2章 油屋のこども食堂(2)
翌朝、自宅寝室に差し込む朝日のせいで目を覚ました朔は、全くすっきりしない身体を起こすのを諦めて、スマホを充電ケーブルから引っこ抜いていじり始めた。
充電した記憶は欠片もないし、なんならどうやってベッドに潜り込んだのかも覚えていないのだが、大方親切なゼンユーのおかげだろうと推測はつく。
これもいつものことなのだ。
稲荷町ミッセの大家は先代も当代も揃っていい人だから。
他にいい物件が見つからなくて困っていた朔を呼び寄せて、空き部屋を格安で貸してくれたのが先代なら、当代は今でも家賃据え置きで貸し続け、多少のことは目をつぶってくれている。
スマホのメールアプリでいくつか届いていた仕事のメッセージに目を通し、SNSのアイコンをタップ。
フォロワーはそれなりにいるがフォローは最小限の個人アカウントで動かすと、タイムラインに自社の公式アイコンが登場した。
おはようございます
グリーンキッチン@稲荷町です!
本日より社長が戻ってきましたので
量り売り&テイスティング、
さらにディナー営業も再開!
限定で社長のヨーロッパ土産がもらえるかも?
添付された画像の中でオリジナルラベルのオリーブオイルをダースで抱えた自分が笑いかけているのを見るのは、非常に複雑な気持ちだった。
……いや、よくあることではあるのだが。
発信者が誰なのかは分かりきっている。
眠気を振り払いながらベッドから抜け出てリビングへ。
そこでフライパン片手にスマホをいじるお団子頭が一人。
その指が画面の端をタップしてラグ数秒、新しいポストが表示される。
今日の社長は何色のエプロンかな?
当たった人にはスペシャルドリンクをサービス!
来店前にアンケートに回答して、
回答画面をスタッフに見せてね!
・当店のスタンダード、グリーン!
・意外と似合う? ダークレッド!
・セクシーなブラック&シルバー!
どう声をかけたものか迷っているうちに、更に追加の投稿。
本日、社長は十一時のオープンからインです!
「……あの、そうやって人の出勤時間勝手に決めるのやめてほしいかな」
堪りかねて遠慮がちに声をあげれば、こちらを見もせずに文句が返ってくる。
「また勝手に出てったんだから、せめて働いてもらわないとね」
「いや、これは立派な経営行動であって……ていうか量り売りもテイスティングも季子ちゃんがやっていいよって僕何回も言ったじゃん……なんでまた休止したの?」
「朔のパフォーマンスに敵うわけないもん。半端にやって評判落とすよりはマシでしょ」
「いや、時差ぼけの僕にフルタイム働かせるのもどうかと思うけど……」
「管理栄養士の店って書いちゃってるんだから、あんたにいてもらわないと困るの」
朔の肩書きは社長だが、名刺には『管理栄養士』の文字が印刷されている。もちろん他にもオイルソムリエやらスパイスマスターやらの民間資格も持っている。しかし、やはり管理栄養士の字面の圧には敵わない。グリーンキッチンは有資格者による専門的な食のアドバイスが受けられる。
倉見季子は調理師としてキッチン全般を任されているが、社長がこれなので大まかな経営や帳簿管理、広報なんかも引き受けている。おまけにこうしてしょっちゅう朔の家に来ては家事をやってくれている。
負担をかけているのは分かっていた。
それでも、朔には今のうちに見ておきたいものがたくさんあった。
どれもこれも日本にはないものばかり。
まずお金を貯めるところから始めて、拙い語学力でなんとか渡航を繰り返し、少しずつ交渉できるようになり、好奇心を満たせるようになって。
その間、パートナーに迷惑をかけたことも自覚しているし、よく見捨てられなかったなとさえ思っている。
季子のやりたいことも分かっているからこそ、先に自分のやりたいことを優先しておきたくて無茶をしている、そういう状態だった。
しかしそれももう終わり。
朔のやりたいことは今回で全て達成した。
来週にはその成果がごっそり航空便で届く予定だ。
ここまで我儘を聞いてもらったからには、次は聞かねばならない。
「季子」
「なに? もうすぐパン焼けるからお皿用意してくれない?」
「ちょっとだけ時間ちょうだい」
「だからなに」
苛々を露わにする彼女に、それでも今言うと決めていた。
こちらを向いてくれないので後ろから肩を抱き寄せて、癖のある髪に隠れた耳朶を狙って囁く。
「結婚しよう」
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