第21話
悲鳴が止んだ。湿っぽい風のさわさわとした騒めきが、静かに流れた。灰色の中にいる青い人影に、トキコはふと野生動物の動画を見たことがあったことを思い出した。それは獲物を見つけると、ギラリと目を光らせて他のものは何も目に入らない。それだけ必死なんだ。食べないと死んでしまうし、食べられると死んでしまう。双方が生き残るために命をかけている。だから、狩りの間の世界には狩る者と狩られる者だけしか存在しない。
ロロの恐怖に見開いた大きな目は、そんな野生動物なんかじゃ比にならないくらいに鋭くギラついていた。確実にトキコとアイの方を見ている。なのに、目線は全く合わない。
荒く、肩で呼吸をして、唇を噛んで血と唾液の混ざった物を地面に垂らしていた。ロロの目には青いヘッドフォンしか入っていないようだった。
「ロロ!! 戻って!!」
一人の職員が動きにくそうに走り出した瞬間、ロロは地面を蹴って、アイに飛びかかる勢いで駆ける。
トキコはちょうど、全身が痛いのを堪えて立ち上がった所だった。アイはそんなトキコを子供みたいに抱きかかえて、ロロとは反対の方向に走り出した。トキコはアイの予想もしなかった行動を認識して驚いた時には、無意識に小さいアイの頭に必死でしがみついていた。
ロロは泣き声とも怒りとも言えない叫び声をあげて、地面を砕きながら追ってきた。
アイはトンネルを逸れて、木々の中に飛び込んだ。あたりの灰色の風景が一気に湿っぽい緑へと変わる。
トキコは走るのが正直苦手だった。持久力はそこそこにあるのだが、どうやってもスピードが出なくて、鬼ごっこでは小さなハクにだって負けていた。それでいつもみんなに笑われていた。アイはそんなトキコよりもずっと遅かった。だからだろう、ロロとの距離は目に見えてどんどん縮まる。
その最中でアイは何を考えたのか、突然立ち止まり、トキコを乱暴に地面に下ろた。凸凹した茶色い地面に足を取られていると、そのまま、アイの腕が背中を押して、地面に転ばされた。
ギリギリのところで受け身を取って、反射的に体を起こした。
ロロの細い左腕は真っ赤に染まっていた。アイの全身からはロロのそれが滴り、見えない刃を手に、ジッとロロの様子を眺めていた。
ロロは目も口も大きく開いたまま、痙攣する自分の腕……左手首を見つめる。
「ロロ!!」
トキコの腕もジクジクと痛む。すぐになんとかしてあげなきゃと、立ち上がる。その時にようやくロロは悲鳴をあげて泣き出した。斬られた左手をギュッと握って、ヘタリと力なくうずくまった。
「痛い痛い」と叫びに混じって聞こえる。トキコが近寄ろうとするものの、先にアイがロロの前に行き、うずくまるロロの頭にヘッドフォンをそっとつけた。
「人間……返ス」
淡々とロロを見下ろすロボットに、トキコは胃の奥から頭まで熱くなる感覚を覚えた。
「ロロから離れて!!」
声を枯らしながら、地面を蹴る。右腕に触れて信号を送る。腕はビリビリと熱くなり鋼鉄に変わる。トキコはその鋼鉄でこちらを向いたロボットの頭を掴み、引き離して地面に叩きつけた。
小さな金属の塊は地面に減り込み、固まる。
トキコはロロへ向いてしゃがみ込み、左手でガタガタ震えるロロの肩に優しく触れた。
「ロロ、ごめんね……痛かったよね? 手当て……手当てしなくちゃ……」
トキコは急いで横たわるロボットの元へ行き、赤いカバンを外した。ロボットは赤い目でトキコの方を見るが、特に動く様子はなかったし、今はロボットがどうなってたって興味がない。そんなことよりもロロの手当てが先だった。急いでロロのそばへ戻り、カバンを開ける。中身はたくさん走ったせいか散乱していた。
この中には確か、手当てのできるものが入っていたはずだ。それを使って、それから職員たちのところへ行けるようにしてあげないと。そしたら、わたしは……?
地下都市の無機質な風景が脳裏に浮かぶ。
「だけど、わたしは、ロロを見捨てたりなんてできない……そんなことはしな──」
影がトキコを覆った。ロロは立ち上がって、トキコを見下ろしていた。その顔は涙で濡れているものの、口をニタリと歪めて、引きつるように笑っていた。
「ロロ……?」
「ひひ……シオちゃんは……ほら……ロロちゃんの味方なんだぁ……」
ロロの不自然で不気味な笑顔に、トキコは戦慄した。
「一緒に帰ろうよ。お外は、ダメだよ」
わたしは、何かを間違えただろうか。
ロロの鋼鉄みたいな蹴りがトキコの頭を目掛けて曲線を描いた。とっさに、右腕で顔を覆うと、金属が重たくぶつかるような音が響き、身体中に振動が走った。
地面に左手をつき、ロロを見上げる。斬られて泣いていたのが嘘みたいに笑う。
この子は、本当にロロだろうか。
トキコは痺れと痛みが残る自身の右腕をさすりながら、何も出来ずにいた。
「……シオちゃんは、優しい……馬鹿なくらい優しい……だから、ロロちゃんは……あなたが、好き……!!」
ロロの二発目が頭を狙ってまた降り上がる。あれで蹴られたら、頭くらい飛んじゃうだろうか。首の骨が折れてしまうかな。どれだけ運がよくても頭の中がどうにかなってしまう。ロロにとって一緒に帰るのはきっと息絶えたシオでも良かったのかもしれない。それだけのことを一瞬で理解したのに、どうしたらいいのか、トキコにはさっぱりわからない。
「トキコ……!!」
機械の声がした。ロロの重たい脚がトキコを捕らえる前に、トキコは機械に抱きかかえられ、木々の中を突き進んでいた。
ロロの蹴りはどこにも当たらなくて、彼女がぐるりと回って転ぶのを見た。地下都市にいたらそんな光景きっと笑って見れたに違いない。
突然景色が明るく変わった。木々がなくなり、鈍い灰色の空が開けた。トキコが前を見ると、その数メートル先に地面がなく、鈍い空が広がっていた。
最悪の想定をして、トキコはギュッと機械にしがみついた。指先で機械の頭に触れると少し凹んでいるのがわかった。
金属の腕がトキコを抱きしめて、空中へと飛び出す。
「ごめん……ごめんね……」
灰色の空から深い緑の世界に落ちながら、トキコは息を漏らすように呟いた。声は空のどこかへ吸収されて、自分の耳にも届かない。
機械音がくっついた体の底から響く。
「イイヨ、許シテアゲル……」
そうして、トキコの意識は次第に黒く呑まれて、途切れて消えた。
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