第20話
トキコはぐらりと体が揺れたのを感じた。
アイは、小さなおもちゃみたいに、地面に叩きつけられた。その衝撃で地面が砕けて飛び散った。ロロはアイの腕を両脚で踏みつけて、首を傾げた。
「あれ……壊せないの……なんでかな? なんでなの?」
ロロは貼りついた笑顔のまま、アイの関節にガンガンと脚を振り下ろした。ロロの細い鉛が容赦なくアイを打ち付ける度に、アイは弾むように揺れた。
そこまでアイが痛めつけられて、ようやく、声を出せた。
「やめて!! ロロ!!」
トキコは自分の声が聞こえなくなるくらいに叫んだ。このままでは、アイが壊れるか、ロロが殺されるかの二択しかない。そんなのはどちらも嫌だと思った頃には、トキコはロロを羽交い締めにして、アイから引き離そうとしていた。
ただ、いつもに増して正気を失って、狂気的な顔をしているロロの力に勝てるわけがなかった。それでも、トキコを振り切ろうとするロロに必死にしがみついた。
「ロロ……!! おね……がいっ!! 壊さないで……っ!!」
トキコは全体重をかけて、地面に引っ張った。頭が揺れ、空と地が逆さまになり、ロロの栗色の髪越しに灰色の空と鈍い緑が広がった。そして、ロロにしがみついたまま、二人で地面に打ち付けられた。
はずみで舌を噛んだ。口の中に血の味が広がり、頰と肩と腰に弾けるような痛みが走る。頭がくらくらする中で、ロロはこんなに重たかっただろうかと考える。
転んで力が緩んだ隙に、ロロはトキコを突き放して、よろめきながら立ち上がった。地を這って見上げたロロの体の、露出した手足は擦り傷だらけになって、大きな目からはバラバラと涙が溢れていた。
「じゃま……するなぁっ!!」
ロロは全身で吠えたかと思うと、突然体の力が抜けたかのようにだらりと俯き、ブツブツと小声で何かを囁きだした。
その後ろでアイが何事もなかったかのように立ち上がり、ロロの背後に近づいた。アイの手からは青い閃光が走る。
「ロロ!! 危ない……!!」
トキコが上体を起こして叫んだ時には遅かった。ロロはわかってか、体勢を整えて、アイから飛び跳ねるように離れたが、アイのカッターの軌道線上にロロの脚があった。
ロロは脚から崩れて、地面に転がった。いくら毒に強い地下都市の子供でも切断されたら、無事で済むわけがないことくらいわかる。
ロロは地にうずくまって、泣き喚いた。アイはカッターを携えたまま、ロロに近づく。
「アイ!! 止まって!! ロロを殺したらダメ!!」
トキコは立ち上がり、ロロのそばに駆け寄った。アイはロロから数歩離れたところで、言われた通りピタリと止まって、こちらをじっと見ている。
ロロの両脚は、ソックスこそ裂けているがくっついていた。隙間から覗く生脚が生々しく赤いのはトキコと同じ施術のためだ。怪我をしているようには見えなかった。
「ロロ……!? 大丈夫なの!?」
蹲って震えるロロの背中に手を伸ばした。細くてまだ小さい。寒がりなロロは誰かにピタリと寄り添うのが大好きで、トキコとか、誰かが触れると満面の笑顔を見せてくれる。
少し熱を帯びたロロの背に触れた瞬間、ロロは突拍子もなく動きだした。立ち上がったのだとわかった時には腹部に鋭い痛みと、体の中の内臓がぐちゃりと弾けて口から出てくるような感覚に陥った。地面に叩きつけられて、まだロロに蹴り飛ばされた痛みが残る腹部にロロの重たい脚がめり込んだ。
苦しさで乾いた呻きと唾液がかすかに口から漏れた。それを、ロロは涙で目を濡らし、赤くした笑顔で見下ろしていた。
「ひひ……っ、せんせぇがね、教えてくれたのぉ」
ロロはヘッドフォンをギュッと握る。ロロの頭にはきっとあの悲鳴のような奇妙な音楽が鳴り響いている。
アイに向かって、ロロは顔を向けた。
トキコは痛みに踠きながらロロの脚を両手で掴み、握りしめた。毒でも打たれたみたいに力が入らない。ロロはトキコの右肩をもう片方の脚で鋭く踏みつけた。
肩が砕けたような感覚だった。トキコの呻きに似た叫びは、空中に消えてロロには届かない。
「ロボットちゃんが近づいたら、このままシオちゃん殺しちゃうよ? ロロちゃんがこのままもっとギュってしたら、シオちゃんのお腹は破れちゃうし、肩だって、ぐだぐだのばらばらなんだもん」
「ソレハ……ダメ……」
アイの声がした。両腕をダラリと下げてロロの方を見ている。
「うん……わかったぁ……」
ロロはヘッドフォンを押さえたまま、嬉しそうにニタリと笑う。気味が悪いけれど、目だけは職員に褒められた時みたいにキラキラとしていた。
「迎えにくるよ。せんせぇたち、ほら、見て。シオちゃん」
ぶつ切りの言葉でロロは遠く、建物を指した。白い人型の職員たちが、役に立ちそうにない銃を抱えて、走って近づいているのが見える。
──これで終わるんだ。
トキコは直感的にそう思った。ロロは本気だし、アイも素直だからきっとロロに手は出さない。
嘘つきの彼らに捕まって、連れ戻されて、暗い地下深くから、ガラス越しに空を眺めるだけになる。それでも、ツバメに会えるだけマシなのかな。せっかく命をかけてくれたのに、ツバメになんて言おう。
「悔しい……なぁ……」
トキコはロロ越しに霞む灰色の空を見上げて、涙声で呟いた。せめて、最後くらいもっと綺麗な色の空を見たかった。青でも橙でも……こんな地下都市みたいな空なんてあんまりじゃないか。
その時、鈍い金属の体を煌めかせたアイが、視界に飛び込んだ。ロロの腹部を捕らえて押し倒したのだ。アイは驚いて叫んだロロと一緒に倒れたが、直ぐに起き上がって、トキコのそばに寄り、「ダイジョーブ?」とでも言いたげにしゃがみ込む。その手にはロロがきっと命よりも大切にしている青いヘッドフォンがぶら下がっていた。
アイがなぜそれを持っているのか、何か状況を理解しようとする前に、人のものとは思えない音が脳まで劈くように響いた。
トキコは肩が痛いのも忘れて、耳を塞ぎ、薄めでロロを見た。モヤがかかるように視界が揺れる。木々も、道も空までもが歪み、緑の中から黒い影たちがバサバサと飛んでいくのが見えた。ロロはその世界の中心に、膝立ちで前屈みになっていた。頭を掻き毟り、目も口も引きちぎれるほど限界に広げて、小さな身体からは想像もできないくらいの叫びを断続的にあげている。それは、何か意味のある言葉のように聞こえたが、理解する余裕なんてこれっぽっちもなかった。
これには少し離れた人型たちにも堪えたようで、彼らも耳があろう場所を塞ぎ、うろたえた。
アイだけが、ただまっすぐとロロを見つめていた。
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