~第六章~

 勘違いしていた。愛されていると……。


『あき、疲れてないかい?』

『はい!』


 物心つく頃には兄に育てられていた私は、兄の言うことが全てだった。兄とは異母いぼ兄妹で歳が一回り以上離れていた。両親の顔は知らない。なぜ自分に両親がいないのか、幼い頭では疑問を持つこともなかった。それが普通なのだと。漠然ばくぜんと信じていた。本当に愚かな子どもだった。


『おまえは可愛いね』


 兄はよくそう言って、私の身なりを気にしていた。それを愛されていると思っていた。けれど違った。与えられる食事も、温かい湯浴みも、ゆくゆく高値で売るための商品の手入れに過ぎなかったのだ。


『そこ、足もとに気を付けて』


 お互いに手を繋ぎ細道を歩く。途中、下から吹き上げる突風によろけると兄が言った。


『よく見ないとわからないけど谷があるんだ』

『たに?』

『うん。落ちてしまうとね、死んでしまうんだよ』


 死ぬと聞いて兄にしがみついた。初めて直面した谷は今でも忘れない。


『今日は一緒に出かけようか』


 兄は優しかったが、共に遊んでくれるような性格ではなかった。たまに見かける親子連れが、手を繋いで歩く光景が羨ましかった。まさか兄から誘って貰えるとは思わなくて私は天にも昇る気持ちになった。手を繋いで一緒に歩ける。夢が叶う。私は迷わず頷いた。その夢の先がどこに向かっているとも知らずに……。


『ちと幼すぎやしないかい?』

『ですが良品でしょう? 顔も悪くない。きっと美人に育ちますよ』

『うーん、確かに。……でもあんた、別に金に困ってる訳じゃあないんだろ? 実の妹を売るのに良心は痛まないのかい?』

『いえまったく。姉たちも同じように売って家計の足しにしていた母を見ていたからでしょうか。おなごはお金に変わる商品としか見られないんですよね。特にこの子は容姿に恵まれた。今までの中でも最高の一品ですよ。姉たちのように安い宿場しゅくば町には勿体ない』


 連れてこられたところは、とても華美な建物が並んでいた。ここが遊郭ゆうかくであるとも、建物が妓楼ぎろうであるとも、今まさに売られようとしていることも、何もわかっていなかった自分はただ立ち尽くすばかりだった。だが、兄と遣手婆やりてばばの会話は今も覚えている。彼らには礼を言わなければならない。素直で単純で馬鹿な己に早々と現実を教えてくれたのだから。


『私は前から養子の話が上がってましてね。連れがいると面倒なんですよ。それなら少しでもお金に替えて持参金にした方が合理的でしょう?』

『こういう商売だ。これまでもロクデナシばっか見てきたけど、あんたがダントツだよ』


 兄はキョトンとしていた。彼にとって私は物だった。ずっと、ずっと、妹でも人間ですらなかったのだ。






「あんたもあたしをはかったのかい!」


 女将に何度も殴られ、そろそろ痛みも麻痺してきた。女将自ら折檻せっかんとはまぁ恨みを買ったもんだ。二乃助さんと親しい自分が目障りだったのもあるだろう。どう聞いてもありえない姉さんと二乃助さんの足抜けの話題を鵜呑うのみにして、嫉妬で手を上げる女なんと醜いこと。


(こんな人にかまってる暇はないのに)


 女将に捕まってから随分時間を無駄にした。彼女の話が一部本当なら、姉さんと二乃助さんが妓楼から消えたことになる。早く早く、彼らを探さなければ。そんな時、聞き覚えのある声がした。


「やめっ! やめて下さい……!」


 頭を抱えられるように庇われたが、ぶっちゃけ触るなと思った。それより手足の縄を切って欲しい。


「木ノ下様!? ここは立ち入り禁止ですよ。いくらあなた様でも……」

「違うんです! 嘘なんです! 全部私のついた嘘なんです……!」


 木ノ下さんは泣いていた。まぁ、そんなところだと思っていた。


「え、じゃあ、二乃助さんと桔梗は……?」

「すみません。全ては私の妬心としんが招いた嘘です。彼らは足抜けなんて考えてません。この子も、関係ありません」


 そこでようやく女将は我に返ったようだ。慌てた様子で中に戻っていった。きっと楼主しゅじんを探しに行ったのだろう。その前に縄をいていけと思う。


「すみませんすみません! 私のせいで! 大丈夫ですか?」

「それよりこの手足のなわをほどいてもらえます?」

「あっ、はい!」


 手足が自由になると、肩を回したり跳ねたりしてどこも折れてないことを確かめる。折檻せっかんしたのが女の力だったのが幸いした。これならすぐ動ける。ところどころ鈍痛どんつうを感じたが気にしていられない。たかが打撲だぼくよりもっと大事なことがある。


「傷の手当てをしましょう」


 ……こいつは馬鹿なのか。ああ、違う。素直なのだ。ただ、素直なだけなのだ。ことの重要さもわからないほどに。


「そんなひまはありません。姉さんたちを探さなければ」

「え? でも嘘ですよ? 女将さんには明かしましたし、今頃楼主さんにも伝わっている筈です。けれど、まさか君が女将さんに怒られるとは思いませんでしたが……」

「……なら姉さんを呼んでみるといいですよ。二乃助さんも」


 もう置いていこうと思った。だが何か不穏な気配を察したのか、彼は転がるように女将さんの後を追った。


「いない! 二人ともいない! どうして……!」


 門を出て、着物の裾をたまくし上げ、走る準備をしていたところを捕まった。思わず舌打ちする。


「ろうしゅのねらいは二乃助さんの命です。そして、あの人は二乃助さんをにくんでいます。そこに姉さんが利用されるかのうせいは高い。いっこくも早くふたりを見つけ出さなければいけません」

「命!? そんな! 私はただ……っ」

「ぐだぐだ言ってるひまがあったら手つだってください。私は西にむかうので、あなたは東にむかってください。手おくれになる前にいそぎますよ」


 木ノ下さんは泣きながら頷いた。そして同時に駆け出す。出来れば自分に当たって欲しい。彼は見つけたところで何も出来ないと思うから。


(ああ、嫌だな)


 ――既に手遅れだとさっせられる冷酷な自分に嫌気がさした。
















(また、この夢……)


 夢はいつも意地悪だった。

 夢の中の私は、この先何が起こるか知っていても手が出せない。終わったことなのだ。全て。目が覚める。頬が濡れていた。


 島原に移ってから数年が経った。私は十六になり、源氏名も付いた。

 遊女あるまじきと言われるかもしれないが、かな姉さんと二乃助さんを亡くしてから、全ての人間が憎かった。特に男が。故に私は男に触れられない。男の気が乗らない源氏名を付けた。時には話術わじゅつで朝を迎え、時には酒に薬をって眠らせ、色々な手を使って避け続けた。避さけて避けて、それでも気がつけば遊女になっていた。自分ではよくわからないが、おとこかお負けの話術が気に入られているようだ。この頃には私を女と見る常連客はいなくなった。私としては助かる限りだが、他の女郎じょろうは面白くなかったのだろう。色々ちょっかいを出されたが、特に酷いものには直々にお灸を据えた。それからは女郎たちもちょっかいを出して来なくなった。


 外を窺う。まだ真っ暗だ。二度寝する気も起らず身体を起こす。そんな時、真夜中には似つかない明るい声がした。


「ねぇ、りょふってあんた?」


 ゾクリ、と悪寒を感じた。いつの間に部屋の中に。あきは動揺を胸に秘め、なるべく冷静に返した。


「違います」

「え? 俺、部屋間違えた? うっそー!」


 ……これまでも何度か暗殺され掛けたことがあったが、主に女郎の手先に。ここまで間抜けな暗殺者は初めてだった。

 夜目よめに慣れてきた頃、ようやく姿をとらえた。そして驚く。声の高さから若いと思っていたが、まだ少年といっても過言かごんじゃないだろう。


「ねぇねぇ、あんた! りょふって遊女の部屋知ってる?」

「知ってますよ」

「ほんと? 案内してよ!」

「……構いませんが、少し質問しても宜しいですか?」

「別にそんな丁寧な話し方じゃなくてもいいのに」

くせみたいなものです。それより、呂布さんを殺すつもりですか?」

「え? なんでわかっちゃう? あんた天才?」


 ……さっさと首謀者しゅぼうしゃを聞き出すか。


「誰のがねですか?」

「あ、それは言えねー」


 あきは驚いた。この阿呆あほうさ、なんでも口を割るかとあなどっていた。


「俺の信条しんじょうはねー。失敗ばっかするけど、絶対ご主人を売らないことー」

「なるほど。偉いですね」

「ほんと? えへへ~」


 曲者くせものの少年は、本当に嬉しそうに笑った。……なんだか調子が狂うな。


(まぁ私も、別にそこまで躍起やっきになって訊くことでもないけどね)


 恨みならたくさん買っている。主に女郎たちの。誰が差し金でも不思議ではない。それよりも、この少年の方が気掛かりだった。こんな堂々と妓楼ぎろうに忍び込むなんて、用心棒に見つかったらどうなることやら。


如何いかにも怪しい恰好かっこうしてるし)


 なぜ布を被るのに顔を隠さない。何の為の布だ。せめて口元くらい隠せと思う。


 慌ただしい足音が近づく気配にあきはやれやれと溜め息をついた。こういうのは不得手ふえてなんだけどなぁ。


「やっべ、誰か来る!」


 あきは立ち上がって少年に近づくと、その両肩を掴んで押し倒した。そして彼を閉じ込めるように両腕を着いて、目を白黒させている少年に言う。


「静かに」


 そうしているとすぐに襖が開き、今夜の不寝番ふしんばんが慌てた様子で現れた。まったく、職務怠慢しょくむたいまんである。


「ここに怪しい奴は来ていないか!」


 一応遊女の危機に駆け回っているようだ。しかし不寝番の男はあきの体勢を見るや否や襖を閉じた。「失礼した!」とご丁寧に勘違いしたまま。まぁ勘違いさせたのは自分だが。少年に覆いかぶさる様子は誤解されてもおかしくはないし、駄目押しで、消えろと睨みつけておいた。本当に駄目な不寝番だ。私が男と共寝をしないことなんて周知の事実だというのに。まぁいい、手っ取り早く邪魔する者はいなくなった。再び浅く息をついて下を見ると、真っ赤になった少年が涙目でこちらを見上げていた。は?


「お、おおおおおお、俺、そんなつもりなくって! あ、でもこれっておかしらが言ってたすえぜん? ってやつ? キャー!」


 ……キャーって。やめろ。顔を覆うな。お前はどこの生娘きむすめだ。


「……何もしませんよ。貴方とゆっくり話が出来なくなると困るので誤魔化しただけです」

「え、そうなの」

「残念な顔をしないで貰えます」


 あきは少年から身体を起こすと額を押さえた。頭が痛い。同じく少年も身体を起こす。すっぽり被っていた布は落ち、全体の恰好が露わになる。


「…………貴方、もしかして忍びですか」

「え! なんでわかんの! 実はおねーさんも同業者?」

「浮世絵で見たことある忍びの姿を体現したような恰好していれば誰でも気づきます」


 あきは一息で言い切った。

 そう、少年の恰好は頭巾こそはしていないが、黒の装束の内側に鎖帷子くさりかたびらを着込んでいる。そしておまけとばかりに苦無くない(初めて見た)という武器が両腕にくくり付けられていた。すぐ扱えるようにだろう。そして帯には脇差をいている。忍びは大昔に織田に滅ぼされて生き残りも散り散りになったと聞いたことがある。なるべく目立たず細々と今を生きていると。だのに、どうだこいつは。あまりに堂々とした恰好に逆に心配になって来る。


「もっと要領よく忍び込めなかったのですか? 客のふりを装うとか」

「あ! その手があったか!」

「……」

「でも俺、そんなにお金持ってないしなぁ」

「……忍び込むのになんでげ代の心配してるんですか」


 とっさに少年を庇った己を褒めたい。この子は早死にする。確実に。


「貴方、忍びに向いてないですよ」

「よく言われる!」


 そうなのか。言われているのか。あきは思案した。基本他人に冷たいと言われるが、子どもは別だ。……誰かさんの影響をしっかり受けてしまった。


「……貴方の信条は雇い主を裏切らないことでしたね」

「うん? お金貰ってるしね」

「金額を言いなさい。私がその倍払います。そしてそのお金は返して来なさい」

「え?」

「主人のくら替えを推奨すいしょうしているんです。なんです。私が主になるのは不満ですか」

「え、え、でも、だって、俺のこと忍びに向いてないって……」

「ええ、向いてませんね。すぐに騙されるし駆け引きも下手です。人ひとり殺す気で掛かるならそれなりの覚悟で挑みなさい」

「……なんかおねーさんの方が忍びに向いてそう」


 失礼な。一般常識だろう。


「で? 雇われるんですか? それとも私を殺しますか?」

「なんで俺がおねーさんを殺さなきゃなんないの」

「呂布は私だからですよ」

「ええええ! やっぱり俺合ってたんじゃん! なんで嘘つくの!」

「暗殺する相手に名前を確認する人がいますか。貴方がやってるのは明殺ですよ」

「めいさつって初めて聞いた!」

「私も初めて使いましたし、そもそも存在しない言葉なので覚えなくていいです。それよりどうするんです? 私は気が短いんです。さっさと決断して下さい」

「あ、それわかる気がする」

「さて、衛兵えいへいを呼ぼうかしら」

「ごめんなさい! 雇われる! 雇われたいです! これからよろしくご主人!」

「……ご主人ですか。一応源氏名でなければあきという名前がありますが、まぁ貴方の好きに呼んで下さい。それで? 貴方の名前は?」


 それに対する少年の返答は呆気なかった。


「え? 忍びに名前っているの?」


 あきの柳眉りゅうびが寄る。


「……貴方は今までなんて呼ばれて来たのですか」


 少年が唇に人差し指を当て天井を見上げた。


「おい、とか、お前とか?」

「……」


「あ、でも俺、こう見えて結構長生きしてるから悪運小僧とも呼ばれてるよ! これが名前ってやつ?」


 あきはどこへ向けていいのかわからない怒りを持て余した。忍びの世界など、遊女の自分が知る訳がない。が、あんまりだ。


(姉さん……)


 私の名前を好きだと言ってくれた女性ひと。姉さんのようにはなれないかもしれないけれど……、


「いいでしょう。私がとっておきの名前をつけてあげます。隣に来なさい」

「え?」


 あきは寝台の近くに山積みに置かれている本の中から一冊を手に取った。


「今夜は寝かせませんよ」


 世の遊女が、というか客がよく使う台詞せりふを吐くあきは、三國志の史記を片手に活き活きとしていた。



せきああああ! あんた最高だよ! 最高にカッコいいよ!」


 主人、呂布の為に命を懸けて戦国を駆け抜けた名馬めいばは、見事少年の心を打った。


「私の源氏名が呂布ですし、彼の相棒かつ愛馬の名前にあやかって赤兎せきとという名はどうです?」


「めちゃくちゃ嬉しい! ありがとうご主人! 俺は赤兎! 改めてよろしく!」


 少年、赤兎の様子にあきもうんうんと満足そうに頷く。ここに二乃助がいたら頭を叩かれてたに違いない。


「名前は決まりですね。あ、歳はわかります?」

「んーん、数えてねーや」

「まぁそんなとこだと思いましたよ。じゃあ見た目で行きましょうか。ふむ」


 ろうそくの灯りをだけだと頼りないが、見た感じだと十三、十四か……。あんまり歳が近いと落ち着かないから十三にしとこう。などとあきが考えていたことを、生涯赤兎は知るよしもなかった。


「十三歳はどうです?」

「いいよ! そっか、俺が十三……。すげー、なんだか人間みてぇ」


「人間ですよ」


 パチパチと瞬きをする赤兎に向かって、あきは重ねて言った。


「貴方はずっと人間ですよ」


 一瞬言葉に詰まった赤兎は、意味を理解したのち破顔はがんした。


 そして翌日。正確に言うとその日の正午。朝方仮眠を取り直していたあきの元へ赤兎せきとが降って湧いてきた。文字通り上から。夜中も思ったがここの警備はザル過ぎではと思う。赤兎はあれから用事があると言って席を外していた。まぁおおよそ予想はつくが。


「ご主人! お金ちゃんと返して来たよ! そしたら裏切り者って言われちゃってね、これからご主人の味方をするのかって訊くからちゃんとはいって答えて来たよ!」


 めて褒めてと目を輝かせる赤兎は、もし犬だったら尻尾をブンブン振っていただろう。あきは額に手を当てて深呼吸した。


「……主人を売らないのが信条とか言ってませんでしたっけ?」

「うん! 自慢しただけ!」

「自慢……」


 ナニ自慢だ。


「あと、けんせー? てやつ? ご主人に手を出したら殺すよ! って言っといたよ!」

「それは素直にありがとうございます。でも、殺しちゃうと後処理が面倒なのでやめて下さいね」


  無垢むくな笑顔で物騒なことを言う。まったく主人の顔を見てみたい。ああ私だった。なら仕方ないか。


「あと気になってたんだけどさ、ご主人ってお姉さんがいるの? 俺、挨拶した方がいいかな」


 これにはあきは驚いた。島原に移ってから誰も姉さんと呼んだことがない。私の姉さんはあの人だけ。赤兎の言う姉さんとは誰のことだ?


「……どうして私に姉がいると?」

「ん? 昨夜ご主人うなされてたでしょ。その時、ねーさん、ごめんなさいって、あと、にのすけ? だったかな。にのすけさん、馬鹿、とか、嘘つき、とか色々言ってたよー」

「……」


 なるほど納得した。納得はいったが……、


「貴方、いつからひそんでたんですか。しかもしっかり人の寝顔見てんじゃないですよ」

「え、だって寝てるとこを殺すなんて卑怯じゃん」

「暗殺の意味わかってます? ああわかってませんでしたね」


 正々堂々をかかげた暗殺は暗殺じゃないだろう。呆れて正す気も失せる。


(どうせ座敷しごとまで時間があるしな)


 この先うなされる度に寝言を復唱されてもたまらない。


「確かに、私には姉と兄がいました」


 まさか彼らの話をすることになるとは。

 姉さんと二乃助さんを失ってから、日々心が渇いていくのを感じていた。しかしこの子出逢い、何かが変わった。心配する気持ち、呆れる気持ち、嬉しい気持ち、忘れていた感情ものを思い出した。だからこの子には話してもいいと思えた。いや、聞いて欲しいと思った。彼らを過去にしない為にも。


 過去形から語り始めたことで赤兎も察したのだろう。もう会わせてとは言わなかった。


「姉さんは、優しくて、お淑やかで、おまけに美人で、私の自慢の姉でした」

「にのすけは?」

「二乃助さんは大人げなくて、腹は黒いし嘘つきな人でしたね。でもまぁ、優しくもありましたよ」

「あははっ、なんだかにのすけとご主人ってそっくりだね!」

「どこがですか」


 というか私のことをそう思っていたのかこの野郎。あきはゴホンと咳払いする。まぁ、嘘つきと腹黒は否定しないけど。私は大人げなくない決して!


「ねぇねぇ続けて」

「それは構いませんが、一度には話しきれませんよ?」

「じゃあさ、今は一個だけ、なんで二人は死んじゃったの?」


 ――いきなり核心を突くか。


「……なんでそこから聞きたがるんです」

「だってご主人、泣いてたから」


 赤兎はなんてことないように言う。


「ご主人を泣かせる奴はみんな俺が殺すよ。だから教えて。誰がご主人を泣かせるの?」


 あきは思わず顔を両手で覆った。


「……ご主人?」


 きっと手の平の向こうで赤兎は首を傾げていることだろう。唇を噛みしめる。そうしなければ泣いてしまいそうだった。


「……その必要はありません」


 そう、もう終わったことなのだ。全て、あの日に。


かたきは……私の手で殺しましたから」




 ――あの悪夢の日が蘇る。



 あの日、妓楼ぎろうを飛び出して全力で走った。夕方賑わいを見せる吉原の往来おうらいを。人にぶつかることも踏まれることもいとわず、ただただ駆け抜けた。すると、前方から粗野そやな行列が見えてきた。先頭に見知ったら顔を見つけ唇を噛む。


「おまえは! 桔梗ききょうの!」


 叫び声を上げる楼主ろうしゅを無視して列の中に突っ込む。途中、そこで叶絵姉さんの姿を捉え呼吸が止まりそうになった。わかっていた。わかっていたことだ。


(絶対に許さない)


 姉さんの受けた絶望は計り知れない。待っていて。必ずあだは討つから。そして目的のものはすぐ見つかった。『それ』を持つ男の手首に思いっきり噛みついた。


「いって! このガキ!」


 激昂げっこうした男に頬を殴られたが構っていられなかった。男が落とした『それ』を素早く拾い上げ、行列抜けて更に走る。走る。


「追え! あいつを絶対捕まえろ!」


 楼主が命じたが、一行は乗り気ではなかった。そもそも金で雇われた分の仕事は終わったのだ。後のことなんて知ったこっちゃない。


「ええ~、もういいじゃないですか。あれがなくても困らないでしょ」


「駄目だ! 絶対に必要なんだ!」


「ならご自分で行かれたらどうです?」


「……っくそ!」


 後ろから迫ってくる楼主の気配にあきはほくそ笑む。そうだ。そのまま追ってこい。

 半分は賭けだった。何せ三年前に一度通っただけだ。しかし無事目的の場所に着いた時、思わず空を見上げて天に感謝した。もう逃げる必要はない。谷を背に振り返ると、ちょうど楼主も追い付いたところだった。


「それを返せ……!」


 互いに息が上がっていた。


「あなたはぜったい追いかけてくると思っていました」


 まだ温かい『それ』を胸に掻き抱く。


「これがひつようですもんね」


 二乃助さんの首だ。くびおけにも入れられず、適当な布で覆ったそれは真新しい血をしたたり落としていた。


「早くおっかさまに見せたいのでしょう?」


 かまをかけると、楼主の顔が般若のように険しくなった。この男はずっと二乃助さんに嫉妬していた。女将が愛する彼を。そしてたぶん、女将のことも憎んでいる。だからこそ、あえて見せつけるつもりなのだ。愛しい男は罪を犯して死んだのだと。この、紛れもない証拠を突き付けて。


「……桔梗がどうなってもいいのか」


 このに及んで姉さんの名を出すとは、……未だに己の状況がわかってないようだ。


「わたしは取り引きをしたいだけです」

「取り引きだと?」

「二乃助さんの首と姉さんの身のあんぜんを」

「なるほど。いいだろう。それを寄越せば、桔梗はこれまで通り妓楼で飼ってやろう」

「……取り引き、せいりつですね」


 こんなものは茶番だ。勝った気になった楼主が近づき首に手を伸ばした瞬間手を離す。当然二乃助の首は地面に転がり落ち、焦った楼主がそれを拾い上げようとした時だ。あきが彼に飛びかかった。


「貴様……!」


 相手は大人だが、体勢さえを崩してしまえば勝機はあった。楼主の首にしがみつき谷の方へと導く。――己の身体ごと。


「やめろ! やめないか! 貴様も落ちるぞ!」

「……元からそのつもりです」


 子どもの自分が無事にかたきを取れるなんて最初はなから思っていない。こんなクズと心中するのはムカつくが、どうせ辿り着くのは同じ場所だ。あの世でもねちねち仕返ししてやろうと思った。――二乃助さんと一緒に。

 とうとう引き返せないところまで二人の身体は傾き、互いに空を見上げる形になった時に楼主は悲鳴を上げた。私はわらった。



『落ちたら死んでしまうよ』



 かつての兄だった者の台詞せりふが脳裏に浮かぶ。望むところである。最低な兄だったが、唯一この場所を教えてくれたことだけは感謝しよう。心残りがあるとしたら姉さんだけだが、


(姉さんには木ノ下さんがついてる)


 死ぬ気で許しをうて、これから先、彼女を支えるだろう。それくらいはして貰わなきゃ困る。というか化けて出てやる。


(さよなら姉さん……私と二乃助さんは地獄で貴女を見守ります)


 ついでに人の約束を破った二乃助さんを殴って来ます。

 覚悟はとっくに出来ていた。しかし、


「……っ」


 谷底から突風が吹きあがった。身体の小さな私は地上に戻され、楼主ひとりだけが落ちていく。あまりにも突然のことでしばらく呆然と座り込んでいた。ようやく思考が動き出し、すぐ脇に転がる包みをくと、笑顔の二乃助さんが現れた。


「人の気もしらないで……」


 まったく腹が立つ男だ。

 二乃助さんの首を両手に納める。



「私に生きろと言うんですか」



「自分は約束をやぶっておいて」



「うそつき」



「ばか」



 大粒の涙が次々とこぼれ落ち、二乃助さんの顔に注がれる。


「……いいですよ。あなたがそこまで言うなら」


 生きてやりますよ。


 それから野犬に食い荒らされないよう、二乃助さんの首を埋葬した。道具が無かった為随分と時間を食ってしまった。墓標の代わりに大きめの石を置く。悪いが今はこれで勘弁して貰おう。


(姉さん……)


 木ノ下さんは無事合流出来たのだろうか。ふと悪寒がした。もし合流出来ていなかったら? 


(まさか後を追うなんてこと……)


 すれ違いざまに見た姉さんの表情には生気が無かった。嫌な予感が膨らむ。


(姉さん……!)


 それから急いで姉さんの元へ戻ったが、既に妓楼に火を放った後だった。それでもおくせず中に入ろうとすると野次馬やじうまから止められた。


「あぶねーぞ嬢ちゃん」

「じゃまするな!」


 丁寧語もかなぐり捨て、あきは掴まれた腕を振り払った。そして燃える妓楼の中へ飛び込んだ。


「姉さん! 姉さんどこですか!」


 煙が目に入り生理的な涙が出る。あきの声が届いたのか、叶絵が慌てて駆け付けて来た。


「あき!? どうして入って来たの!」


 ああ、生きてた。生きていてくれた。ほっとしたら腰が抜けた。


「あき、外に出れる? 誰かぁ! 誰かこの子を助けて!」


 ……っ、なんで! 二人とも!


「姉さんまで、おいて行くんですか……」


 叶絵は決まり悪そうな顔であきを見た。


「二乃助さんだって、あなたが死ぬのはのぞんでいないはずです!」


 姉さんまで失ったら今度こそ生きていけない。


「姉さん!」

「あき、わたくしは許せない人たちがいるの。どうしても」

「ろうしゅですか? ろうしゅはわたしが討ちました! だから!」


 私の告白に姉さんが息を呑んだ。しかし一緒に出てくれる気配はない。


「早く出ないと!」

「あき、あの人だけじゃないの」


 この時、私は知らなかった。二乃助さんの処刑が、娯楽ごらくの為の見世物みせものになっていたことを。


「あき、わたくしのあき」


 大声を出したせいか、徐々に息が出来なくなってきた。早く、姉さんを……。


「あき、大好き。生きて。わたくしたちの分まで」


 それが、最期さいごに聞いた姉さんの声だった――。





 その後、木ノ下さんから救出された私は、島原へと移された。楼主は行方不明、同じく二乃助さんの死もあやふやなままとなった。だが女将は今も生きていると信じている。旦那ではなく、二乃助さんが! 最後まで真実に気づかない愚かな女性ひと。でも教えてあげない。貴女はずっと二乃助さんの影を追いかけていればいい。――死ぬまで。


 それから五年が経った頃、吉原で姉さんの怨霊が出たという噂が京都まで届いた。


(ああ、姉さん)


 貴女はまだ終わってないんですね。苦しいですよね。もう少し待っていて下さい。今度こそ、救い出してみせますから。







 私の話を静かに聞いていた赤兎がおもむろに立ち上がった。


「赤兎?」

「その人たちは、俺にとってのご主人だったんだね。うん、そっか」

「もう終わった話ですよ?」

「でも、ご主人は、その桔梗ききょうの怨霊を気にしてるんでしょ? なら、俺のすることはひとつだよ」


 彼は何を言っているのだ? ポカンと見上げていると、赤兎は大人びた顔で口角を上げた。


「情報収集。吉原までひとっ走りして真相を確かめて来るよ」

「え?」

「だってご主人はすぐにここを出られないでしょ? だったら俺を使って。俺、殺しは下手だけど、情報収集はお手のものだよ」

「けどっ」

「言っとくけど、ご主人だからだよ? ご主人がご主人じゃなかったら、俺はここまではしない」


 赤兎の言っていることの意味がよくわからなかったが、要は主として慕ってくれているのだろう。


「その顔、全然伝わってないよね。うん。そんな気はしてた」

「え、何がです?」

「んーん、こっちの話」


 赤兎は笑った。そして言う。


「絶対二乃助より役に立ってみせるよ」


 なぜそこで二乃助さんの名前が出てくるのだ。というか二乃助さんが役に立ったことなどあっただろうか。赤兎の考えてることがさっぱりわからないが、情報を集めてくれることは正直ありがたかった。


「じゃあその、お願いしてもいいですか?」

「まっかせてよ! ご主人の願いは全て叶えるからさ」

「えっと、あ、ありがとうございます?」


 はて? とても嬉しいことを言ってくれるが、ここまで慕われる何かがあっただろうか。首をひねるあきに、赤兎は再び意味深に笑った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る