第15話 授業参観

 

 その日は十日に一度の非番の日。書類業務もなければ巡視をする必要もない。ただ家族と過ごすことの出来る日。もちろん夫婦揃って、というわけにはいかない。お互いの立場からしてそれは不可能なことだ。


 だが、あらかじめ上司に伝えておけば今日のように子供の授業参観日に合わせて休暇を取ることが出来る。いつもより少しだけ元気に行ってきますと声を出した息子は既に学校に居る。


 昼食後の一時間が授業参観の時間だった。息子を見送ってから二度寝をしていた龍騎は寝癖に跳ねる前髪を片手で押さえながら歯を磨いていた。呆然と、いつもより長く歯磨きをしていた。


 不意に意識を取り戻すと口を濯(ゆす)いだ。時計を見た。まだ時間はある。のんびり着替えてのんびりと向かえばいいだろう。温めた珈琲に手を伸ばした。


 びしっ。


 嫌な音がした。そう思うのと同時にお気に入りの珈琲カップにひびが入る。


 こういう、迷信めいたものは嫌いだった。信じる理由がないし、そもそもそういうものはただ使っていたモノが良いタイミングで物が寿命を迎えるだけだ。そう思っている。珈琲カップを包んで捨てる。見ればもう家を出る時間だ。


 気分悪い。龍騎は髪の毛をまとめてため息をつく。


 服は問題ない。髪の毛もまとめた。言葉遣いはその場でどうとでもなる。


 扉に手をかけようと手を持ち上げた瞬間、荒々しく扉が叩かれる。


「隊長! 龍騎隊長! いらっしゃいませんか!」


 居ませんよ。なんて言えたらどんなに良いか。


 龍騎は一瞬だけ間を置いて扉を開いた。扉の向こう側には黒く短い髪。黒の目が焦ったようにこちらを見る。この男は龍騎の直属の部下。普段は明るく真面目な男だ。普段は。


「隊長、国都の郊外に【欠片】が現れました。何故出現したかはまだ分かっていませんが、」


 龍騎は思わず男の口を片手でふさいだ。


「それさー、行かなきゃダメ?」


 子供のような口調とは裏腹に手に込められる力は増していく。頬を潰すように力を込められて男は先ほどと別の意味で冷や汗を流す。


 目を細め、口元にだけ笑みを描いた龍騎は言葉を続ける。


 久しぶりに参加できる琉斗の学校行事なんだ。それこそ一年振りくらいかもしれない。琉斗にバレることなく学校側にだけ連絡を取って今日の日付と時間を聞き出して日時の変更が無いよう釘を刺してから予定を合わせて休暇を取った。もちろん琉斗には偶然休みを取ったかのように見せた。


 琉斗は喜んだ。喜んだんだ。今日だっていつもより楽しそうに学校へ登校して行ったんだ。俺が来ることを知っているから。そして今から家を出なければ琉斗の授業参観には間に合わない。せっかくひと月も前から準備していたのに。


 口を塞ぐように押さえられていた男は両手で龍騎の手を引き剥がすと負けじと声を張った。


「欠片の消滅をさせることができるのは隊長と総長だけでしょう!」


「総長は?」


「陛下の命令で外に出ています」


「……りんごは近くまで連れてきているんだろうな」


「はい。外に待たせてあります。俺も同乗させてください」


 同乗したいという言葉に龍騎はわずかに表情を緩めた。男がそんなことに気づく前に龍騎は肩で男を押し退ける。強く当たられた男は苦笑いを浮かべることしか出来ず、後から投げられた家の鍵を使って玄関扉に鍵をかけると早足に歩き続ける龍騎の背中を追った。


 家から歩いて程なく、見慣れた白の飛竜が体を丸めて待つ空き地に着く。白の飛竜は長い首をもたげ龍騎を見やる。何を合図することなく体を起こし体を地面に近づける。


 首の根元に取り付けられた鞍に手をかけ、一歩で上って下へ向かって手を伸ばす。手を取った男を自分の背後へと乗せる。


 背中を叩いてやれば白の姿は何度か翼を動かし空へと舞い上がる。


 空から街を見下ろす。男が指さした方向にあるのは街につながる街道。緑に彩られた草原に白い人口の道。街へつながるそこに真っ黒な何かが陣取っていた。近寄ることにより全貌が見え始める。


 りんごよりも大きく黒い体、見上げてくる赤の瞳は四つ。雄々しいたてがみを持つ獅子の頭、特異な動向を細める山羊の頭。強靭な四肢は地面を叩く。苛立った猫のように振られた尻尾の先は蛇の頭のように膨らんでいる。背中に生える鳥のような翼を緩慢に動かせば大きな体は空へと浮かぶ。


 同じ高度まで上がってようやく分かる。黒いそれは汚らしい唾液を止めど無く溢れさせりんごへ獅子の頭を向ける。


「こういうやけに腹を空かした奴相手の手っ取り早い戦い方を教えてやるよ」


 聴き終えるのが早いか、龍騎に同乗する男は何かの力に思い切り胸元を引っ張られ宙に投げ出される。あれ? 妙に冷静な頭が景色を見ていた。一回転する景色の中で龍騎の口元が見えた。


 凄まじい勢いで落ちていく自分に、聞こえないはずの声が聞こえた。


――囮だよ。


 ああ、なんだ。胸元を引っ張られて落とされたのか。頭が理解すると同時に獰猛な獣の獲物を見る赤い目と自分の目が合う。獣にとって自分はただ無様に落下するだけの餌、だ。


 龍騎と白の飛竜から視線をそらし、黒の獣は翼を大きくはためかせる。ただ一度の羽ばたきで獲物へと体を向けた獣の意識の中に龍騎は既にいない。あるのは己の飢えを満たせるであろう哀れな肉塊。


 急降下を始めた黒い獣の背中に見える、太陽の光を反射する何か。それが龍騎の持つ黒の獣を葬る為の槍なのだと彼は知っている。過去に一度だけ見た光景を思い出していた。それはまるで話に聞く走馬灯のように頭の中を巡る。


 頭を下に、考えたこともない速度で落下していく自分の体と精神が離れてしまったようだ。


 現実離れしたように冷え切った頭と視界が映し出す。白の飛竜の背から何の躊躇いもなく飛び降りる龍騎の姿。空中にも関わらず翼をたたんで頭から落ちていく白の飛竜の姿。


 槍の穂先が獅子の頭にめり込んでいく様子をぼんやり眺め、獅子の喉が作り出す断末魔を聞いていた男は急に背中に衝撃を受けた。地面に落ちるにはまだ早い。何かを考える前に強風が襲い来る。風に負けないよう手に当たった何かを必死に掴んだ。


 男が背中をぶつけた何かの上で体勢を立て直していると先程よりも幾分か甲高い断末魔が耳を揺らす。丸太のようなそれに足をかけ、ようやくまともに一息つくと同時に隣を黒い何かが液体を散らしながら落下していった。


「有効だったろ?」


 どす。と鈍い音と共に男の背中へと落ちてきたのは槍を持ち、黒の獣に向かって落ちていった上司でもある人間。


 乗っている白の飛竜の背中から下を見た。ちょうど遠い地面に黒の獣が叩きつけられるところだった。あらぬ方向へ曲がった四肢、下敷きとなり見る影もなくなった翼。人であれば原型が残っていたかどうかも怪しい高度だった。


「死んでしまうかと……」


 手が震える。声が震える。思ったように言葉が出てこない。後ろに立っている上司を怒鳴って叱りたいのに。


「優秀な部下を殺しはしねえよ。俺もりんごもそこまで馬鹿じゃない」


 飛竜が鳴く。当たり前だ、と言わんばかりに。


「ただ、授業参観行きたかったから、八つ当たり」


 龍騎はそう言って太陽を見上げた。日は傾き始めている。今から行ったところで間に合いはしない。また、息子を落胆させてしまっただろうか。仕事ばかりの両親だと思わせてしまっただろうか。


 目の前で震え続ける男の背中を一度蹴りつけると思った以上の反応が返ってくる。もう落ちたくないから触るな、と。


 やりすぎた。これではしばらくこの男は飛竜に乗せられない。いやだが。


 それよりも苛立ちが募っていた龍騎は苛立ちのままに男の襟首を掴むと思い切り引いて飛竜の背中から落とした。男の叫びのおかげか、苛立ちはいささか収まった。




おまけ


「お父さんおかえり! お仕事お疲れ様!」


「おー、お疲れ様龍騎」


 帰宅した龍騎を迎えたのは元気いっぱい、満面の笑みを浮かべる息子と晴れ晴れしい表情をした仕事日にも関わらず上機嫌な妻だった。思わず居間の扉を開けたところで動きを止める。


 息子が笑顔なのはこれ以上ない幸いだろう。だが何故、国王に呼ばれて仕事をしていたはずの妻が上機嫌で、家に居るのか。短時間で終わる仕事であったならば苛立ったような表情をしているだろう。そうでないならばこの場所には居ないはず。休憩時間に家に帰ってくるような器用なことを出来る性格ではない。


 ならば何故、彼女は上機嫌で家に居るのか。


 思いたるふしがひとつだけあった。


「琉斗学校でも優等生だから問題ないって、担任から聞いたわ」


 担任の先生ね。琉斗から言葉が返される。


「このままで行けば良いって」


「……。うん、そうか。それはなにより。琉斗、ちょっと水くれるか」


 台所に駆けていく琉斗が視界から消えた瞬間拳を振った。当たるとは思っていない。現に振り切った拳は何の障害もなく振り切ってしまうことが出来た。


 けらけら子供のように笑う妻、遥は振られた拳を難なく避けてソファーへ体を沈めた。


「俺が、仕事してんのに!」


「欠片の処理でしょ? 大して大きいわけでもないでしょうに」


「そういう問題じゃないだろ!」


「じゃあ、琉斗が幸せそうよ。そういう問題でしょ」


 龍騎の動きが否応なしに止まる。


 たしかに、そういう問題だ。授業参観なんて面倒な場所に向かうのも元を言えば琉斗の為。琉斗が喜ぶから行こうと二人で相談した結果だ。


「次やったら当てるぞ」


 拳を握ると遥は笑った。


「やれるものならね」


 水を持ってきた琉斗はいつもと変わらぬ様子の両親に笑って見せた。

 

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