第8話 竜舎の一日

 

 一番隊騎士隊舎の裏には五十メートル四方の空き地がある。数ある騎士隊舎の中でもこれほどの土地を有しているのは一番隊と呼ばれる彼らの隊舎だけだ。


 隊の規模は他と変わらないというのに何故彼らの隊舎だけこんなにも広いのか。理由は彼らが戦場で共に戦う存在にある。


 一番隊隊舎裏、広々とした空き地の向こう側にあるのは空き地の幅と同じだけの幅を持つ大きな建物。扉は無く、ただ開けっ放しの状態で中で休む者達の風雨凌ぐ憩いの場となっている。


 くあ。大きく開いた口の中には白く鋭い牙が並ぶ。揺らした尾は今までに幾度小屋を壊したのか。寝転ぶ姿勢を変えようと動かした翼は空を断ち体を浮かすために必要不可欠。


 黒の体を横に倒し、時に眠り時に空を飛ぶ彼らは【竜】 第一部隊の象徴とも言える彼らは三体以上、騎士隊舎の裏に常駐している。


 くあ。再度大きく口を開けたのは黒く大きな体に四枚の翼を持つこの小屋の長老であり最年長。人間では考えられないほど長い時間を世界の中で過ごしている。彼は竜舎の外へと視線を向ける。今日は快晴。気持ち良い青空が広がり目の前の小さな庭に暖かな陽の光が降りる。昨日までひどい雨が降っていて地面は未だぬかるんでいる。そんな中、不意に何かが陽の光を返す。


『おい子供、それ以上煩くしてみろ。その喉噛み潰すぞ』


 竜舎の外には大きな鳴き声をあげて騒ぐ一頭の竜がいた。真っ白な体が光を返す。鱗はなく体皮に筋肉の流れを浮かばせるのみの頼りない体。


 彼にとって見るからに弱いその子は全身を泥だらけにして人間にとって大きく自分たち竜にとって小さい庭ではしゃぎまわっていた。


 彼女の名はりんご。果物の林檎が好きだからと人間に安直な名をつけられた若干十二歳、竜で言うところの幼児。まだ言葉を話すことも出来ない赤子とも言っていい。


 だが、竜こそ誇り高き生物だと自負する長老にとって彼女は同族の中でいささか目障りだった。それでも可愛いと思う感情が強くあるのは彼女がまだまだ幼い子供でしかないからなのか。


 脅すように声をかけても聞こえないふりをして泥で遊び続ける彼女を狭い竜舎の中から見ていた。彼女は最近ようやく竜の言葉の大部分を解した。つまりこちらの言葉を理解しているはずだ。


 彼が四枚の翼を地面に押し付け体を起こすのと同時に泥まみれの子供が駆け寄ってくる。竜舎の目の前、自分の目の前で翼を地面につきたてブレーキとした彼女は体を振るって体についた泥を弾き飛ばす。


 もちろん大して距離を置かず立ち尽くしていた彼にその飛沫はかかる。汚れた泥を身に浴びて長老である黒の竜は右前翼を振り上げた。


 思いのままに振り下ろせば黒の翼は幼い彼女の頭を強く叩く。少し強すぎたか。いや、人間ではないのだから大丈夫だろう。


『遊ぶのは構わないが節度を守れ。最近のお前は煩すぎる。遊びたいのならこの土地から外へ出れば良いだろう。縛られているわけでも無いのだから』


 叱りつけるように強い口調で言い放ち、前翼で飛ばされてきた泥を拭う。自分の子供時代でもこんなにはしゃぎはしなかったというのに。


――これだから人に育てられた竜は。


 何気なく放った言葉のつもりだった。彼にとって常識であり当たり前の考えをただ口にしただけ。彼にとっての常識が、彼女にとっての逆鱗であった。ただそれだけ。


 白の竜は牙を剥き、戦闘能力が格上の黒の竜へと襲いかかった。



 竜舎での二頭の竜の喧嘩は人間にとってそれは大事件も大事件。誰も止められぬ強い力と大きな体、牙や爪、炎など武器を持った異形が本気で殺しあう中に誰が割って入れようか。


 一番隊隊舎裏の竜舎が半壊まで追いやられてようやく、事態を収められる可能性を持つ唯一の人間に話が届いた。


 彼は珍しく隊舎を離れて城の近くを歩いていた。何の気まぐれか、いつもはデスクワークを押し付けてくる上司が今日に限って城内警備の仕事を押し付けてきた。巡回ルートをのんびりと歩きながらもため息が止まらない。結局は仕事を押し付けられているから、隊舎に戻り次第自分の仕事を行わなければいけない。


「隊長ー!」


 不意に聞き慣れた低い声が自分を呼び、彼は顔を上げた。自分の目の前、城の正面入り口のある方向から走ってくるのは真面目な自分の副官。今日は竜舎の点検を任せていた。


 少しだけ、嫌な予感がした。



 四枚の翼を動かす彼、長老は少し狼狽していた。


 何がきっかけとなったのか分からない。ただ目の前の白く幼い子供が襲い来る。


 地面を蹴り勢いを付けて飛び上がると自分の喉を狙って口を開く。直線的すぎる攻撃を避けるのは容易い。自分の力を使ってねじ伏せることも難しくない。どれだけ大きな体を持っていても、戦場に出た経験があっても、人間の指示なしでは子供の頭しか持たない。


 上空から一直線に落ちてくる白い姿をくるりと体を回転させて避けると小さな痺れが翼の一枚をかすめた。


 落ちていく時に回転させた体を追って鋭い爪を持つ後ろ脚で蹴られたのだと後から気づいた。勢いを殺しきれず地面に足を付けた白い子供は未だこちらを見上げると牙を剥く。いや、白い竜が牙を剥くと言った方が正しいだろう。


 彼は知らず知らずのうちに大きく息を吸い込んだ。胸に溜めた息を留め標的を見やる。彼女は同族と戦ったことがあるだろうか。無ければ驚き隙が出来るだろう。


 その身に炎が降りかかれば驚き動きを止めるだろう。


 子供に逃げ道を残すため、直接は放たず庭の端に向かって口を開いた。


「何をしてる!」


 静かな空気を割く声と言葉。


 彼は慌てて吐き出した炎を収めようとするも一度吐き出したものは止められない。慌てて声とは反対方向に炎の軌跡を向けた。木造の竜舎をかすめながら、炎は空へと立ち上る。



 りんごは動けなかった。


 初めて同族と戦い、初めて攻撃されそうになったからではない。やったことはやり返される。そのくらい子供である自分にもわかることだ。


 白の竜、りんごは動けない。


 この場を一言で諌めた一人の人間が近づいてきていることを知っているから。彼が怒っていることを知っているから。逃げ出せば彼が更に怒ることも知っているから。


「で、もう一度聞くが何をしてた?」


 軽く翼を叩かれ、りんごは目に見えて体を跳ねさせた。


 動かせない視線の端で何人かの人たちが走って行く。竜舎の火を消しに行った。自分はまだ炎を吐き出せないから自分ではない。自分のせいではない。だが、りんごの隣に立つ男はそんな答えが欲しいわけではない。


 未だ四枚の翼を広げて空を飛ぶ長老を呼びつける彼はこの場の責任者とも言える人間。長老が大人しく降りてくるのはこの場で彼に逆らうことが得策でないと知っているからだ。


「あーあ、りんご固まっちゃったな。で?」


 彼が目を向けるのは長老。りんごは未だ人の言葉をあまり解すことが出来ない。加えて彼女は何故か硬直して視線を向けようともしない。


「先に手を出したのはそちらだ」


 低く流れるような言葉は長老の言葉。長く生きれば嫌でもいろいろな言葉が話せるようになる。その者の意思は関係なく人間が嫌いな竜でも、人間の言葉を理解し話す者は多い。


 先に手を出した。その意味はわからずともなんとなく何を言われているかは分かるらしいりんごが牙を剥き、喉の奥をぐるると鳴らす。


 こん。軽く鼻先を剣の鞘で叩かれりんごは唸りを止める。


「りんごはそう思ってないみたいだが……。何を言った?」


 そう言われて初めて長老は自分の言葉を思い返した。白の竜に睨まれる中、事の発端となった言葉を探す。子供を叩いて叱りつけた。これはいつものことだ、他の竜たちも行っているが彼女が怒ったのはこれが初めてだ。


 何を言った?


 目の前の人間はそう言った。彼女のことをよく知る彼がそう言ったということは自分の言葉に何かがあったのだろう。


「『これだから人に育てられた竜は』」


 再び放たれた言葉に白の竜が牙を剥いた。


「っと。落ち着けりんご。ホントに、まだ子供なんだなお前は」


 牙を剥く子供を見て長老が驚いて見せる。


「コイツにとって人と竜は同じなんだ。俺らを親だと勘違いもしてる。……お前のその言葉は禁句だな」


 今にも食らいつきそうに牙を見せるりんごの鼻先を撫でてやる男は眉間にしわを寄せる。


 慕われるのは良いが親だと思われるのはこちらとしても思わしくない。思わしくはないがこの様子ではきっと言っても聞かないだろう。


 幾分か気分を落ち着かせたりんごは鼻につく鳴き声をあげながら男の手元に自分の鼻先を押し付ける。子供が親に甘えるような行動に長老は唸り声を上げる。思わしくないのはどちらも同じ。


「とにかく、喧嘩は禁止だ。こいつの前だけで良いから人間を馬鹿にするような言葉も禁止。あとりんご、お前は庭を掘るのも禁止だ!」


 言葉では伝わらない命令を指差しで伝える。おそらくりんごが掘ったのであろう大小様々な穴が庭中にいくつも掘られている。大きさはの足が丸々入るような大きさのものから自然と埋まっていくような小さな穴まで。


 埋める方の身にも云々。男の言葉を聞きながらりんごは口を開けて嬉しそうに笑った。


 やけに上機嫌なりんごを叱りつけるように鼻先を叩いた男は竜舎の消火作業に加わるために走り去った。


 人の居なくなった中庭でりんごは自分の作った穴を埋めていた。翼を器用に動かし土をかぶせ、強靭な後ろ脚で土を叩いて固める。それすらも楽しんでいるのは子供だからこそと言えるのか。長老は中庭に座ったまま白い竜を眺めていた。埋めた穴を見ていたかと思えばまた掘り返している。あとで怒られることは忘れているのだろう。自分が子供の頃はこんなに遊んでいなかった。悠然と空を飛び自分の住処となる場所を探していた。


 白い竜のように砂を掘り返したことなどない。それがどんな楽しいことかつまらないことか知らない。


 一歩白い竜に近づくと竜は首を傾げて長老を伺っている。先ほどまで激怒していたことを忘れたようだ。


『それは、楽しいのか?』


 長老の言葉に白い竜は口を開けて笑った。そして場所を譲るように一歩足を下げる。不自然に盛り上がった土を踏むと普段踏みしめる大地とも沼地とも違う感触が返ってくる。沼地のように何かが包み込むような感覚とも強くしっかりとした感覚とも違う。柔らかく、沈み込む。


 自分の足を退けて右前翼で土に触れる。温かい。白い竜を真似するように土を引っ掻いてみたが思いの外うまくいかない。隣で笑われているのがとても悔しくなって長老は全力で穴を掘った。


 もちろん、後で二頭共々男に叱られてしばらくの竜舎常駐を命じられたがその命令は中庭の穴を増やす結果にしかならず、男は部下や上司以上に頭を悩ます姿の大きな楽しげに笑う二頭の異形に頭を痛めた。

 

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