2章 油屋のこども食堂(4)

 事業拡大にかかる手続きにはさほど時間はかからなかった。

 元々このあたりの仕事はゼンユーの得意とするところで慣れたもの。

 問題は場所と人の確保だった。

 最低でも二十席は欲しい、大通りではなくてもいいが枝道へ入ったらすぐ見えるような立地がいい、駐車場が確保できるところがいい、できれば一号店とさほど離れていないところがいい、厨房は広い方がいい……そんな条件をなるべくクリアできる物件を探すのは、ゼンユーが引き受けた。

 諸般の事情により、朔と季子では稲荷町内の不動産探しはハードルが高いのだ。

 一方ゼンユーはこちらも割に得意分野であるので、わずか三日でめぼしい情報を仕入れてきていた。

「二番通りのうどん屋が去年の末に店じまいしててな、居抜きで買い上げさせてもらう。これが現状の図面だが、ここは珍しく耐震も公共下水も整備済み。……そんな顔するな、ちゃんと予算内だ」

「いや、あまりにも早いからちょっと引いてるだけ」

 朝一番、冷蔵商品の品出しをしているところへやってきたゼンユーがカウンターで図面を広げ始め、朔は若干気圧されていた。

 季子などまだ野菜の仕入れから戻ってきてもいない。

「あのな、常日頃からアンテナ張ってるんだよ、開業廃業の話も頻繁に入ってくる。まあ、今回は特に運がよかったけど」

「どういうアンテナを張ればその情報は入ってくるの?」

「商店会の集まりとかで間接的に聞こえてきた話を総合して組み合わせたりとか。あと相談に来た人からの聞きかじり」

「さすがはまちの便利屋さん」

 冷蔵庫の温度チェックを終えて改めて図面を見た朔は、かなり理想的な間取りだと感じた。

 稲荷町内は長細い建物が多いのだがここは比較的使いやすそうな長方形で、大通りから数メートル入っただけのところに入り口がある。

 一番のポイントとなる厨房についても、食材によって作業場を分けるくらいの余裕はありそうだった。

「現状がうどん屋ってのがちょっと気になるけどね。まあ内装全面改修すれば大丈夫かな」

「なんか問題あるのか」

「小麦は吸い込むだけでも症状が出やすいから、気にする人は気にする。全改修したらいくらくらいかかるのかって分かる?」

「悪い、そういうのは門外漢でな。少し時間が欲しい」

「いやいいよ、そのあたりは僕の領分だし、こっちで見積もり取っとく。写真かなんかある?」

「あとでメールしとく」

「ありがと。あ、あと、時間作ってこれ読んどいてもらっていい?」

 渡された紙袋を持ったゼンユーは、見た目よりずっしり重いそれにバランスを崩しかける。

「なにこれ?」

「食品衛生関係の基礎的な教本。学校で使うような真面目なやつだから、エセ科学とかエセ医療とか入ってない、ちゃんとした内容」

「めっちゃ冊数あるんだけど」

「そりゃ、そのへんについては僕と同じくらいの知識を持っててもらわないとね」

「……まじで?」

「まじで。できるでしょ、ゼンユーなら」

 言い返そうとしたが、役員にして参画させろと言ったのは自分なので諦めた。

 タイトルの見えた一冊が『世界の食用油』なので、商品概要も頭に入れろということだろう。

 この町には人遣いの荒い奴しかいないのだろうかと少しげんなりする。

「ところで、物件のことはまあいいとして、許可関係の分担はどうする?」

「保健所でしょ? それは僕がやるよ」

「それは任せるけど、ほら、お伺いがあるだろ」

 稲荷町が歴史ある観光地であるが故のしがらみとして、商店会へのお伺いはつきまとう。

 特に飲食店は商店会長が経営する旅館グループとパイの食い合いになるため、毎回面倒なことになるのだ。

 更にこども食堂なんて流行り言葉のようなフレーズを出せば、拒絶反応が予想される。

「……やっぱしなきゃだめかな?」

「一切黙って、は難しいんじゃないか、さすがに。二十席超えると目立つぞ」

 実はグリーンキッチンは商店会に承認されていない。

 それどころか、朔が稲荷町内に越してくるときも一悶着あったのだ。まだ先代の善光が大家をしていた頃の話だが、他のどの不動産屋も朔に物件を仲介してくれなかった。

 朔は稲荷町の中でも本稲荷もといなりと呼ばれる地域の出身だ。

 農村地域である本稲荷の出身者が観光商業区域である狭義の稲荷町内に入ることを嫌う層がいる。そうした層の代表が商店会長だったために、傘下の不動産屋はみんな渋った。

 その点稲荷町ミッセはどこの不動産屋にも仲介を依頼していない。逆に言えば、特別な事情がない限りは空き部屋の照会すらできないという、入居の条件が妙に難しい物件である。

 朔のときも善光に相談して初めて空室の存在が分かり、その日のうちに内見。その翌週には善光の運転で引っ越しが完了した。

 その後のグリーンキッチンオープン時も最も難航したのは物件探しで、このときは競売対象物件を見つけてきて買い上げるという手段でどうにか乗り越えた。もし通常の賃貸店舗を探そうとしていれば、今頃まだ苦労していたかもしれない。

「グリーンキッチン始めるときもなかなか大変だったんだよ。会長が全然いいって言わないから屁理屈こねてスタートしたようなもんだし」

「そのへん、詳しく聞いたことがないから教えてほしいんだけど、なにがあったんだ?」

「なんか、僕ももう細かいことは忘れたけど、『いつまでもふらふらしやがって、そのまま油売り続けてろ!』って言われたことがあって、それで『油売るなら許されるでしょ』って言い張って」

「えっ、なに、どういうこと? 『油売り続けてろ』ってどういう意味だ?」

「多分、怒りすぎて何言ってるか分かってなかったと思うよ。でもまあ、言葉尻捕らえて隙でも突かなきゃ、新参は商売できないから」

 そういうわけで、グリーンキッチンは稲荷町商店会にも加盟していない。

 商店会発行のグルメマップにも掲載されていないのでときどきクレームが来るがいたしかたない。

「あー、あのジジイまじで本稲荷のこと嫌いだからな。なんかされたことあるのかってくらい嫌ってて、満月庵まんげつあんでも本稲荷産の野菜は使えないらしいぞ」

 老舗旅館の神泉満月庵しんせんまんげつあんおよびその別邸、ホテル、割烹と、稲荷町内には商店会長のグループ傘下店舗が多く存在しているが、そのどれもがおおっぴらに本稲荷の農産物を使えないため、地産地消率が低迷しているという馬鹿げた話がある。他の宿や飲食店がコストの折り合いがつかなくて泣く泣く他地域のものを使っているというのとは全く異質な話であって。

 その点グリーンキッチンは生鮮野菜と米に関してはほぼ百パーセント本稲荷産。今日も季子が仕入れに行っているのは本稲荷の直売所である。

 朔も季子も本稲荷の農家出身とあって、非常に動きやすく互いに重宝しているところだ。特に朔の実家である米農家からは、米以外にも小麦粉の代替としている米粉を仕入れている。

「美味しいのにね。今の時期、スイートコーンとか最高なんだけど」

「ああ、美味いな朝採れ」

 生で食べられるのは収穫後半日程度が限界だ。それを過ぎると急速に味が落ちる。それでも美味いのだが。

 夏の贅沢なごちそうである。

「そういえばさ、ゼンユーは会長に小言とか言われなかったの?」

「別に? 総合事務所は元々じいちゃんのもんだし、法律事務所は……あー、特にお伺いも立ててないけど、とりあえずあのジジイが圧力かけれる業種じゃないしな。一回だけ『のこのこ帰ってきてでかい顔しやがって』みたいなことは言われたかな。でもその翌月にあった役員選挙でジジイのとこの息子と青年部長選ぶのに一騎打ちになって、そこで票の九割が俺に入ってからはなんも言わなくなったな」

「え、そんなことあったの?」

 商店会と縁のない朔には初耳だが、これはそれなりの大事件だった。

「うん。初めはジジイとこの息子だけが立候補してたんだけど、あれだけは駄目だってみんなに泣きつかれて、しゃーなし立候補したのよ。でまあ大半は俺に入れてくれたっていう」

 本部役員の中にあって青年部長は無記名投票によって決まる唯一の役職だ。他は全て屋号を書いた投票となる。おまけに青年部長への投票権は青年部会員しか持っていないため、若手を抑えつける商店会長の暴走を止める最後の砦となっていた。

 そんな重要なポジションをゼンユーに任せた理由は、あの善光の孫で後継者だという以外に、幼少期から大人の圧に屈せず堂々と喧嘩できた肝の太さを買われてのことだった。

 期待に違わずゼンユーは老舗の若旦那相手に終始飄々とした態度で引かず、五月から商店会青年部長を務めている。

 商店ではない三ツ世の家が稲荷町で幅を利かせ続けているのは、善光からゼンユーに受け継がれた博愛の精神と好戦的な性格のおかげと言えた。

「ちなみに、青年部長てなにしてるの?」

「青年部メンバーの意見を集約して本部に持ってくんだよ。商店会のメンバーで四十五歳以下だと青年部に入れるんだけど、若手が一人で何言っても説得力に欠けるだろ。それをこう、みんなで頑張るわけだ」

「うんと、その青年部にだけ加盟して承認してもらうとかっていうのはできないの?」

「それは無理だな。青年部はあくまでも商店会の一機関に過ぎない。全体の決定はやっぱりあのジジイ裁量だ。……ことこの分野に関しては、青年部で推してもどうにもならん。どうせ後で揉める」

「じゃあどうするの」

「要は、事業内容にさえ了をもらえばそれでいいんだ。だから一旦俺が単騎で行って承認もらってくる。……その後で経営主体がすり替わってようが、中身にOK出させておけばいくらだって戦える」

「もしかして、そこまで見越してうちの役員に……?」

「いや、ごめん、あの時は酒入ってたからそこまで考えてない。単にがっつり首突っ込みたかっただけ」

「あ、そう……まあどっちでもいいんだけど、お願いしていいわけ?」

「任せろ」

 親指を立てて笑ってみせるゼンユーには、もちろん勝算があった。

 もしこういうことを急に言い出しても変に思われないよう、この三ヶ月色々動いてきたのだ。

 そこらじゅうの狭い空き地を買い上げて駐車場にしたり、商店会のマスコットキャラクターを作ろうと言い出してみたり、善光がやっていた相談会に知り合いの専門家を呼んで発展させたり。

 それも全部定例役員会の場でしれっと言っては会長の『勝手にしろ』の言葉を議事録に残すことで了の代替としてきた。

 そして今回もそういう風になる……はずだった。

「実は、町内で二十席くらいの飲食店を始めようかと思ってまして。この頃色々ややこしいですから、アレルギーとか添加物とか、そういうのに配慮したようなコンセプトでやろうかなと。あと、住民割引みたいなのをやろうと思ってるんで、みなさんも来てくださいね。繁忙期とかはお子さんだけ来てもらってもサービスするんで」

 嘘はなにも言っていない。

 割引のくだりなど、始まってしまえばどうとでも変えればいい。

 得意のポーカーフェイスで言いきったのだが、なかなか会長の言葉が出ない。

 それどころか、口を開いたのは副会長だった。

「子どもだけでというのは、今流行りのこども食堂とか言うやつではなかろうな?」

 まずい、とゼンユーは身構えた。もちろん顔には出さずに。

 副会長は会長信者であり、新しいものへの拒絶も強い。

 その言葉を連想させないように気をつけたつもりだったが、甘かったか。

「いえ、普通に観光客向けのご飯屋さんですけど。ただまあ、みなさんにも使ってもらえたらなって」

「仮にそうだとしても、子どもだけの客に食わせるようなのは推奨できん」

「町内の子ですよ、厳しすぎやしませんか」

 さてここからどうしたものか。いつもならするっと通ってしまうから油断していた。

 思考を巡らせているうちに今度は会長が言葉を発した。

「お客様の目につくところで子供らが飯を食うようなのはみっともないから駄目だ。イメージが悪くなる」

 そこまで言われてしまえば、いっそ尻尾を切ってでも逃げるしかない。

「じゃあ住民割引みたいなことはやめましょう。自然派レストランみたいなので全然いいので」

「駄目だ」

 しかし通らない。

「そもそもお前がやるなら駄目だ。三ツ世には飲食店だけはやらせん」

 どうやら最初から詰んでいたらしい。

 これ以上粘っても不利になるだけだと判断したゼンユーは感情を押し殺してその場を凌ぎ、まっすぐグリーンキッチンへ向かって大仰に詫びた。

「ごめん、本当にごめん」

「いいってゼンユー。気にしないで」

「そうだよ、あたしたちがやらなきゃいけないこと、やってくれたんだから」

「くっそー、悔しい!」

 ゼンユーは会長のことを全く尊敬していない。

 故にただひたすらに腹立たしい。一片たりとも納得できない。

 会長の神泉満月庵は老舗で規模も大きく、各種メディアに何度も取り上げられているため人気は高いが、一方で労使関係のトラブルもかなり多い。

 特に賃金と拘束時間の相談はひっきりなしで、ゼンユーのところへは助けを求めるメールが頻繁に届いている。それをこの便利屋が上手く逃がしたりしているので、離職率もそれなりに高い。

 そういうことを知っているからこそ、腹立たしい。

 それに、自分が三ツ世善悠だという理由で撥ねつけられたのも頭にきていた。

 三ツ世の名前は誇りに近い。

「で、どうするのこれから」

「どうもこうも、もうお伺いなんか立てないでやってやる。さっさとオープンして既成事実を作って、その後揉めたら受けて立つ。朔、保健所の根回し早めに頼む。営業許可さえ取れればこっちのもんだ」

「そりゃそうだろうけども、お前は大丈夫なのかそれ」

「なにが?」

「いやいや、青年部長が本部の会長に楯突く構図になってるけど」

「無問題。どうせあの会長はそのうち引きずり下ろす……その前に逝くかもしれんが。とにかく問題はない」

 相当興奮している様子なのでハーブティーを勧めるが飲んでくれそうにもない。

 朔も季子もよく知っている。

 こういう風になったゼンユーはもう止まらないし、必ず目標を達成するということを。

 保育所からの付き合いだ。手に取るように分かる。

「ゼンユー」

「なんだ?」

「信頼してる、よろしく」

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