第26話 風邪
弱い姿を見せるのが嫌だった。誰に対してもだ。上司であれ、例えば弱い姿を見せろと国王に言われたのだとしても断るほどに嫌だった。
揺れる視界を見定めて一歩を踏み出した。けれど足を動かすだけの衝撃でも頭が悲鳴をあげる。歩きたくない、立ちたくないと体が訴える。けれど今日は休みではない。自分も、そして彼も。
少し休んで行こう。そう思ってベッドに腰を下ろした。
目を閉じると黒い世界が広がり回る。酷いめまいに頭痛、発熱、だろうか。体を動かしていないのに関節が痛む。誤魔化す事が出来るか、妙なところで目敏い彼を。
心の中で考えれば彼はやってくる。
「遥ー、そろそろ時間――すごい、調子悪そうな顔してるな」
隠す暇も無い。笑いかけると彼は深々とため息をつく。
「熱は?」
「あつい、だるい、目が回る、関節痛い」
「今日は休め。部屋から極力出るな。薬と水持ってくるから」
大層嫌そうな顔をした彼は勢い良く扉を閉めて出て行った。
寂しい、悔しい。弱い姿を晒しても良いとは思っている相手だけれど出来れば彼には自分の強い姿だけを知っておいて欲しかった。
今更、と言われれば確かにそれまでなのだがこれは自分の意地だ。
遥はベッドに腰掛けたまま彼の出て行った扉を見ていた。どれだけ見ていたかは分からないが、彼はすぐに戻ってきて手に持つ体温計を差し出す。相変わらず眉間にはシワが刻まれている。
黙って体温計を受け取ると肩を軽く押される。ふらつく体では耐え切ることが出来ず、ベッドの上に転がる。ボンヤリと天井を見ていた。歪んで見える。
「体温測り終わったら寝てろ。食べ物と薬と飲み物はこの部屋の机に置いとくから」
言われる前に目を閉じれば意識が何処かへ吸い込まれていくのが分かる。体温計を奪われるのをどこかで感じながら遥は意識を飛ばした。
目を開けた。眠っていたらしい。両手をついて体を起こすと額に乗せられていた濡れた手ぬぐいが落ちる。喉が乾いた。机を見ると水がある。ベッドに座ったまま手を伸ばした。
近くで何かが動いて思わず手を止めた。
自分の足下、床の上でベッドを背もたれに眠る男が居た。朝に見た仕事着のまま、猫背になって眠っている。髪まで整えられているのは仕事に行っていたからか、行く用意をしていたからなのか。
とにかく喉を潤そうと彼を視界に入れたまま水を流し込んだ。少し、塩気のある水。
思えば体を覆っていた気だるさも、暑さもない。
足の上に落ちた手ぬぐいを握った。冷たい。冷やされたばかり。思うままに手ぬぐいを投げた。
「龍騎」
手ぬぐいを当てられた上に名を呼ばれ、男はゆっくりと顔を上げる。ヘアピンで留めた髪の向こうに見える紫が遥を見付けて細められる。
「具合、大分良くなったみたいだな。欲しいものは?」
「肉」
「喰い物な、夕飯用のスープ持ってきてやるよ」
ついでに手ぬぐいももう一度冷やさないと。背中を向けた龍騎に声をかけた。仕事はどうしたの。彼は振り返って笑った。休んだよ。
龍騎が嫌味も呆れも無く笑うのが珍しくて、扉が閉まった後もしばらくその方向を見続けてしまう。何故笑った。仕事を休むのは良くないことだと度々口にしているはずなのに、何故。
膝を立てて抱いた。彼と同様に緩みそうになる顔を隠したかった。
もしもそれが自分の為だとしたら、自分のせいだとしたら。こんなに嬉しいことはない。本人には言わない。言えないけれど、嬉しい。部屋に戻ってきたら何をぶつけてやろうか。
枕を掴んで待ち構えていると扉が開く。思い切り枕を投げつけるが想定内の出来事に彼は片手で枕を叩き落とし、もう片方の手で扉の影に隠した盆を支えた。
水が置いてあった机にスープを置く彼はやはり笑みを浮かべていた。とても嬉しそうに。
「無理しない程度に食べて着替えてもう一回寝とけ」
「うん、そうするわ。ねえ龍騎?」
問いかけるように声を出せば彼は体を寄せる。
「寝るまで傍に居てくれるわよね?」
ベッドの端に乗せられた手を力強く掴まずとも。
「ああ、いいよ。寝るまで、な」
彼が彼女の願いを断る理由など無い。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます