第5話

 彼女は胸元を赤く染められて、ぐにゃりと床に横たわっていた。もう、声もあげないし、永遠に動くことはない。冷や汗で背中がじっとりと濡れ、気分が悪い。息も上がり、嗅ぎたくもない鉄錆によく似た臭いが体内に入り込む。


 「お疲れ、シオ。気持ち悪かったろ? 大丈夫?」


いつのまにか入ってきた男性職員がトキコの肩に触れる。トキコはゾッとして、手を振り払い、元いた部屋へと戻った。


 「ご苦労さん。シャワー浴びて少し部屋で休みなさい」


 女性職員はパソコンを見つめたまま単調に呟く。


 「三回も殴った……」


 「少ない方よ」


 「ねえ、シャワーの後、運動場行っても良い? 空が見たい」


 少しでも気分を晴らしたかった。耳の奥の悲鳴と手に残る感触を消し去りたかった。

 今日のクリーチャーは随分と人に見えた。だから人を殺したらこんな感覚になるのだろうかと思う。それは周りが許すが、自分だけはそれを許さない。


 「ダメ。勝手なことは許さない。ヨーゼフ、早くシオを部屋に戻して休ませて。午後は筆記の後、ガス交換だから」


 「外には明後日行けるよ。わがまま言わないよ、シオ」


 わがままなんか言ってない。良いって言ってくれないかなって聞いただけなのに。


 「わかりました。戻ります」


 トキコはぎゅっと唇を噛んで部屋の外へと出た。怒りで涙が出てきそうになったが、泣いたりしたら、また余計な一言で傷つけられそうな気がして必死に堪えた。


 トキコは、シャワーを浴びた後に部屋へと戻された。白く窓のない箱のような部屋では気が滅入りそうだ。

 耳の奥に断末魔がこびりつく。弱々しかった彼女はトキコに殴られた瞬間に脳に突き刺さるような悲鳴をあげた。彼女の悲鳴はトキコの耳から入り、頭へ行き胸を通り全身へと響いた。

 一発目では仕留められず、二発目は彼女が暴れまわり、頭部に当たってしまった。三発目は彼女を無理やり組み伏せて、ようやく心臓を貫通させた。


 トキコはぼんやりしながら談話室へと向かう。就寝時以外は部屋は解錠され、談話室だけは自由に行くことができる。鳥の図鑑でも見ていた方が気が楽だ。

 寝室の廊下を抜けると、談話室にはツバメがポツンと座って、本を読んでいた。


 「トキコ。休憩もらえたの?」


 「え、ああ。うん。始末を頼まれて……」


 「それで、顔色が悪いんだ」


 ツバメはトキコを手招きして座らせ、コップ一杯の水を差し出した。


 「ありがと。……やっぱ、慣れないな」


 「慣れないくらいがちょうどいいよ。ニナやイチハみたいに楽しげにし始めると怖いし……」


 「イチハは確かに怖かったね……」


 イチハは自分たちより五歳ほど歳上の男の子だった。クリーチャーの始末の時は気分が高揚し、たくさん悲鳴が上がるのが面白いと談話室で笑っていたのを覚えている。もしかすると、彼なりの自己防衛だったのかもしれない。落ち込み疲れて、物静かだったイチハの心も壊れてしまったんじゃないか。

 そんな、イチハもニナも……他の子も気がついたらいなくなっていた。この忌まわしい仕事から解放されていった。


 トキコは水を飲み干して、ツバメが見ていた本を眺める。鳥の図鑑だ。昔、これを見てお互いに名前をつけたのを覚えている。


 「今日の、ね。人の姿に似ていたから余計に滅入ってて。こんな時に外へ行けたら良いんだけど」


 「そっか、それは気が滅入るね」


 ツバメも隣に座る。そして、唐突に、なんの脈絡もなく突然口を開いた。


 「トキコ……僕は外へ行こうかと思うよ」


 「運動場にでも侵入するの? 怒られるよ」


 トキコは机に伏せて、ツバメから顔を逸らした。頰に机の冷たさが伝わる。


 「あんな偽物、興味ないよ。僕は、本物の空の下へ行く。そして、本当の意味で僕は生きていきたい」


 「生きていく……自由になるってこと?」


 トキコは伏せたままツバメの方を向く。どんな冗談かと思っていたが、ツバメは予想外に真面目な顔して図鑑の鳥たちに視線を送っている。トキコは少し不安になって、のっそりと体を起こし、両手で頬杖をついた。


 「ツバメがどこか行っちゃったらやだな」


 「じゃあ、一緒に行く?」


 「行けたら、楽しいのかな」


 「トキコとならたぶん楽しい」


 一緒に音楽でも聞かない? とでも言うように簡単にツバメはなんでもないように話した。

 横目でツバメを見ると、トキコの方を見ていた。顔は笑っていない。少し気まずくなって、トキコは背筋を伸ばす。


 「ねえ、準備はできてるんだ。どう?」


 ツバメは本気なのだろうか。準備したって常に見張られてるか、閉じ込められている自分たちに何ができると言うのだろう。


 「冗談じゃないの?」


 「ねえ、トキコ。僕はトキコを信じてるから、話してもいい?」


 「何を……」


 「転送装置……って知ってる?」


 ツバメは勝手に話し始めた。これは、話したくてしょうがなかったんだろうと、トキコは一先ず全部聞くことにした。


 「ここの施設に転送装置があるんだ。もっとも、転送装置は成功率が低い危険な物だから使用は禁止されてるんだけどね。僕はそれにかけて、出て行こうと思う」


 ツバメは宝探しでもし始めるような期待に満ちた、そんな楽しそうな顔で話している。


 「成功率は低いけど、やってみる価値はあると思う。座標も確認したし、電力の供給とかそういうのも全部クリアした。問題は成功率の低さ。三十回やって成功は二回だけ。それ以外は転送されないか、死ぬか……かな」


 トキコは考えるより先に手が出た。左手で、ツバメの頰を思いっきり掴んで引き寄せ、低い声で伝える。


 「死ぬんだったらやめてよ」


 少し間を置いて、ツバメはトキコの手をそっと掴んで離し、クスクスと笑う。何も面白くないのに。


 「ふふ、心配してくれるんだ。ありがとう。でも僕、生きたいんだ」


 「生きてるよ、ツバメは」


 焦って答える。死にたいなんて言われたら死なないでって言える。でも、生きている人が生きたいって言っている時はなんて答えたら良いのだろう。

 ツバメは目を伏せて、静かに話す。


 「自由にならないと生きてるとは言わない。僕は今はまだきっと生まれてない。だから生まれるためには、僕らはここから出ていくべきだよ」


 「ツバメは生きてる。ちゃんと呼吸をして鼓動があって、生きてる音がする。生きてるから、だからツバメ、どこかに行っちゃうなんて──」


 ツバメは握っていたトキコの手を、離した。一瞬、目を丸く見開くがすぐに閉じて、トキコから顔を逸らす。

 トキコはようやく、自分ではツバメを止めることはできないとわかった。


 「もしも、トキコが生きたいと思ったら明日の就寝までに教えて」


 ツバメは、トキコの方を見ることなくそう言った。

 「それじゃあ」と、ツバメは立ち上がり、自分の部屋まで歩いて行った。



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