昭卒
光が明けた後、
次に現れたのは眼鏡を掛けた男だった。
「御嬢さん、この席空いてるかい」
穏やかに問うと彼は腰を下ろした。また前の人等が座っていたのと同じ席だ。
男は帽子を座席の上のフックに掛けると、少女にちょっとだけ目配せした。
彼は憂いを含んだ目をしていても、しかし見据えるべき方向をしっかと定めているようで、腹が決まっている様子で毅然としているところが伺える。
先ほどの人たちとはまた違った雰囲気のひとだと少女は思う。
――ああ、この人も何かをおくるんだ――
と、少女は今までの人たちの流れからして至って単調にそう推測した。
丸いフレームの眼鏡から見える目元は穏やかで、ゆったりした空気を纏っていた。
少女は心に浮かんだ純粋な疑問をそのまま口にする。
「貴方も、終わらせたのですか」
彼は少し間を置いた。それから口を開く。彼は上品だが余所々々しくない、柔らかい空気を持っており、背が余り高くないこともあってか圧を感じさせず、自然と少女は気をゆったりと構えて居た。
「…時代が続くことは大前提だ。
時代が続くために、終わりを終わらせねばならなかった。僕らは」
よく分からなかった少女は鸚鵡返しをした。
そして「誠に御聡明だった……」と目元を緩める彼に聞き返す。
「この夜汽車には、貴方のような方が乗ってきます」
彼は目元を袖口で拭い、少女の方に目線を合わせ、表情を切り替えた。
そして文字通り少女に話しかけるような穏やかな口調で問い返す。
「ほかには、誰が乗って来たんだい」
「……とても疲れた男の人。街を見て、皆弔いの火を掲げているんだと、不思議な事を言っていました。
…友人の代りに乗ったという人。『おくることが出来た』と、感を堪えているような目をして、まるで自分が既に亡くなっているかのような物言いをしていました。
その人は、別の男の人に連れられてさっき一緒に消えてしまいました。もうここには乗っていないんでしょうか。この夜汽車は何処にも停まっていないのに…」
「確かに、君には停まっていないように見えるだろうけれど、彼らには夫々降りるべき駅があったんだよ。下車駅は、降りるべき人にしか見得ない」
…府に帰ったら、と言っていた彼も、本当は東京に帰りたかったのかもしれない。そして彼はそこで降りたのだった。しかしそれは少女の終着とは違っていたのだ。東京でも、とうに過ぎたところの東京であった。
「貴方は、何処で降りるのですか」
ふと疑問が浮かんだ少女はまた消えられてしまう前に男に問うた。
「僕は……」
彼は考えるように目線を飛ばしてから、朗らかに冗談めかして「…葉山がいいなあ」と笑った。
見たところ上品な上下を身に着けているあたり、別荘でもあるのかもしれない。しかしそうでなくとも、親しみのある家を思い浮かべているような優しい目をしていた。
彼はそれから結局、終着駅を口にすることは無かった。否、よく分からなかったのだ。自分が何処で降りるのか。
「…長いね。良かった」
列車に揺られながら、男は窓の外を見つつ感想を溢した。
それが心からの感嘆であるように少女にも思えた。
彼は車窓に身を預けることもなく、背筋を曲げずに行儀よく座っていた。
「僕らが終わらせたのは只の終わりで、それからが始まりだ。まだ終わっていない。…続いていて良かった」
「…ああ良かった。」と、ひとつだけ、彼は続けた。
彼は外に見るものがあったのか、身を少し乗り出して車窓に手を掛けた。
「暗い……暗い、弔いの火だ。街が……」皆まで言う前に彼は口を噤んだ。少女にはその先が解ったようだった。
――街が沈んでいる。一体となってひとつをおくっている。
まるで御通夜みたいな隈を浮かべた最初の男の人が脳裏に甦った。あの男が言っていた事が、今の少女には少しだけ寄り添って分かることが出来るような気分だ。
がたん、ごとん、と規則正しいような、急に凸凹を踏むような列車の動きが少女たちを揺らした。こんなに激しく動いたような時代も、こうして夜汽車に乗って見渡してみればscenarioみたいに車窓を通りすぎてしまうのだ。
――ああ、○○。
顔をあげて男は誰かの名字を呼んだ。いつの間にか、少女の横あたりに一人の新しい男性が立っていて、少女たちをやさしく見下ろしている。
その途端、車窓の外はぱぁと晴れてしまった。森が明るい緑を映して通り去る。青空が黎明を穿った。
眼鏡の男は、目線の一致で悟ったようだった。終わったのだと。いずれ来る終わりが時代を抱いてしまったのだと。
だがそれは尽くした終幕であると、新たな男の目を見て言わずとも知れたのであった。それが何よりの救いで安泰で、やっと彼は息を吐きそうになった。
新しく来た男は腰を曲げて少女をぎゅうと抱き留め、「…頼んだよ。」と一言だけ、託した。
少女は終着の東京が近いことを悟った。それからまた少女はここに足を踏み入れて、つぎの人に何かを残して去って行くのだろうと茫然と覚る。
「若者はずっと進んでいける」
眼鏡の男は、首を穏やかに少しだけ傾げて少女に笑いかけた。一切の懸念は無用だと諭すように。
新たな光の明るい抱擁。驚くほどに明るかった。次の世がすり抜けるように入り込んで来ているようだった。
少女は、葬送をみたのだ。
最初の男も、二番目の男も、そして今、彼女の元を去ろうとしている三番目の男も、葬送に参加したかったのだ。
無縁のような暗さが、夜汽車を覆っていた。それがだんだんと晴れようとしている。そこは少女を迎える土台として。
少女の終着駅は近い。
――次は、東京、東京……
今まで一度も聞えなかったアナウンスが少女の耳に響いた。何も孕んでいない機械的な声。
北斗七星は見えなかったが、今夜はいつもの身形をして少女を見下ろすだろう。
彼らが消えた瞬間、また真暗に回帰した車内を包む星空がいちばんに、きっと少女に平静と帰郷を思わせる。
眼鏡の男は、帽子を手に取って一つ会釈をして、少女に軽く別れを告げた。
「僕らは繋がっているよ、ここに来たということはまたあえるんだろうね」
やはりぼんやりとした言葉を浮かべる不思議な男の人は、しかし少女に比較的はっきりとした確証を与えた。
ああ、明るい――彼らがボックス席を離れ、向こうに歩みを進めた直後、またパッと閃光が少女を迎えた。
思ったよりも早かった終わりに、少女は身支度を整える。
あと少しだけ時間があったが、それは矢のように瞬時に訪れる。
「次は……平卆かしら」
少女は次を見定めていた。
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