2章 油屋のこども食堂(3)
グリーンキッチンの営業終了後にまかないを三人分用意した朔は、白のボトルを開けた。
ゼンユーへの土産物なのだが、持って帰らせようとしたのを本人が今飲むと言うから慌てて氷に放り込んだ。
結局選んだのは臙脂色のエプロンで、さっき魚にはたいた粉が胸のあたりを汚している。営業が終わっても脱がないのは、この後まだ掃除をしなくてはならないからだ。
普段よく見る格好ながらも滅多に見ないほど満面の笑みで、親友へ報告。
「そういうわけで、結婚します」
「ああ、うん。そろそろかなとは思ってた。おめでとう」
「もうちょっと祝ってくれてもいいんじゃないの、ゼンユー?」
背後のカウンターでデザートのジュレを盛り付けている季子が茶化すように言う。
「いや、あの……朝っぱらから嬉しそうなLINEしてきたの言うぞ? あのときもう散々祝っただろ!」
「あ、なんで言うの? 恥ずかしいじゃん!」
「なんなんだよお前、めんどくさいな。いいのか朔、こんなんで!」
「可愛くて僕は好きだよ?」
「そうですか、よかったですね!」
ひとしきり騒いだ後、ゼンユーは少し照れたように言った。
「でも、本当によかったと思ってるよ。応援してきた甲斐があった」
グラスを朔に向けて軽くぶつければ、涼しげな音が響いた。
「ありがと」
「季子も、改めておめでとう」
「どうも」
葡萄のジュレを入れた器をテーブルに置き、飲みさしのグラスを持ってゼンユーに応える。
「それで、僕はもう色々やりたいことやって満足したから、次は季子の夢を叶えていこうと思ってさ」
あまりアルコールに強くない朔は、一杯目の残りにアプリコットシロップを垂らしてゆっくりかき混ぜる。簡単には溶け込んでくれないそれを眺めながら勿体つけてなかなか話を進めない。
「なにか始めるのか?」
グラスを空にしてしまったゼンユーは、自分でボトルから注ぐ。もう三杯目だ。
「まあね。でも急になに言うのかと思ってびっくりしたんだよ? 前にちょっと言っただけのこと、よく覚えてたよね」
「そりゃ季子ちゃんの夢だもん、覚えてるに決まってるでしょ」
「てっきり寝てると思ったから言ったのに」
「寝たふりしてた方が可愛いところ見れるからね」
「俺は惚気を聞かされにわざわざ来たのか?」
グラスを置き、ゼンユーは不機嫌な声を出す。
「ごめんって。そういうことじゃないんだって」
明らかに浮かれた顔で言われても困るほどだが、これで今日の営業は大丈夫だったのだろうかとゼンユーは心配になる。婚約ほやほやなので今日くらいはと思いつつ急かせば、季子がゆっくりと話し始めた。
「こども食堂ってやつをね、やりたいの」
こども食堂とは、親による食事の準備に難がある家庭の子どもを対象にした廉価な飲食サービスのことだ。
現代日本の家庭環境と食事様式の変化によって必要性が高まっていることもあって、各地で増えているということはゼンユーも聞きかじっている。
ただし、稲荷町に限らず湯山区内でそういった動きがあるという話は聞いたことがなかった。ゼンユーはその方面へはアンテナを張っているので、かなり正確な情報である。
「この辺じゃ初めてになると思うけど、分かってるのか」
「初めてだから意味あるんじゃん」
「……本気でやると?」
「当たり前でしょ。グリーンキッチン二号店として、きっちりやるよ」
こども食堂はその性質上、収益事業としての運営は困難だ。既に運営されているものも大抵は月に数度、多くても週に数度の開催で、ボランティアによるものがほとんどである。
「あれって基本的に非営利事業だろ、二号店なんて形にして、ちゃんと採算取れるのか」
厳しめの口調で言えば、季子の代わりに朔が得意げな顔をして言う。
「いや、僕らはこども食堂をビジネスとしてやる。いい意味でね」
「ほう?」
「そもそも、家庭の食事に難がある子だけを相手にすれば支出超過になって当たり前。やるからには持続可能な形でやるつもり。不安定を不安定で支えても意味がないから」
それに、と季子が続ける。
「あたしが作りたいのはよくあるこども食堂とはちょっと違ってて。どの家の子も、大人も、みんながハッピーになれる、そんな場所なの。だからグリーンキッチンの二号店にする」
グリーンキッチンは管理栄養士のいる食用油専門店だが、それ以上に特徴的な点がある。
取り扱う商品には小麦と卵、そば、甲殻類は一切使わず、乳製品と落花生も徹底して隔離販売。その他の特定原材料も極力使わず、使う場合は大きく明記した上で単独販売。
カフェでは全ての料理の食材情報を提供した上で、申告があれば食材の部分変更や特別メニューでの対応も即興で行う。もちろんそこまでのサービスは朔が店にいるときに限られてはいるが、近郊のアレルギー児保護者の間では有名な店のひとつだ。
とはいえグリーンキッチンは食物油を中心とした食材販売がメイン。カフェはあくまでもおまけだ。席数は少なく、ディナー営業でもコースメニューのような提供方法は取れない。それができるような厨房設備を備えていない。
メニューの充実や惣菜の取り扱いもあればという声はこれまでにもあった。
「アレルギー対応に特化したレストランを作って、時間帯を限定してこども食堂をやる。あたしがしたいのは、そういうこと」
ここまで聞けば察しのよいゼンユーには大体話が見えてきたのだが、それをあえて無視して一応聞いておく。
「で、なんでわざわざ俺にそんな話をするんだ?」
「そりゃあ、ぜひともコンサル的立場から参加してもら」
「嫌だ」
完全に食い込んで拒否して、絶対にやらんからなと付け足した。
「なんでよ、便利屋さん、引き受けてよー」
「便利屋は副業だ。あんまり甘えるな」
「じゃあ顧問弁護士でいいよ、手伝って」
二人して必死で引きずり込もうとしてくるのが面白くて、わざわざ長引かせて遊びたくなる。
「じゃあってなんだ、俺にも仕事を選ぶ権利はあるぞ。それに酒を飲んだらバッジの要る仕事は受けない」
「頑固だなゼンユー……」
これまで基本的に二人でやってきたような会社だ。他にはバイトやパートの人間しかいないものだから、信頼の置ける優秀な人材が目の前にいて声をかけずにはいられない。
だからと言ってゼンユーも中途半端な形で参画するのは嫌だった。
故に、やるからにはきちんとやりたい。そう思った。
「役員に三ツ世善悠の名前を入れておけ、鳴島社長?」
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