第27話

 ぐったりとしてトキコは起き上がることもない。呼び掛けても返事はなく、荒く息をするだけだった。

 アイはトキコの左手に触れる。

 トキコの体温は三十九度を上回っている。呼吸数も一分間に三十回を超えている。脈も速い上に、全身にできた傷口は赤く腫れ上がっている。また、今朝は嘔気も見られ、水分さえ、ろくに摂取できていないところを見ると脱水を起こしているはずだ。

 原因は連日の疲れ、栄養不足、雨に濡れたことで免疫力が低下……その上、創部の処置もできないままに森の中を歩き回った故に、感染のリスクは十分にあった。立っているのも、高熱と脱水でおそらく辛かったはず。トキコの体は一般的な人間より丈夫に見えたが、それでも細菌には勝てないようだ。


 トキコを救うために、アイができることはいち早く救護施設へ連れて行くことだ。アイならトキコを抱えた状態でも継続して時速一〇キロで進める。

 大釜までなら二時間程度で到着できる見込みだ。

 アイは、トキコを背負って都市部へと向かうことにした。


 懸念されることとしては、住民登録がされていないトキコをどうやって治療に漕ぎ着けるかということ。そして、大釜に行く途中の廃墟都市にはおそらく残留機械がいる。大半は大人しいのだが、同じロボットであるアイを敵と認識することがある。

 廃墟都市は一度、彼の好奇心に付き合って散々な目にあったことがある。それ以降は立ち入っていない。巨大な残留機械にさすがの彼も参ったようだった。


 彼……。彼とは一体誰だったろうか。


 また、バグで閉ざされた空白のメモリーがアイのプログラムを途切れさせる。


 ひとまず、行こう。治療のことも廃墟都市のロボットのことも、行った先の状況に応じて対処していくしかない。


 アイは、砕け散った道を自分の持てる力全てを使って走った。走ったとて、大したスピードにはならないのだけど、一秒でも速く進みたかった。

 いつしか木々が開けて、草木に飲まれた線路を見つけた。予想通りだった。アイはそのまま線路に沿って走り続けた。あたりはかつて人々が暮らしていた集落で、それなりに住みやすいように栄えていた。だけど、今はそれも全部朽ち果てて大地と緑に侵されていた。


 数十分走り続けると、いよいよ木々も開け、そり立つ崖にかかる橋の前で立ち止まった。錆び付いた鉄道橋だ。その全長約五〇〇メートルの橋を渡り、その先は景色ががらりと変わり、都市の廃墟となる。順調に進めている。

 狭く古い金網の道をアイは踏みしめて再び走り始めた。想定以上に耐久性はあった。さすが、鉄道を乗せていただけある。吹き抜ける風が頭部の情報端末──ツインテール部分──を揺らし、足を取ろうとするが、バランス感覚に優れたアイにとって問題にはならなかった。

 アイは金網の隙間から下を見る。この崖の下は昔は大河だったのだろう。今はほとんど枯れ果ててゴツゴツした岩肌が見えており、最下層の中央には小川のように水が一筋流れている。橋から下まで正確な高さは計測できそうにないが、少なくとも落ちたらトキコもアイも原型が無くなるであろうことは確かだ。


 橋の中央を過ぎて残り一五〇メートル。アイにアクセスしようとするデバイスを確認した。一つはただの存在確認、もう一つはハッキングをかけようとしているのか解析されている。ある程度のハッキングへの対策はしてもらっているが、足場の悪い鉄橋で高熱のトキコを背負っているという最悪の状況で不具合が起こるのは非常にまずい。

 最優先は、思考プログラムへのハッキング対策の修正と橋を渡り切ることだ。


 だけど。橋の先にトキコの敵であるチカトシが待ち受けている可能性がある。そのチカトシがアイにハッキングをかけていたら、アイがチカトシのロボットになってしまったら、トキコはそこで終わる。

 体調不良もあるのだが、そもそもトキコは生きるという意志が一貫してない。そんな人は一人じゃどこにも辿り着けないのだから。アイが守らないと生きていけないから。


 残り百メートル。

 警告音が三回短く鳴り響き、アイは反射的に立ち止まった。背部で、トキコがか細く唸る。

 この音は、これ以上立ち入ると攻撃するという合図だ。ハッキング対策と橋の突破を優先していたため、もう一つの、アイの存在を認識するデバイスへの存在の対処ができていなかった。この警告音はそいつが鳴らしているのは明らかだ。

 どうする。このまま進むのは危険だろうか。もともと命令に従うのがロボットだ。最善が明確じゃない場合の選択は苦手だ。でも、引き返したらトキコの容態が悪化して、手遅れになる可能性が高くなる。トキコはアイだけじゃ救えない。

 体内温度が高くなる。処理が追いつかなくなって、オーバーヒートを起こしてしまう前に判断を下すべきだ。


 進む。彼ならそうする。判断ができないのなら彼の思考を借りるしかない。


 アイは金網を踏み締める。金属がぶつかり合う音が乱れたリズムを打った。警報音が再度鳴り、アイの金属の体を震わせた。

 五十メートル先に要塞のガーディアンタイプの兵器がいた。橋の袂で、守るものなんて何もないのに向かうものを攻撃する。人間の言葉で言う間抜けで可哀想なロボットだ。

 あと三十メートル。アイの真横に一筋、光線が走る。アイは、トキコをギュッと支えて、金網の足場を飛び跳ねて柵を超えて鉄骨の上に着地し、足を止めずに走った。

 あと二十二メートル。光線が走った部分がスッパリと綺麗に断裂した。橋の支点がずれてアイの足場もグラグラと歪み、砕けた鉄塊はアイの後方あたりから崖の底に吸い込まれるようにバラバラに崩れていく。アイの立つ、この鉄骨も例外じゃない。アイはただ、駆け上がるしかなかった。

 残り十六メートル。警報音と共にアイの前方二メートルに光線が横切った。アイは鉄骨が落ちる前に空中を駆け上った。対岸から五メートル程度の橋は壊れずにまだ突き刺さっている。あそこまで行ければきっとなんとか落ちずに済む。

 だけど、速度も計算も間に合わない。効率の良い進み方がわからないまま、アイは目の前に落ちる橋の一部だった鉄塊の足場を必死に踏みつけて渡り跳ねた。


 対岸まで八メートル。目の前に足場が無くなった。右手で背負ったトキコを支えて、アイは鉄塊を凹ませるほどの強さで蹴って左手で二メートル先の鉄骨を掴もうと手を伸ばした。このまま落ちたら二人とも終わるから、失敗はできない。


 指先が届いた……のに。もう少し強く足場の鉄塊を蹴っていれば届いただろうか。そもそも、もっと速く走ることができたら良かったのだろうか。

 

 鉄骨に傷一つつけられないで、アイは膝とお腹から落ちる。せめて、トキコだけでも守れないか。上手く衝撃を和らげてあげれば……ああでも、アイがいないこの場で、深い無機物の谷底でトキコが生き残れる可能性なんてゼロに等しい。


 ──ゴメンナサイ、マモレナイナンテ、情ケナイ──


 ガシャリと鈍く重たい音と、衝撃が走った。

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