~第四章~


「なんでテメーがここにいやがる!」


 一瞬部屋を間違えたかと思った。

 女将から逃げるようにして訪れた妹の部屋には、おれをびしょ濡れにしてくれた張本人ちょうほんにんが我が物顔で座っていた。正確にはふみの分類? をしていた。


「で、じゃまするんですか?」

「いやいやカナ、ここの主人は!」


 その時、慌ただしくカナが戻って来た。


「兄様! どうなさったの! びしょ濡れじゃない!」

「池であそんでいたそうですよ」


 おれは驚愕きょうがくのあまり声を失った。


(こいつ、いけしゃあしゃあと! だいたい真冬に池で遊ぶか! おれの妹を馬鹿にすんじゃねー!)


「なんでそんなことをなさったの! 風邪を引くじゃない!」


 信じちゃった! いや、カナはほら、純粋じゅんすい! 純粋だから仕方ねぇ!


 訳がわからなかった。いや、薄々わかっていたが信じたくなかった。呆然ぼうぜんと新しい着物に着替えると、カナが濡れた方を預かった。


「あき、わたくしは濡れた着物を洗濯物係りに出しに行って来るわ。その間兄様と……あ、彼がわたくしの兄の二乃助兄様よ。仲良くしてね」


 するとクソガキは、おれの方を向いて禿かむろの鏡のようなお辞儀をした。


「はい、姉さん。姉さんのお兄さま、わっちはあきともうします。いご、よしなに」

「やだわ。そんな他人行儀たにんぎょうぎな。彼はわたくしの家族よ。あなたも肩の力を抜いてちょうだい。兄様も構わないでしょ?」

「あ、ああ……」

「ありがとうございます」

「ふふ、本当にいい子」


 カナはクソガキの頭を撫でると、にっこりと笑って再び部屋を去って行った。瞬間、クソガキは姿勢を崩した。おい。


「姉さんにてまをかけさせるなんて、何してくれるんですか」

「おまえ二重にじゅう人格じんかくなの?」

「じぶんにしょうじきなだけです」


 そうして再び文に目を通すクソガキ。


 近くで見るとますます幼い。こんなに幼い禿は初めて見るかもしれない。


「おまえ、いくつなんだ?」

「六つですが何か?」


「六つ!」


 いくら何でも幼すぎる。遣手やりてばばは何考えてやがんだ。そこで気づく。


(……六歳で売られて来たのか……)


 そんなことされりゃ生意気にもなるか。我ながら大人げなかったな……。


「……悪かったな、クソチビなんて言って」


 クソガキ……んんっ、カナの禿がポカンとおれを見上げた。


「お人よしですね」

「は?」

「あわれんでいるのですか? おかどちがいですよ。むしろ、いしょくじゅうよういされてかいてきです」


 おれはしばし言葉を失った。


「かおがあかいですね。ねつがあるのでは?」

「もしあるとしたらおまえのせいだよ」

「いいとしして池であそぶから」

「遊んでねーよ!」


 ああ、本当に熱がある気がする。カナが戻ってきたら少し寝かせて貰うか。


「さっきから何やってんだ?」

「姉さんに、おそれおおくもこいぶみをおくってきたやからのせんべつです」

「へ、へー……」


 怖ぇ! 言ってることもやってることも!

 しかも選別と言っている割に、文の山はひとつしか出来ていない。


「この山は?」

「たきびにくべるぶんです」

「……」


 おれの知ってる子どもと違う。




「ただいま」


 カナが戻って来て心底ホッとする。ああ、妹が天女てんにょに見える。


「姉さん、おわりました」

「本当? ご苦労様」

「カナ、こいつ字が読めんのか?」

「そうなの! 頭もいい子なの。どうしてこんなにいい子が、わたくしのところまで回されて来たのかしら?」

「姉さんの、じんとくですよ」

「やだもう、この子ったら」


 だが妹はクソガキにデレデレである。


「おまえ、男から文貰ってんのかよ?」


 まぁ確かに? カナは身内の贔屓目ひいきめ抜きにしても可愛らしいし? 十六になってますます美人になったし? 座敷に上がるようになったら野郎どもがハエのようにたかるのも想像の範囲内だったし? けれどやっぱり面白くない。


「え?」


 カナがポカンとした。


「え?」


 おれも釣られてポカンとする。そんな中、クソガキだけがさっさと文の束を持って部屋を出ようとする。


「この、『姉さんがたのおつかいのふみ』はこちらでしょりしますね」


 ……え?


「わたくしにてられたものはなかったかしら?」

「はい。すべてかむろのしごとです。なので、これからかたづけてまいります」

「そう。ありがとう。お願いね」

「よろこんで」


 待って待って。は? お遣いの文? いやいや、そんな雑用があんなに丁寧に折りたたまれているもんかよ!


「あきひとりで大丈夫かしら……」


 あれは確かに恋文だった。あいつはカナに見せる前に握りつぶしたのだ。それも、ご丁寧に中身と差出人を確かめた後にだ!


「カナ、おまえさ、なんであいつからしたわれてんだ?」


 いや、カナの魅力はおれがよくわかってるけど! あのはらぐろをここまで手懐てなずけている妹も末恐すえおそろしい。


「え? 慕われてるかしら? そうだと嬉しいわ」

「安心しろ。めっちゃ慕われてっから。あいつと何があった」


 叶絵かなえは記憶を探ろうと首を傾げた。


「特別なことは何も。……姉さんのお座敷ざしきに一緒に上がったくらいかしら」


 新造しんぞうのカナにはまだひとりで座敷に上がる権限はない。故に姉女郎に付きそう形で楽器などを演奏するのだ。要は場の盛り上げ役。それでも男から目を付けられたら相手をしないといけない。ことカナに関しては、絶対顔を上げるな、中央に寄るなと言い聞かせているのでその心配はないだろう。そうか、今回はクソガキも連れて行ったのか。


「いつものように演奏だけしていたら、男のかたが話しかけてきて……」

「はあ?」


 誰だそいつ。殺す。


「わたくし、びっくりしてしまって。初めてお客様に声を掛けられたものだから。怖くて震えていたの。そしたら、あきが助けてくれたの」


「あいつが?」


 カナはにっこりと微笑む。


「わたくしは混乱していたから、本当は何を話していたか覚えてないの。でも、あきの声をその時初めていて、とても可愛らしかったものだから、お座敷中なのを忘れて抱きしめちゃったの」


 あいつがどうやって男を追い払ったかは想像にかたくない。が、


「初めて?」

「ええ、姉さんたちから聞いていたの。あの子はしゃべらないよ、って」

「しゃべれない、じゃなくてか?」

「ええ、わたくしもよくわからないのだけれど、仕事はするけど全く口をかなかったんですって。でも変ね? とてもよくしゃべる子なのに」

「……」

「ねぇ知ってる兄様、あの子、六歳なんですって」

「ああ、聞いた」

「わたくしが六歳の頃は何して遊んでたかしら。ふふ、楽しい思い出しかないわ」


 そう言って、カナはうつむいた。握ったこぶしにしずくが落ちる。


「……酷い親だわ」

「親とは限らねぇぞ」

「それでも酷い話だわ。まだ、六歳、なのに……っ」


 カナが泣いて改めて気づかされた。子どもらしくないのは、子どもでいられなかったからだろう。遊郭ゆうかくに売られて、衣食住いしょくじゅうに困らないという思える子どもなのだ。生意気な態度は防衛。言葉は攻撃。あの子どもは、そうして身を護って来たのだ。――今まで。


「わたくしは、あの子の居場所になれるかしら」


「もうなってるよ」


 カナの目尻めじりに溜まった涙を拭う。


「おまえが優しいから、あいつはもう大丈夫だ」


 カナはいまいちわかっていない様子だったが、おれにはわかる。おれの心の支えがカナだけのように、あいつにも出来たのだ。初めて信頼を寄せられる人間が。


「まぁさすがおれの妹ってとこか」

「どういう意味?」

「おまえはそのままでいいってこと。なぁ、今夜泊まってもいいか? 寒気さむけがすんだ」

「大変! 待って、布団を用意するわ」

「いいよ、自分でやるから。もしもの為に薬だけ用意して貰えねぇか? こればっかは勝手がわからん」

「ええ! あ、でも今夜もお座敷の予定が入っているの……」


 心配そうに顔をくもらせるカナ。


「おれに構うこたぁねぇ。でも気をつけろよ? 特に酔っ払いには」

「ふふ、何度も言われなくてもわかっています」



 深夜、喉のかわきを覚えて立ち上がろうとした。が、身体がなまりのように重たかった。


(カナ、は、まだ座敷か……)


 薬を飲んだから大丈夫だと高をくくっていた。もっと身体をきたえるか。


(さてどうすっかな)


 熱は下がる気配はないし、部屋にはおれひとりだ。その時、


「お水ですか?」


 思いもよらない声が側で聞こえた。


「……っ」


 思わず声を上げたが、かすれた息が漏れるだけだった。


「しゃべらなくてもいいです」


 なんでここにクソガキが。

 そいつは布に水を湿らせると、おれの唇に運んだ。それを数度繰り返す。


「おま、え……」


 驚くおれを無視し、おれの額に手を当てては眉をしかめた。そしてまた新しく用意していた布を桶の水にひたし、絞って額の上に乗せてきた。ひんやりとしたそれは、とても心地がよかった。それから汗に濡れた枕を取り換えられ、桶を持ってそいつは立ち上がった。


「おい」

「ねていてください」

「どこに行く気だ」

「なんですかさびしいのですか、お水をかえてくるだけです」

「さびしくねーよ! ゴホッゲホッ」

「ばかですか」

「おまっ、もとはと言えばっ」


「すみません」


 幻聴げんちょうがした。こいつが殊勝しゅしょうな態度を取るなんてありえない。きっと熱で浮かされてるんだそうに違いない。


「やりすぎました」


 そこからはあまりよく覚えていない。朝起きたら身体が軽くなっていた。やはり昨夜のは夢か? そう思った時、昨夜見た桶がそこにあった。慌てて起き上がると額からは湿った布が落ちる。夢じゃない。


「あいつは……?」


 布団を乱暴にめくって立ち上がろうとした。そこであるものを見つけ、思わず顔がほころんだ。


「――あき」


 寒かったのだろう。何せ真冬だ。そいつはおれの太もも辺りにくっついて、丸まって眠っていた。


「兄様おはようございます! すみません、ただいま戻りました!」


 座敷から戻って来たカナが息を切らしていた。そういえば昨夜は大勢の予約が入っていたことを思い出す。客の把握はあくゅう管轄かんかつだ。


「気にするな。おまえもこいつと休め。寝てないだろ?」

「え、あ、あき!」


 カナの驚き方に違和感を覚える。


「おまえがつかわしたんじゃないのか?」

「いえ、あきは昨夜、不調だって早めに下がったんです。……兄様のところにいらしたのね」


 おれはもう一度そいつを見る。てっきりカナが寄越よこしたのかと思っていた。小さい手は何度も冷水に触れたせいだろう、真っ赤に染まっていた。


「おまえが放っておけない気持ちがわかったよ」





 失敗した。あきは飛び起きた。昨夜あきは、二乃助の呼吸が落ち着いたのを見届けた後、気を失うように眠りについた。最初はたたみの上で寝ていたが、本能がだんを欲するのは仕方ないことだろう。無意識にぬくもりを求めて二乃助の布団に潜り込んだのだ。そのことに気づいてあきは唖然あぜんとした。なんて子どもっぽいことを! ……実際誰が見ても子どもなのだが、あきはそう思っていなかった。慌てて布団から這い出ると、ちょうど声が掛かった。


「よぉ寝ぼすけ。やっと起きたか」


 ――終わった、とあき思った。

 散々いじり倒した相手だ。隙を見せるつもりはなかった。もしこれで姉さんから離されることになったら……。今にも罪状を言い渡される咎人とがにんのような気持で二乃助を見上げる。心臓がバクバク言って、血の気が引くのがわかった。


「おまえと話をしようと思ってな」


 捨てられる! あきはますます顔を青くした。隣に座る姉さんの目も見られなくて俯く。


「おいおいどうした」

「兄様が怖い顔をしてらしたんでしょ」

「してねーし」

「すみ、すみません」


 あきは大きな目に涙を浮かべてその人に言った。


「姉さん……」

「そっちかよ!」

「いいのよあき。兄様を夜通し看病してくれてありがとう」


 ああ、優しい笑顔。よかった……。怒ってない。


 あきの目に、二乃助は映っていなかった。


「おいちょっと待ておまえら!」


 ひしりと姉さんと抱き合ってると邪魔が入る。


「まだいたんですか」

「いるよ! 話があるっつったろ!」


 ああ、そういえばそんなことを言ってた気が。姉さんに嫌われた訳じゃないとわかって安心していた。


「てみじかにおねがいします」

「クッソ! なんかおれ早まったかも」

「あき、二人で話したの。聞いてちょうだい」


 あきはキョトンとした。

 二乃助は頭をガシガシいた後、あきを指さした。


「おれらに甘えることを許す」


 あきは胡乱うろんな目付きで二乃助を見た。


「いえ、姉さんだけでけっこうです」


「可愛くねぇえええええ!」


「もう! 兄様ったら! そうじゃないでしょ」

「だってよ、いざ言葉にしようと思ったら、こっずかしくってよぉ……」

「素直じゃないんだから。聞いてあき、わたくしね」


 あの人は何を百面相ひゃくめんそうしているんだと思った矢先、姉さんの温もりを感じた。再び抱きしめられていた。


「かなえ、かなっていうの」


 あきは目を見開いた。既に源氏名を持つ遊女が本名を明かす相手は恋人か、……親族に限っている。姉さんも新造だが、出逢った時にはもう『桔梗ききょう』という源氏名を使っていた。なぜ? 自分に?


「おれは二乃助だ」

「それはしってます」

「こいつ……っ」


 あきは呆然と桔梗、こと叶絵を見つめた。


「叶絵、姉さん?」

「ええ、わたくしのあき」

「おいあき、カナって愛称あいしょうで呼んでいいのはおれだけだが、おまえにはおれとカナの名を呼ぶ権利をやる。あ、でもカナは二人きりの時だけにしとけよ?」

「どうして、ですか? わたしなんかが……」

「おまえ、前向きなのか後ろ向きなのかわかんねー奴だな」


 二乃助はあきの近くに来ると、その頭を乱暴に撫でた。


「また可愛くねぇ妹が出来たもんだ」


「え?」


「うふふ、嬉しいわぁ。わたくし、すえっ子だったから、ずっと妹や弟に憧れてましたの」


「え?」


 頭が追い付かない。誰が誰の妹?


 目を丸くして固まるあきに、二乃助は可笑しそうにくつくつと笑った。


「おまえにもとし相応そうおうなとこあんじゃねぇか。そのびっくりした顔! ハハッ!」


 よくわからないけどムカついた。


「だーかーらー、おまえは今日からおれとカナの妹だっつってんの。おれたちはこれから三人家族だ。わかったか?」

「いも、うと?」

「なんだ。カナの妹になれるんだぞ? 不満か?」


 頭は相変わらず混乱していたが、魅惑的みわくてきな言葉に慌てて首を振った。


「姉さんのいもうとが、ふまんなわけがありません!」

「ちなみにおれの妹でもある」

「そっちはふまんだらけです」

「あ、やっぱ早まったかも」


 嘘だ。割とこの人も気に入っている。しかしこれまでのやり取りでいきなり素直になれる筈もなく。結局あきは、最後まで二乃助と喧嘩けんかごしだった。といっても可愛いものである。


「いいなぁ兄様」

「おまえ、目ぇ大丈夫か?」

「わたくしも、あきから遠慮なく甘えられたいですわ!」

「これって甘えてんのか?」

「ふふ、あきが遠慮のない口を利くのは兄様だけですもの」

「嫌な特別だなぁ。まぁ、今更態度変わられてもおれも困るしな。ところでおれのことはお兄様とお兄さん、どっちでもいいぞ」


「二乃助」


「うん知ってた。けど、せめてさんは付けろ? おれの沽券こけんに関わる」

「二乃助さんにこけんなんてあるのですか」

「あるわ! てか沽券って意味わかんのか?」

「ねこ」

「……そうだけどそうだけど! なんっか腹立つ!」


 こいつの猫ほど被っちゃいねぇ!


「猫がどうしたの?」

「姉さんは気にしないでください」

「おまえは気にしなくていい」


 おれはあきと顔を見合わせた。


「真似すんな」

「まねしないでください」

「……」

「……」


 どうやら、おれらは似た者同士というやつらしかった。カナがこらえ切れず吹き出すと、おれらも釣られて笑った。


 こうして、おれに新しい妹が誕生した。


 後日、あきにたずねたことがある。ずっと気になっていたことだ。


「おまえさ、なんでしゃべれねぇふりをしてたんだ?」


 妓夫ぎゅうの仕事に戻る前に訊いておきたかった。ちなみにカナは手習いで留守だ。


「なかのいい人をつくりたくなかったんです」

人脈じんみゃくは便利だぞ?」

「わかってます。けど、めんどうだったんです。人のわる口につきあわされるのも、りようされるのも。そういうところだってわかってますけど、きらいなんです。そういうの」

「あ~……」


 あきの言わんとしてることはわかる。遊郭は妓女おんな妓女おんなが互いに競う場所でもある。客が取れなければ日の当たらない場所に追いやられるからだ。敗れた妓女がに移されたところを何度か見たことがある。切り見世とは、遊女たちの世界では最下層さいかそうだ。そりゃみんな必死にもなる。遊女同士の足の引っ張り合いなんて日常にちじょう茶飯事さはんじだ。


「みんな、わたしの目が気にくわないとおこりました」


 あきが続けた。あきの大きな猫のような目は、可愛らしいというよりはするどさが勝る。言わば夜の猫だ。獲物えものを狙う眼光がんこうのそれだ。なるほど、やましさを自覚してる遊女たちはこの目に耐えられなかったのか。おれは屈むと、あきの目をのぞき込んだ。


「おれは好きだけどな。かしこそうじゃん」

「二乃助さんに好かれても」

「おまえ、原因、目だけじゃねぇだろ」


 絶対他にやらかしてる。断言してもいい。


「で? カナは良かったんだ?」


 まぁおれの妹だし。当然と言やぁ当然かな。


「姉さんは、さいしょ見たとき、なんで、こんな人がここにいるんだろうって、思いました。ぜんぜんそまっていないんです」

「……」


 そりゃまー……おれが全部火の粉を払って来たからな。おかげでカナの素直さと純粋さは昔から変わらない。


「きっと、二乃助さんがまもってきたんですね。今ならわかります」


 ご名答です。こいつ、ほんとするどい。


「おざしきで、姉さんのひくおことが、きれいで、気にいりました。そしたら、じゃまがはいって。姉さんが、ふるえてるのを見たら、つい……」

「つい?」

「かがみを見てでなおしてこい、と」


 カ、ナ! この台詞せりふを聞いて可愛らしいとか言ったの? ああ、何を言ったかは覚えてないんだったな。


「くさい。よるな。それくらいだったと思います」

「まだ言ってた! 十分だから! ちょっと野郎に同情しちまったじゃねーか! ああでもカナを護ってくれてありがとよ!」


 なんて頼もしい。と言っていいのか?


「でもあまり無茶すんなよ? 逆上ぎゃくじょうした酔っ払いは何しでかすかわかんねーからな。下手すりゃ殴られてんぞ?」

「だから、ついです。じぶんでもおどろきました。だれかのために、こえをあらげるなんて。そのあと、姉さんがだきしめてきて、かわいいと言ってくださったんです」

「言っとくが、声だぞ」

「わかってます。はじめてきいた、かわいいこえだって。わたしのしたことなんて目もくれず、わたしだけを見て、そう言うんです。そしたらなんだか、気をはるじぶんがおかしくなって。……好きになるのには、じゅうぶんな、りゆうでしょう?」


 思い出したのか、嬉しそうに話すあき。こういうところは年相応に見えた。


 それからは、座敷ではあきが、その他のことはおれが、二人でカナを護るようになっていった。そりゃたまには喧嘩もした。人が聞いたらくだらねぇって笑うだろうが、おれたちは真剣だった。


「カナ! さっき女将のお遣いついでに、おまえに似合いそうな紅を見つけたんだ」


 カナは貝殻に入ったそれを受け取ると、驚いたような顔をした。


「どうした? 嬉しくねぇのか? おまえは薄いものばかり好むけど、たまにはこういうい紅も似合うと思うぞ?」

「いえ! ありがとうございます! 違うんです。まったく同じものを、先日あきにいただいていたので、驚いてしまって」


 なんだって? バッとあきの方を見ると、勝ち誇った顔をしていた。


「ということです。へんぴん、ごくろうさまです」

「おまえが返品して来やがれ!」

「どっちも! どっちも嬉しいわ! 交互に使うから! ね?」


 カナに気を遣わせてしまい、二人して落ち込んだ。

 更に数日後のことだ。


「どうよこれ? いつもの薄紅色の目元もいいが、たまには奇抜きばつな色で最先端さいせんたんに行こうぜ? ってことで買って来た。おまえの清涼せいりょう雰囲気ふんいきにぴったりな薄緑うすみどりだ!」


 あきを見る。さすがにこれは勝ったと思った。が、あきは微妙に怒った顔をしていた。


「あら? これ、昨日あきがくれたものと一緒だわ」

「なんでだよ! あの店主! よくもこの世に一点物いってんものとかぬかしやがったな!」


 スッと、あきが立ち上がる。


「わたしもそう聞きました。とてもふゆかいです。これはうったえるべきです」

「おう! 行くぞ!」

「ついでにすうてん、タダでいただいちゃいましょう」

「ったりめーよ! ふざけやがって!」


 ドタバタと去って行った二人に、叶絵は頬に手を当てて呟いた。


「あの人たち、本当にそっくりね」



 ここ一年、色々なことがあった。あきとは相変わらず他愛たあいない喧嘩ばかりして、それを見て笑うカナがいて、幸せな日々だった。


 だが一度だけ、ひやりとした事件が起こった。


 あれはそう、あきと出逢って二度目の冬のことだ。初めてあきとカナが喧嘩をした。いや、あれは喧嘩とは言わねぇかもしれねぇが。とにかく、あきの心をかげらせる事件があった。止めるもなかった。カナは良くも悪くもい純粋で、この世に本当の悪はいないと思っている。そう育てて来たのだから仕方がない。ただ、おれたちは見誤みあやまっていた。しっかりしていても、まだあいつは七つの子どもだということを……。


 きっかけは、カナの一言だった。


「そういえば、あきって名前、漢字は四季しきの秋で合ってるかしら?」


 その日の手習いを終わらせたカナが言った。遊女は容姿だけみがくものではない。礼儀作法、楽器、話術、どれを取っても完璧に近いほど優秀だと言われている。急にそんなことを気にしたのは手習いの後だったからか。文字も美しくあればあるほどいい。きっと秋に関するうたでもなぞったのだろう。

 カナに悪意がこれっぽっちもないことは知っていた。が、おれはドキリと心臓が跳ねた。人の過去はやたら検索するものじゃない。おれが過去陰間かげまにいたことを内緒にしているように、誰だって仄暗ほのぐらい過去があるものだ。ちらりとあきの様子を窺うと、縫物ぬいものをしていた手が止まっていた。まずいと思った。


「カナ」

「漢字……じゃ、ありませんよ」


 あきは静かに針を置いた。口端だけ釣り上げる様子は、おおよそ子どもの笑い方ではなかった。まずい、と再び思った。


「そうなの?」

「カナ、やめろ」


「ええ、わたしの名に、意味、なんて、ありませんから」


 自嘲気味じちょうぎみにあきが言った。言わせてしまった。


「意味がないなんてそんなこと、きっと生まれた時に、ご両親が一生懸命考えて下さった筈よ」

「生まれてくる子がおんななら、かたっぱしから売っていたりょうしんが?」

「え?」

「わたしの時は、りょうしんが別れていたので、かわりに兄から売られましたけど」


 唖然あぜんとするカナを置き去りにあきは続けた。


「ああ、理由、でしたね」

「もういい。あき、黙れ」

「ちょうど、生まれたじきが、秋だったからですよ。学のないりょうしんが、ひらがなしか浮かばなくて、ただ、あきと、そう名づけたそうです」


 そう、兄から聞いたことがあると、にっこり笑うあきの目は――笑っていなかった。震える声音は、あきの激情を正確に物語っていた。


「あ、き」


 カナが泣きそうな声で名前を呼んだ。いつもなら「はい姉さん」と必ず返すあきが無言で立ち上がる。


「……すみません。頭を冷やしてきます」

「待て!」


 そう言ってあきは、き物も身に付けず部屋から飛び出して行った。すぐに後を追いかけようとしたおれのそでをカナが掴む。


「どうしましょう。どうしましょう。わたくしったら、酷いことを!」


 カナは泣いていた。仕方ないのだ。カナは愛情を受けて育った娘だ。世の中にはあきのような子がいると思いもしなかったのだろう。


(六歳で売られて来た時点で何かあるとは思ってたけどな……)


 それがあきには何人も姉がいて、みんな金目当てで売られていたとは。唯一残った兄は妹を捨てたのか。……クズが。


 同じ兄として激しい怒りを覚える。もしあきが初めから妹だったら……、


(もしも、なんて感傷かんしょうはなんの役にも立たねぇ)


 カナの手を優しくほどく。


「安心しろ。あきは絶対連れて帰る。なんだ、おめぇらいつの間に喧嘩するほど仲良くなったんだ? 今度加勢かせいしてくれよ」


 軽口を叩くと、カナが無理に少し微笑んだ。


 夕日に染まる吉原の街を駆け抜ける。また一番混む時間にあいつは! そこでふと気づく、身体の小さいあいつがわざわざ人混みに入るだろうか。


「ったく!」


 もっと早く気づけおれ! 

 街から離れて土手どてに降りる。凍り付いた川を沿って走ると先の方に小さい人影が見えた。いた!


「あき!」

「二乃助さん?」


 まさか追って来ると思わなかったのだろう。まるで幽霊を見た顔だ。


「こんなさむい中、何して……」

「こっちの台詞せりふだボケ!」


 あきの手を握る。氷のような冷たさだった。おまけに履き物もないと来た。裸足はだしのあきを抱き上げ、肩に掛けていた羽織はおりであきを覆う。


「帰ったらすぐ火鉢ひばちに当たれ」


 そのまま帰ろうとすると、あきがいやいやと身体をひねった。


「おい! 暴れるな!」

「わたしなんか、捨ておけばいいのに」

「あ?」

「わたしは、姉さんを傷つけたんですよ? もう、あなたにも、姉さんにも、合わせる顔がありません」

「バッ……! あー、そうだったな。おまえ、変なところで後ろ向きなとこがあったわ」


 あきの身体は軽かった。子どもだから当然か。そうだ。子どもなんだ。


「すまなかった」


 あきが目を見開く。


「な、なんであなたがあやまるんですか!」

「おまえに嫌なことを言わせた。言いたくなかったよな。思い出したくもなかったよな。……悪かった」


 められないで。


 おれの言いたいことに気づいたのだろう、あきが暴れるのをやめた。


「そんなこと、わたしが、みじゅくだっただけです。もう忘れたと思っていたのに、気にも、しないって」

「おまえさぁ、その歳であんま完璧になろうとすんなよ。おれだって未だにムカつく過去があるし、おまえだって無理に忘れる必要はねぇんだよ。それ以上に楽しい思い出で上書きすりゃあいい。今のおまえの家族はおれらだろ?」


 あきが顔を押し付けている肩が、じんわりと濡れるのがわかった。


「姉さんに、あやまらないと」

「ふっ、どうかねぇ。カナがおまえに謝り倒しそうな気もすっけど。あいつ、かなり気にしてたからなぁ。まぁ、おまえが良けりゃあ変わらず仲良くしてやってくれ」

「当たり前です」

「ははっ、即答かよ。頼むぜ? あ、そうだ。見世にはおれが連れ出したことにしてあっから、何か言われても話を合わせろよ?」


 禿とはいえ、無断外出は折檻せっかんの対象だ。子どもだからと容赦しないだろう。それが遊郭ゆうかくだ。


「わたしはかくごの上ですが」

「いいから、たまには兄らしいことさせろ」


 不貞腐ふてくされて言うと、腕の中であきが笑った。


 見世に帰ると、待っていた女将にあれこれ訊かれたが、あきの代わり己が折檻せっかんを受けると言うと渋い顔で見逃してくれた。……利用、したことになるのかねぇ。自分に気があるのは知っている。別に代わりに折檻を受けると言ったのも嘘ではない。けれど、こうもあからさまに特別扱いされると、ますますろうしゅの反感を買うので控えて欲しい。


「めんどうな女性ひとに目を付けられてるんですね」

「人が必死に誤魔化してること看破かんぱすんのやめてくんね?」


 女将と別れた後、あきがこそりと言った。だよなー。そりゃ気づくよなー。けどな? 普通ガキは気づかねぇから! ……まぁそこはあきだから仕方ねぇとして。


「いよいよやべぇなぁこりゃ……」

「どんかんは気づかないと思うので安心してください」

「へぇ、カナは気づいてねぇんだけど?」

「……じゅんすいな人は気づかないと思うので安心してください」


 ぶはっ! 言い直したよ!


「ほんと、カナが好きだよなぁ」


 笑いすぎて腹が痛くなってきたわ。


「好きですよ。………………あなたと同じくらい」


「え?」


「あき!」


 今なんて、と聞き返そうとした時、おれらが帰ったのを聞いたのだろう、カナが涙でぐしゃぐしゃになった顔で出迎えた。あーあ、美人が台無しだと笑う。

 しかし聞き間違いでなければ、さっきの言葉、初めておれのこと好きっつった? うわ感動。あきの口から一生聞けないと思っていた。まぁとても不服そうであったが。意地っ張りもここまで来ると逆にあっぱれだ。


 思った通り、カナは泣きながら謝って、あきが口を挟む隙もなかった。珍しくオロオロしているあきは見ていて面白かった。それから泣き疲れて眠ったカナを、二人で介抱かいほうした。と言ってもカナはあきを離さなかったから、その夜は仲良く三人で眠った。


 翌日、カナが一枚の紙をあきに見せた。おれが暇人ひまじんだって? 失礼な。ちゃんと仕事してるわ。カナに呼ばれたんだよ。一応、昨日の今日で緊張してるらしくてな。また余計なことを言いそうになったら止めてくれと頼まれたんだ。まぁそれも含めてカナだし、もうあきも気にしないと思うけどな。


「見てあき!」


 カナの勢いに押され気味なあきが、そこに書かれている文字を口にした。


「あ、き、ですね」

「いえ、そうなんだけど、そうじゃなくてね!」

「落ち着けカナ。ほら、深呼吸」


 そう言ってやると、カナは胸に手を当てて大きく息を吸って吐いた。カナは今日も素直で大変可愛い。


「二乃助さんお仕事は?」


 顔にウザいと書かれていた。


「休憩中だ」

「多くありません?」


 ……こっちは今日も大変生意気で可愛くない。


「これね、今日の手習いでこっそり書いたの」


 カナは文字を一文字ずつ指で示した。


「ほら、『あ』は、丸くてコロッとして可愛いでしょ? それで『き』は、シュッとした感じが格好いいと思わない?」


 んんんんん、カナは可愛いが語彙力ごいりょくが非常に残念だなぁ。


「まさにあきのことだと思って、わたくし感動しちゃったわ!」

「……ありがとうございます」

「待てカナ! こいつわかってねぇぞ!」


 瞬間、あきににらまれた。おまえも無難ぶなんに礼言っときゃいいと思うなよ。あ、おれがよく使う手だった。


「わたくし、うまく言えてなかったかしら……」

「いえ! そんなことありませんよ! すてきな字ですね!」

「そんなことあるだろ」


 仕方ない。ここは長年兄妹のおれが解説してやるか。


「あのな、カナの言いたいことはな」


 カナいわく、コロッとしてシュッ、の意味を。


「『あき』は、可愛らしさと気高さをそなえた字だとよ」


 大きく頷くカナと反対に、無言で見上げてくるあき。


「おい、その目やめろ。おれが言ったんじゃねぇ。カナが言ったんだ」

「叶絵姉さん、二乃助さんのお話は本当ですか?」

「そうなのよ! とても素敵だと思わない?」

「……」


 そこ! 黙るな! 通じたおれのことを気持ち悪いって目で訴えるな!


「買いかぶりすぎですよ」

「まーたこいつは可愛くないことを言う」

「いえ! あきは可愛いわ! それに、とってもしっかりしているのよ」


 だから、とカナは続けた。


「わたくしは『あき』って名前が好き。その名を持つあきは、もっと大好きよ」


 途端とたん、みるみる顔を真っ赤にするあきを見て、ああ、今だけは可愛いなと思った。

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