第6話
ツバメと別れた後、集中ができなかった。ガス交換のテストの時は考え事をしすぎて叱られた。
先程鏡を見たときに叱られて殴られた頰の腫れが、ようやく引いていてホッとした。
就寝前の十分はロロと並んでソファーに座り、別々の音楽を聴いていた。ロロは四六時中ヘッドフォンを外さない。どんな素敵な音楽を聴いているのかと、ロロのプレイヤーにヘッドフォンを接続してみたが、後悔した。じわじわと攻め立てるような高低差のあるメロディーと、心や思考を引っ掻き回されるような金属を擦り付けるような雑音が目立った。
「ロロ、よくこんなの聴いてるね。耳痛くない?」
「ロロちゃん、これ好きぃ」
ロロはまん丸な目をギョロリと見開いて笑う。いつもながら、奇妙な表情をする子だ。トキコは接続を談話室にある共用のプレイヤーの方に切り替えて好きな音楽を聴いた。
自然音がメロディーと一緒に流れてくる。水辺だとか、風だとか、地上ではこんな音が鳴っているらしい。ツバメがそう言っていたが、ツバメは聞いたことがあるのだろうか。
地上か。地上に行ってみたいかと聞かれるともちろん行ってみたい。ここよりも広くて、空が囲まれていない。そんな場所に行けるのなら行ってみたいに決まっている。
地下都市が好きか嫌いかと聞かれると正直わからない。検査やテストは嫌いだが、自由な時間を過ごせて、職員は厳しいが時々優しい。歳下の子達は慕ってくれるし、なによりツバメがいる。だから、寂しくもない。
「シオちゃんは何を聞くの?」
ロロはトキコにペトリとくっつく。溢れそうな大きな瞳に表情は無く、口元だけがにこりと笑っている。
「風の歌。本物の自然の音が流れてるんだって」
「ふーん。ロロちゃんは、こっちのが好き」
ロロはヘッドフォンを両耳に押さえて、座り直した。そして、また音楽に集中するように俯き、目を閉じた。
「ロロは、もし、地上に出られたら何がしたい?」
なんとなく、ロロに聞いてみた。目を閉じて音楽に聞き入っていたロロは、目を大きく開いて首を振る。
「やだぁ!! ロロちゃんは、ここが良い!! ここじゃなきゃ嫌!!」
ロロは泣きそうに叫ぶ。トキコは慌ててロロの手を握り、宥める。歳下の子供たちが心配そうにロロを見る。
99のハクが近くに寄ってきた。
「ロロちゃん大丈夫?」
「大丈夫、ロロはちょっとびっくりしたの。ハク、ありがとう」
ハクは心配そうに、ロロの近くの床に座り、持ってきた絵本を広げた。それでも目線は心配そうにこちらに向けている。
ハクはまだ、四歳になったばかり。十四歳のロロよりもずっと大人に感じる。
「ロロ、大丈夫。ロロはここにいて良いんだよ」
ロロは肩で息をしながら、音楽プレイヤーを両手で握りしめて音量を上げる。ヘッドフォンからあの、奇妙なメロディーと雑音が漏れる。
「ひぃー……ひひ……ひひひ……ふふ……」
ロロは飛び出しそうなほどに目を開いて、薄く笑いながらメロディーを口遊む。このロロの発作は時々起こる。情緒が不安定な子は時折いるが、ロロほどの子はなかなかいない。
こうやって、笑いながら自分の世界に入り込んでしまえば、ロロは次第に落ち着く。
トキコはハクにもう大丈夫と伝えて、ハクと一緒にその場を離れた。
その時にちょうど就寝の時間になった。
明日と明後日は休日。明日はテストが午前中で終わる。少しホッとする。トキコは、簡素なベッドに潜り込んで、真っ暗な天井を眺める。
わたしは、ロロみたいに地下都市に執着していない。もっと良い場所を提供されたら、そっちに行ってしまうと思う。だから、地上の暮らしが素敵なものであるとわかればすぐにそちらに行ってしまう自信はある。
しばらく考えていると次第にウトウトし始める。思考が言うことを聞かなくなり始める。
「地獄だよね、ここは」
ツバメの声がして飛び起きる。
「な……っ」
「静かに。みんなが起きちゃう」
暗がりから声がする。目を凝らすとぼんやりと黒の中にまた黒い影が見える。
「ね、考えてくれた?」
「考えてって……答えは明日じゃ……」
「ああ、予定変えた。今日にする」
ツバメは遊びの内容を変えるくらいみたいに、何でもないようにそう言った。
「待ってよ、そもそもどうやって入ったの? 鍵がかかってるはずだよ……?」
そう、子供たちの寝室は消灯後に鍵がかかる。電子錠で、内側からの解錠は不可能。
「ああ、簡単だよ。そのくらい。僕を誰だと思ってるの?」
ツバメは暗闇の中で含んだ笑いを零した。
「僕はツバメ。コンピューター張りの頭脳を持ってるんだよ」
冗談っぽく明るい静かな声が響くが、トキコにはあまりピンと来ない。
「ええ……?」
「あれ、言わなかったっけ?」
凡人の頭脳のトキコは思考が追いつかなかった。なぜ、ツバメが部屋に来たのか、何をしに来たのか、どうして予定を変えたのか……何も理解できない。
「ふふ、まあいいや。トキコ、時間がないんだ。僕と一緒に行くか、ここで僕と永遠にさよならするのか、選んで」
「そんな、急に言われても……わたし、まだ答えなんて」
「ふーん……困ったな。じゃあ、質問を変えるね。僕を信じるか、信じないか……ならどう?」
目が慣れてきて、ツバメの顔が薄く見える。だけど、表情までは読み取れない。
もちろんツバメのことは全面的に信用している。だけど、ことがことだ。ツバメの出した答えが正しいかはわからない。間違えてなんてしたら、わたしは確実に無事に生きてはいられない。
「トキコ、どう? 僕と一緒に運命を選ぶ? それとも、一人でただ来るだけの運命を待つ? 運命を待つってことは自分ではもう何も選べない。トキコは地獄しか知らないから、生きるということに憧れないんだ」
「生きると、どうなるの?」
「自由になれるよ」
ツバメの顔が笑って手を差し出したのがわかった。この手を今、握ると未来が変わる。脳内でクリーリャーとロロの悲鳴が重なった。自由を奪われたあの子と、自由を捨てるロロ。
「大丈夫。僕とキミなら、きっと」
トキコは、少しだけ手を伸ばした。ツバメの手に触れなかったらやめよう。生まれるのはまだやっぱり、怖い。
そう思うのと裏腹に、トキコの左手の指先は柔らかく冷たいものに触れた。触れたかと思うとそれはトキコの手を握って立たせる。
「ありがとう、トキコ。行こう」
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