第23話

 朝は無情にやってくる。空は相変わらず灰色の曇り空で、空気は今までにないほどに重たく淀んでいる。

 木下で眠っていたトキコの髪や体には土や草がたくさんひっついており、バタバタと叩いて払い落とした。剥き出しの手足には打ち身と擦り傷が多い。血は止まって汚く固まっている。


 頭は酷くガンガンと痛む。食欲なんてないのにお腹はぐるると悲しそうに鳴いていた。食料はまだたくさんあったはずと思った矢先に、カバンは崖の上のロロの所に置いてきたことを思い出す。

 ロロが悪いとか、アイが悪いとかは自分にはわからないし、考えたくもないが、どういう形であれカバンを失くしてしまったのは痛手だった。水や食料が詰まったあれは生命線でもあったし、なによりツバメがトキコにリボンと一緒に最後に贈ったものだった。


 トキコは深いため息を吐いて、ひとまず近くにあった水溜まり──泉から水をすくって気が済むまで飲んだ。泉の中には手足がなく、平べったい不思議な魚と呼ばれる生き物がいた。こちらに近寄ってくる様子はなく、時々キラリと光らせて滑らかに水の中で動いている。

 アイはトキコの隣でパシャパシャと水を弾いている。そういえば海でも似たようなことをしていた。

 昨日まで小さな子供みたいで可愛くも見えていたアイなのに、今は無機質で少し怖い。


 トキコは血と土で汚くなった足を洗おうと裸足になって泉に足をつけた。ひんやりと気持ちがいい。

 ズキズキする傷口周りにそっと指を当てて固まった血を流していく。赤くうねりながら、水に呑まれていく血を、ただ呆然と眺めていた。


 「トキコ、カニ……見ツケタ」


 唐突に、アイが言う。足を水につけたままアイを見ると、アイの大きな手には小さくテカテカと光る赤いような黒いような粒がよちよちと動いていた。


 「カニ……?」


 カニには足のようなものが何本もあって、二つだけ異様に大きく、それには二つの指がついている。地下都市にたまに入り込んでいた蜘蛛に形は似てなくもない。

 トキコは恐る恐る人差し指を差し出して触れてみようとすると、カニは二つの指でトキコの指を挟んだ。痛くはなかったが、驚いて手を振ってしまい、気づくとカニはどこかへ飛んでいってしまった。


 「今のが……カニ?」


 トキコは息をついて、聞く。アイは泉の反対の鬱蒼とした木々の方を向いていた。あっちの方にカニは行ってしまったのだろうか。


 「カニ……食ベヨウト思ッテタ……」


 「あれを食べるの!?」


 首筋がゾッとして身の毛がよだつ。赤と黒の、何本も細い脚があるあの蜘蛛のような生き物をアイは食べろと言うのか。冗談でも笑えない……というよりむしろ冗談であってほしい。


 「ウン……トキコゴハン……モウナイカラ……。アイ、トキコゴハン探ス」


 アイはそう言うと泉の中にバシャバシャと入っていった。トキコは拭えない不安を残したまま、冷えてしまった足を水から出した。こちらも拭くものがなかったと、軽く足をバタつかせて水を払い、草の上に足を置いた。

 足先はだいぶ乾いて、トキコが靴を履いていると、アイが銀色の塊を両手に泉から上がってきた。


 「ゴハン」


 バラバラとアイは草の上に、その銀色の塊を落とした。それはビタビタとその場を体をうねらせて跳ね回る。

 あまりの奇妙さにトキコは絶句し、アイと塊たちから数歩離れて、木の陰に隠れた。


 「トキコ……オ魚サン」


 「クリーチャーだよ!! アイちゃんそれ絶対危ないやつ!!」


 魚がこんな気持ち悪い動きをするわけない。今にそのギンギラに光るそこが裂けて、カニの脚みたいな物が無数に出てくるに違いない。そしてそれはトキコの体をサワサワとよじ登ってきて、顔に噛みついてくる。そんな生き物をゴハンにするなんて、アイは水に浸かって壊れてしまったのだろうか。もしかしたら、銃で撃たれたり、わたしが思いっきり頭を掴んだせいだろうか。


 昨日の思い出が駆け巡り、トキコの心臓はバクバクと暴れ出す。そうしてる間にアイは、手を変形させて、飛び跳ねるクリーチャーのようなものを焼き始めた。跳ね続けたクリーチャーたちは激しさを増したかと思うと、だんだんと動かなくなっていく。ツヤツヤとしていた体はいつのまにか黒ずんで湯気を立たせていた。


 「トキコ、ゴハンデキタ」


 アイが言うお魚さんは呆気なく死んだようだった。アイは魚の焼身死体をトキコに差し出して続ける。


 「ダイジョーブ。アイ、食ベラレルノ、食ベラレナイノ、判別デキル」


 トキコはビクビクしながら、アイに近づく。

 魚はぴくりとも動かず、ブスブスと焼けた臭いを漂わせていた。


 「た、食べるって……これ……さっきまで生きてたのに……そんなの残酷……」


 「命ハ……命ヲ食ベナイト、死ヌ」


 命を食べる? アイは何を言っている? 人間は野生動物じゃないのに、死体を食べるなんて残酷な上に気持ちが悪い。


 「人間が食べるのはそんなのじゃないでしょうでしょう。アイちゃんは知らないの?」


 地下都市で、ご飯の時間になると職員が配ってくれる。ビスケットだとかクッキーだったり、サプリメントやゼリーにスープもある。確かにタンパク質といって肉も食べるが、あれは合成といって何かを殺めているわけじゃない。共通していることはどれも、特別美味しいとは言えないということだった。


 「トキコガ何ヲ食ベテタ……関係ナイ。今ハ、コレヲ食ベルシカ……ナイ」


 アイは目の前に魚の死体を突き出す。気持ちが悪いはずなのに、それに反してお腹は一層ぐるぐると唸る。トキコは半ば諦めて、ホカホカと暖かい魚の尻尾と頭をつまみ、前歯で魚の背をほんの少し……皮一枚ほど齧る。よくわからない。

 アイの微動だにしない突き刺さる視線を感じ、もう一口、今度は身まで齧る。歯で柔らかい肉を喰いちぎる感覚が気持ち悪い。そう思ったのは一瞬だった。

 気がつけば、魚の背の部分は小さな骨もまとめてトキコの胃袋へと流れていった。地下都市で食べる合成肉よりも、ずっと美味しかったのだ。それでも魚のお腹周りは苦くて、とても食べられなかったが。


 結果、アイが捕まえた四匹の魚全て食べてしまった。魚の死体を食べてしまったのだ。

 トキコは膝を抱えて座り込み、アイが残した魚を埋めているのをじっと見て、もんもんと考えてた。


 わたしは、生き物を殺して食べてしまうという野蛮で残酷なことをした。アイにいくら言われたからってそんなこと、できてしまうなんて人として良いのだろうか。

 何度目のため息だろうか。憂鬱を吐き出すと、魚を埋め終わったアイがトキコの前にやってきて赤い目で見下ろした。


 「残酷ジャ、ナイヨ。命ハ巡ルカラ」


 アイは正当化して慰めているつもりだろうか。


 「野生動物の食物連鎖でしょ……。知ってるよ、ツバメが教えてくれたし……。だけど、わたしは人間なんだし、それに……食べられたいなんて思う生き物はいないよ……」


 「外デ生キルニハ、必要……トキコハ……生キテ」


 その通りなのかもしれない。地下と地上は何もかもが違う。決まった時間もやることもない、守ってくれる大人も、罰を下す大人もいない。もはや世界が違うって言っても良いと思う。ここは痛いほど残酷で狂っている。だから、職員もロロも狂っていたんだ。

 こんな場所で、わたしは生きていかなきゃならないのかと思うと、体が石みたいに重たくなって、地中深くに沈んでいく。そうしたら地下都市に帰れるのかな、なんて。でも、今更帰ったところで何も良い状況になるとは思えない。ツバメの努力も覚悟も無駄にして、ロロにも無駄に怪我をさせたことになる。アイは壊されて、わたしは罰を受けるんだ。


 「もう、行こうか……」


 トキコがとろとろと立ち上がると、アイは手を引っ張って、「こっち」って、歩き始めた。

 

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