムを呼んでくるように言っていた。ミーヴィは言葉を返すこともなく、くるりと向きを変えて扉から出て行った。静かに閉まる灰色の扉を眺めていると、気味の悪さが腹の奥から湧いてきて、身震いした。アイならもう少しくらい反応を見せる。頷いたり、返事をしたりして、もっと人間味が溢れている。ミーヴィはまさに作業のために作られたロボットなのだろうか。
ミーヴィを視線で見送った後、シェイリはコップを机に置いて、こちらを向いてベッドに座る。トキコの額に触れて「熱下がったね」って嬉しそうに言った。
シェイリは頬に手を当ててうーんと唸る。
「さて……何から言おうかな……。トキはまるっと2日間寝ていたんだけど、何か覚えていることはあるかな?」
「……森……森の中を歩いた……」
雨がやんで、水をいっぱい含んだ湿っぽい木々の中を歩いていた……気がする。朦朧とする中、泥の匂いと、首が焼けるように痛かったのを覚えている。
「それだけ?」
「それで……アイちゃんに歩けないって言った気がする……そこからは、なんだろう……アイちゃんが抱えたのかな……?」
アイが連れて行ってくれたのはわかる。詳しいことはわからないけど、とても揺れていて、頭がガンガンと痛かった。
座った状態のシェイリは少し前のめりになっていく。
「そう……。トキはどこを目指していたの?」
「え……っと……小規模都市……。そこへ行ってからこの後どうしようかって思ってたの」
ふんふんとシェイリは目を輝かせる。こんな話、面白いのだろうか。その後ろでツルギが呆れたようにため息をついた。
「何が説明だよ……まるで尋問じゃねえか」
「トキを無駄に混乱させたくないの」
「アイが見たら切り刻まれるぞ」
アイちゃんはそんなことしないよ……とムッとして言おうと思ったが、ここ数日の様子だとそんなふうに言い切れないなと、唇を噛んで言葉を飲み込んだ。
「トキが歩けなかったのは、バイ菌のせい。怪我して森の中歩き回って雨にも濡れりゃ、体も弱るよ。水も食事もあまり摂れてなかったみたいだし」
つまりは、病気になったのだ。地下都市で、サヤが熱を出して寝込んだことがあるのを思い出す。頬が赤く熱そうに見えるのに寒い寒いと泣いていた。あの時は意味がわからなかったが、なるほどこういう不快な感覚を味わうのか。あの時は職員がすぐにサヤを隔離してしまった。
「今まで、病気なんてしたことなかったのに」
シェイリの女の子にしてはしっかりとした手がトキコの黒髪を掻き上げ、クスクスと笑う。
「病的なまで異常な思考をお持ちみたいだけどね、君」
「どの口が言うか」
ツルギがポソリと吐き捨てるように呟くが、シェイリはまるでロボットの機械音でも聞いてるみたいに反応しなかった。シェイリがどんなつもりで言ったのか分からなかったが、トキコは黒くて重たい石に押し潰されるみたいに不愉快で堪らなかった。
「ああでも、そもそも、ここには頭のおかしい奴しかいないね」
シェイリが高らかに笑った時、扉がギリギリと不愉快な音を立てて開いた。ツルギが「おせーぞ」と文句を言う。
扉から入ってきたのは背の高い男だった。薄く髭の生えた中年男性だ。彼の鋭い視線と目が合うと、氷に亀裂が入るみたいに、トキコはピシリと身構えた。彼は、地下都市で一際偉そうにしていた大人と背格好と薄汚れた白い服がよく似ている、気がする。
険しい顔の彼は巨大な体でずいずいとトキコに近づいてくる。部屋に散らかる服や本なんかの、様々なものが震える気がした。その後ろをミーヴィが静かについてくる。
「ひと段落したの?」
シェイリが彼の顔を見上げて、何気なく立ち上がった。彼はシェイリの方に目線を落とす。トキコは布団を僅かに引き寄せるようにひっつかんだ。
「ああ、トキ。目が覚めたようだな」
低い声に心臓が潰れた……気がした。声が上手く喉を通らなくて、ヒュウヒュウと空気がか細く抜けていく。
「……俺は、ロイム。一応、医者みたいなことをしている」
ロイムはそう言いながら、トキコに目線を合わせるようにしゃがんだ。
彼を見ていると、痛くないはずの頬がヒリヒリして、口の中に血の味が広がった。トキコは必死に目を逸らして、自分の赤と白の手を見た。小さく震えている。リボンが消えているのに気がついたがそれどころじゃなかった。
「トキ、彼は悪い人じゃないよ。人相が悪くて、口調と人遣いが荒いけど」
シェイリがそう笑ってトキコの横に座り、手をギュッと握った。そのおかげか、硬くなった喉がほんの少し解れた。俯いたまま「ごめんなさい」と掠れた声で絞り出す。
「構わない。傷口はシェイリに見てもらえばいいか」
「さっき見たけど赤みはそこそこ引いてた。膿も出てきてないし。熱も下がったっぽい。順調そう」
シェイリはトキコに寄り添ったままロイムを見上げて笑っている。ツルギがロイムの後ろで心配そうに眉を潜めていた。
「ロイム、ご飯どうする? あたしたちと同じで大丈夫かな?」
「選べるほど食べ物はないだろ──」
ロイムはため息混じりで答えたその時、ドアが突き破られたような勢いで開き、小さな塊飛び込んできた。それは、ドアのちょうど前の椅子で眠るウェルに突っ込んで、転んだかと思うと呻いた彼の腹の上で四つん這いに素早く起き上がった。
一目でわかった。アイだ。白いリボンをツインテール(左)に巻きつけて、ピンクのワンピースを着ていて、目が合うと相変わらずの無機質な声で叫んだのだった。
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