~第三章~

 言い訳に聞こえるだろうが、この時のおれは本当にらしくなかった。普段ならもっと善人ぜんにんぶった態度で好印象を与えているのだが、相手が見知らぬ子どもだと思って油断した。


「そこにおわすのは、二乃助さまでありんすか?」


 この問いに、おれはにらみを利かせ、ひと言こう言った。


「うせろクソチビ」


 はい。ないよな。知ってる。わかってる。でも後悔は先に立たない訳よ。叔父を殺した翌日だ。ひとりになって気持ちを落ち着かせたかった矢先やさきのことだ。人気ひとけのない場所を選んで見つかったのがまた苛立いらだった。猫を被る余裕もなかった。


「おれは今機嫌が悪ぃんだ。それ以上近づいてみろ。池に落とすぞ」


 普通大人からここまで言われたら逃げると思うだろ? おれは思ったし意図的に脅した。そして再び水面みなもに顔を戻した。両足を手すりの外に投げ出し、太ももに立てたひじあごを乗せて溜め息をつく。完全に物思いにふけっていたその時だ。


 ――ドン。


「え?」


 強い力ではなかった。しかし弛緩しかんしきった身体はその衝撃に耐えられず徐々にかたむく。


 バシャン!


 しばらく呆然ぼうぜんとした。ブルリと身体が冷え、ようやく自分が池の中にいると気づいた。は? あそこから落ちたのだろう橋の上には、先ほど追い払った筈の禿かむろがいた。まるで害虫を見るような目付きでおれを見下みおろしている。


「そこで、あたまをひやしたら、いかがですか」


 おい、くるわ言葉はどこ行った。いや違う。奴も猫を被っていたのだ。

 遊郭に住む女は、親しい人間以外にの言葉づかいをしない。廓言葉とは遊女たちが一番に教わる教養で、それは地方のなまり方言ほうげんを隠す為の一貫いっかんとも聞いた。くだらない。が、それを聞きたいが為に来る男たちもいる。実にくだらない。しかしそれでうるおっている見世もあるのは事実だ。それを考えると初対面で素を見せてきたあの少女は、おれを男として見ない、いや、人としても見ないと言っているようなもので……、


 頭は完全に冷えた。物理的に。だが、違う意味で血が沸騰ふっとうした。


「あんっ、クソチビいいいいいいい!」


 あれ? なんでおれ黄昏たそがれてたんだっけ? ああ、そういや昨日の、いやもう、なんかどうでも良くなった。それよりも寒い。よりによって真冬の池に落とすとか? あいつは鬼に違いない。池から出た時には、当然だが少女の姿は既になかった。……要領ようりょうもいいと来たか。あいつここの禿だよな? 後でそれとなくカナにいてみるか。


 おれが全身びしょ濡れで震えながら玄関に入ると、偶然そこにいた女将が悲鳴を上げた。あ、やべ。


「二乃助、あんたどうしたんだい」

「いや、寝ぼけて池に落ちちまった。はは……」


 まさか年端としはも行かないガキに落とされたなんて死んでも言えねぇ。


「着替えを持って来るわ。先にあたしの部屋で待ってなさい」


 おれは素早くじじの日程を思い返す。大丈夫だ。夕方まで帰って来ない。


「……大丈夫よ。旦那だんなさまは夕方まで留守になさるみたいだから」


 耳元でささやかれる。あーあ、しくった。この女性ひとに見つかる前にカナの部屋に避難するべきだったか。いやしかし、こんな格好悪い姿を最愛の妹に見せられようか。いな! とりあえず着替えだけ貰ってすぐに帰ろうと決心する。が、


「あたしが着替えさせてあげる」


 女の顔を向けて来る女将に、二乃助は表情筋ひょうじょうきん駆使くしして何とか微笑み返す。

 自分に気があることは知っている。し、その好意を利用させて貰った手前、無下むげにも扱えない。彼女が目を光らせてくれたおかげで、妹は伏魔ふくま殿でんのようなろうで平和に過ごせていられるのだ。別に自分から誘った訳ではない。しかし旦那の楼主にとっては面白くない筈だ。彼女の態度はあからさま過ぎるのだ。


 さっそくしだれかかって来る女将に苦笑交じりに笑う。


女将おっかさんまで濡れちまうよ?」

「構わないさ」

「いや、おれが構うんでさぁ。あなたに風邪でも引かれちまったら申し分なくて死んじまう」

「まあ」


 まあまあ、と女将は気を良くした。三十路みそじも過ぎた女が十代の少女のように恥じらっている。彼女は完全に二乃助のとりこだった。


(う、傷つけないようにあしらったつもりが……)


 余計に火を着けてしまったようだ。これ以上れられないようにしているつもりなのになぜだ。


「ええっと、その、着替え、ありがとうごぜぇました」

「いいのよ。困ったことがあったらいつでもあたしを頼りな」

「……はい」


 無難ぶなんに返事だけしておく。そしてふと思い出す。


「そういや女将おっかさん、最近新しい禿入れました?」

「あきのこと? あの子がまた何かしたのかい」

「いや、そういう訳じゃなくて……」


 って、あいつ前科ぜんか持ちか! 


「少し見かけただけです。その、見ない顔だったもんで」

「そうね。あの子は三日前にうちに来たよ。で、どの妓女おんなの下に置いても苦情が後を絶たなくてね。困ったもんだよ。とりあえず皆に付けて様子を見ているところさ」

「……大変っスね」


 来て早々たらい回しにされる禿って……。いや、あいつならありるか。


(あき、ねぇ)


 カナは知っているだろうか。まぁとにかく着替えるか。このままだと本当に風邪を引く。


「じゃあ女将さん。おれ行きますんで」

「ええ、また今度ね」

「はは……」


 まるで逢い引きの約束だ。おれにはまっっったくその気はないんだが……。


(いつか目が覚めてくれりゃあいいんだけど)


 そう願いながら妹の部屋に向かう。妹は新造しんぞうだが、既に部屋を持っていた。女将さんが気を回してくれたのだ。ありがたいが、そのおかげで妹に降りかかる火の粉を払うのに必死だ。ここの女郎たちとは皆顔見知りだと言っても過言かごんじゃない。妹に手を出させないように、彼女たちには意図的に愛想あいそを売っていた。昔、陰間かげまでつちかったわざがここに来て役に立ったのだから、人生どう転ぶかわからないものだ。褒めて気を悪くする女はいない。別に誰も特別に思っちゃあいない。全ては妹の為。死んだ両親、兄貴の代わりにおれがカナを護る。そして目一杯、愛情を注ごう。妹が幸せに過ごせるなら、外道げどうにだって喜んでなろう。


「カナ、邪魔するぜ」


「じゃまするなら帰ってください」


「……」


 今、確実に時間ときが止まった。













 ……思い出したらまた腹が立って来た。なんか心配して探してるのが馬鹿らしくなって来たな。そもそも勝手に単独たんどく行動を取るな! そうも引きめろ! 無理か!


(どう考えてもむかつ気満々じゃねーか! おれがあいつならそうしてるしな)


 あきも大人になったとは知っている。けれど女ひとりを危険な目にわせるほど落ちぶれちゃいねぇ。

 カナの記憶から造られた建物は生前の妓楼とほとんど同じだ。つまり広い。一階の部屋を見て回り、二階に続く階段を登り切ったところで、ようやく目的の後姿を発見した。


「あき!」


 あきが振り返り、眉間みけんにしわを寄せる。


「……その様子だと思い出されたようですね」

「何か不都合ふつごうでもあんのかよ!」


 あきの肩に手を掛け、身体ごと向きを変える。


「一度でもいいからりょと呼んで欲しかっただけです」

「そこかよ! てかその源氏名やめろ! ぶっ飛び過ぎてんだよ!」

「人の名前にケチつけないで貰えます?」

「テメーの名前じゃねぇだろうが!」


 ここで一息つく。落ち着けおれ。こんな話をしに来たんじゃないだろう。


「なぁ、何をそんなに焦ってるんだ? おれが目を覚ますまで待てねぇことか?」

「何のことでしょう」

「舐めるなよ。おまえがひとりで片を付けようとしてんのはわっかんだよ。……おれと似てるからな」


 あきは一瞬瞠目どうもくし、またました表情に戻った。


「これ以上姉さんの手を汚させたくないんです」

「そこがわからねぇ。おれは起きたばっかなんだ。詳しく説明しろ。なんでカナが怨霊になってやがる。おれはなんでここにいる」

「……貴方、二人から何も聞いていらっしゃらないのですか」

「おまえを追って来たから聞きそびれたんだよ」

「人のせいにしないで貰えます?」

「へーへーごめんなすって。で、話してくれるよな」

「……なら貴方も探すのを手伝って下さい。歩きがてらお話しします」

「誰をだ?」

「楼主です」

「あ~……取りこぼしってあいつのことだったのか。なんて悪運あくうんの強い奴」

「本当に。昔殺したと思ったのですがね。脇が甘かったです」


 あきの後に続きながら頷いていた二乃助は、そこで、ん? と頷くのをやめた。


「殺した?」


「ええ、崖から落としてやりました。けれど生きていたんですね。かといって吉原よしわらには戻ってませんし、いったいどこに身をひそめているのやら」

「待て待て待て待て」


 二乃助は額を押さえた。なんて? 


「……いつのことだよ」

「崖から落とした時のことですか? 貴方が処刑された直後ですね」

「待って待って。おまえその時いくつだ?」

「八つでしたかね」

「……崖から落とした」

「さすがに工夫くふうはしましたよ」

「……馬鹿野郎!」


 二乃助は淡々と言うあきの両肩を掴んだ。そして前後に揺さぶる。


「下手すりゃおまえが殺されてるとこだ! 危ない真似はすんじゃねぇ!」


「家族を殺されたら!」


 あきも負けじと言い返す。


あだを取って何が悪い!」


 あきは二乃助の胸倉むなぐらを掴んで叫んだ。その拍子に絹のような髪が広がる。まるで気を逆立てた猫だ。


「貴方、昔言いましたよね。私のことを、家族だって。私には姉さんと貴方しかいなかった。貴方が殺されたと聞いて、かたきが目の前にいて、何もするなと、そう言うのですか? 姉さんを哀しませた男を前に、我慢しろと言うのですか? 貴方ならそう出来るのですか? 二乃助さん」

「……っ」


 あきの立場に立って考えてみる。想像の中のおれはどうやっても男をぶっ殺していた。そうだ、こいつはおれに似てるんだった。

 胸倉を掴む手をそのままに、彼女の背に腕を回し閉じ込める。あきは抵抗しなかった。


「最低です。貴方なんて。勝手に死んで……大っ嫌いです」

「ああ」

「……嘘かもしれません……」

「ああ」


 泣き方も知らない、不器用なおれのもうひとりの義妹いもうと。背に流れる髪を優しくく。


「すまねぇ。おまえをひとりにしちまって」

「まったくですよ」


 清々しいほどの肯定こうていが返って来る。上げた顔には、悔しさと哀しさがない交ぜになったような表情が浮かんでいた。


「私言いましたよね? 楼主の部屋で怪しい本を見つけたから身をつつしむようにと。それを木ノ下さん相手にしてやられて……会ったら一発殴らないと気が済まなかったんですよね」


 十年前、あきが言った。怪しい本といった中身は、過去行われて来た様々な処刑法が書かれていた。誰に使うかなんて一目瞭然いちもくりょうぜんだった。実際、あきはすぐに気づいた。


『ろうしゅはあなたを殺すきかいをうかがっています。くれぐれも気をつけて』


 そしてそう釘を刺されていた。だのにこのていたらくだ。あきが怒るのも無理はない。


「あの二発目の故意こいってそれかよ」

「それ以外何がありますか」


 わかった。全面的におれが悪い。平手打ちで済んだことがさいわいなくらいだ。


「悪かった」

「……いいですよもう。姉さんに謝って貰えれば」

「……」

「まさか、謝っていないと?」

「謝った! けどすぐわからなかったことに対してだった気がする……」

「チッ、まぁ起き抜けで混乱もあったのでしょう。次会ったら死ぬほど謝って下さい」

「はい! ってか、もう死んでんだけど」

「人のげ足とって楽しいですか?」

「いや違ぇ! つかよ? こうして普通に話してっけど、おれ、幽霊ってやつだよな? 道理どうりで他の奴らに無視されてた訳だぜ」


 逃げまとう奴らに必死に話しかけた。無視されていると思っていたが、そもそも認識にんしきされていなかったのだ。あれ? なんでこいつは、いや、そういや壮碁も普通に話しかけて来たな? あきに至っては触れても違和感がない。どういうことだ?


「……まさか、おまえらも幽霊とかそんなんじゃねぇよな?」

「だったら私が全員残らず祟り殺してるところですよ」

「だよなー」


 目が本気だった。


「そもそも姉さんは甘いです! ただ悪夢を見せるだけなんて! 私なら現実世界で貴方と同じ目にわせてやりますよ」

「お、落ち着け……って、おれと同じ目? おまえ、おれがどう殺されたのか知ってんのか?」


 あの時、あの場にいたのか? あの光景を見たのか……?

 顔から血の気が引くのを自覚した。


「あき」


 そんなまさか。あきの両肩に手を置く。


「……いえ、直接見た訳ではありません。けれど予想は付きますよ。あの本の中身を見ずして渡すとでも? それに、だからこそ、姉さんの気持ちもわかるんです。大切な家族を見世物みせものにされて……」


 あきはそこで言葉を切った。


「あき? おまえ、もしかして具合でも悪ぃのか?」


 胸を押さえて俯くあきの頬は真っ白だった。もともと色白な奴だが、よく見ると目の下にくまがある。上手く化粧で誤魔化しているようだが……。


「なんでもありませんよ」

「なんでもねーことないだろ! おい! カナたちのところに戻るぞ。少しでも横になれ」

「そんな暇……っ」


 あきは何度か深呼吸を繰り返しておれを仰ぎ見た。決して折れないとその双眸そうぼうが言っていた。結局折れたのは自分だった。こうなったこいつはてこでも動かねぇ。


「……次、おれが我慢できねぇと思ったら担ぐからな」

「そのような失態は犯しませんよ」


 ほんっと! こいつは!


(昔から可愛げの欠片もなかった奴だが拍車はくしゃが掛かってやがる!)


 綺麗には、まぁ、なったんじゃねぇの? 身内の贔屓目ひいきめ抜きにしても。十年だもんなぁ。


「……」

「なんで急に離れるんですか」

「あ、いや……」


 年頃の娘とこの至近距離はどうだろう。いや、こいつは妹みてーなもんだけど。やべ、変に意識したら止まらなくなった。


「で、デカくなったなって!」

「十年ですよ? ちぢむ方がどうかしてます」

「そりゃそうだけど!」


 おまえに情緒じょうちょはねぇのかよ! それともおれに魅力がねぇのか? いやいや、別に照れろとか、そう言ってんじゃねぇけども! なんか悔しい!


「そもそもおまえって壮碁と仲悪かった筈だろ! だのになんで一緒にいんだよ!」


 わかってる。自分でも支離滅裂しりめつれつなこと言ってるって。


「今は仲が良さそうに見えました?」

「いやまったく!」


 そういやこいつ、かんざしで刺し殺そうとしてたわ。


「そうだ! 髪! いつまで下ろしてんだ。かんざしはどこやった? おれが結ってやるから貸せ」

「ああ、貴方に手を掴まれた時に落としてそのままですね。姉さんたちのところにあると思いますよ」


 落とすなよ! おれのせいか!


「どうでもいいじゃないですか髪くらい」

「よくねーよ!」


 思わず叫ぶとあきがポカンとしていた。……しまった。気まずさを隠すように右手で顔を覆う。


「普通、遊女が髪を下ろすのはねやの中くれぇなんだよ」


 もっと詳しく言えば、どうでもいい客には見せない。それこそ間夫まぶ敵娼あいかたの前だけだろう。おれの前では、まぁいい。おれだから。だがここには壮碁もいる。いや、あいつが惚れてんのはカナだけど。だから、つまり、


「はしたないって言いたいんですか?」

「……そこまで言ってねぇよ」


 ただ、こう、面白くねぇ。けれど、そんなこと言えるか!


「はいはい。後でちゃんと結いますよ。まったく、たまに厳しいところは相変わらずですね」

「お、おう」


 どうやら普通に注意と捉えられてしまった。いや、いいんだけどよ……。


「んじゃまぁ、じじいの捜索を開始すっか。で? おれが死んだ後どうなったんだ? おまえ頭いいだろ。簡潔に説明してくれや」

「もうっ、注文が多い人ですね。まぁ私も急いでるので異は唱えませんが」


 言って歩き出すあきの後を追う。


「まずはおうが焼けたのはご存知ぞんじで?」


 言いながら、あきは近くの部屋の襖を開ける。そこに一片いっぺんの迷いもない。これ、逃げてるじじにとってかなりの恐怖なのでは? と思ったが黙っておく。


「ああ知ってる。直接訊いた訳じゃねぇが、壮碁とカナが話してんのを偶然聞いた」


 カナがそこで死んだとも……。


「楼主を殺した後でした。姉さんが火を着けてこもってると知ったのは。急いで駆け付けましたが気を失ってしまいました。……すみません」

「おまえが謝ることじゃねーだろ」

「いえ、目を離した私のせいです。復讐しか考えてなかった。そのせいでまた家族を失った……」


 小さい身体で火の中に飛び込んだのだろう。すぐに想像できて胸が苦しくなった。おれが、生きていれば――。


「続けます。見世を失った私たち妓女や禿は、かりの住まいに移りました。と言ってもそこも遊郭ゆうかくでしたけどね。采配さいはいは女将さんです。楼主の件は知らないでしょうが、姉さんの禿だった私が恐ろしかったのでしょうね。立て続けに親しい人を亡くしたので復讐されるとでも思ったのでしょう。まぁその通りですが。私以外の遊女は吉原に残りましたが、私だけ島原しまばらに移されました」

「京都のか?」

「ええ、物理的に離されました。おかげで身動きが取れなくなりましたよ。姉さんの噂を聞いた時もまだ新造しんぞうで……吉原に戻る為にも一刻も早く権力を手に入れなければと考えました」


 二乃助は陰間かげま時代のやるせなさを思い出し、つくづくあきとは似ていると思った。己の能力値も大事だが、それ以上に客に気に入られること。そうして力を身に着けていくのだ。きっと、あきも歯がゆい思いをしたのだろう。慣れない土地で一からい上がるのにどれほどの苦汁くじゅうを舐めたことか。


「私が大変な思いをしたとか今思いました?」

「人の心を読むな妖怪」


 あきは猫のような目を細めてハッ鼻で笑う。


「暇人たちに付き合ってあげるほど、私は優しくありませんよ」


 まぁ何もない筈がないよな。言葉も文化も違う子どもがいきなり入って来るんだ。おまけに顔も整っている。女の美に対する執念しゅうねん、ありゃなんだ。カナはどちらかと言えば無頓着むとんちゃくだったが、綺麗だということだけで目のかたきにされていた。おれがいなきゃ危なかったところだ。で、こいつには助けてくれる奴が誰もいなかったんだよな……。


「まぁ気にすんな。女の嫉妬しっとくらい適当にあしらっとけ」

「嫉妬? ああ、あれが嫉妬だったのですね。貴方は、散々私が自分と似ているとおっしゃいますが、ひとつだけ違います。私はやられたらその場でやり返します。我慢なんてしません」

「……ちなみに何された?」

「そうですねぇ……あ、晴れ着を切り裂かれたりした時は、犯人の間夫まぶに直接弁償させましたね」


 好奇心こうきしんで訊くんじゃなかった!

 間夫まぶとは女郎じょろうの内緒の恋人のことだ。基本、客との恋愛はご法度はっとだが、カナのように、それでも人を好きになる娘が必ずいる。


「よりによっておまえ、そこをくか……」

「本人より効くでしょう? おかげで私は新しい着物をあつらえましたが、その女性ひとは別れ話を持ちかけられたようで、泣きながら助けを求められましたよ」

「でしょうね!」

「せっかく気を利かせて男からお金を出させたのに面倒でした」

「おまえわかっててやってるだろ!」

「まぁちゃんと責任取って仲を取り持ちましたよ。それ以来、私に手を出そうなんて考える女性ひとはいなくなりました」

「おまえに助けなんていらなかったな……」


 カナ、おまえと一緒にして悪かった。と心の中で謝る。


「それから私は、吉原に戻る為に情報を集めました」

「吉原の?」

「そんな簡単なのは集めると言いませんよ。世間せけんのです」

「ごめん。待って。意味がわからない」

「貴方が亡くなってから、しばらくして幕府がめ始めたんです。将軍様に反感を抱くはんが次々に出てきて……長州や薩摩、土佐もでしたね。お座敷ざしきを使ってお侍さんたちが、それって機密きみつ事項じこうじゃないの? いいの? って話をするんですよ? 利用しない手はないです」

「……平家物語について熱く語ったんじゃないのかよ」

「それもありましたが、こっちもあったということです。嘘は言ってません」


 あきはしれっと答えた。あ、なんだか先の展開が読めた。


「情報を売ってたのか」

「おかげでもうからせて頂きました」

「おまっ、いや、生きてるならいい。まったく、危ない橋を渡ってくれる」

「ちゃんと護衛ごえいやといましたよ。こっそりと。普段は妓夫ぎゅうのふりをして貰っていて……、そういえば今回も一緒に来て貰っていたんでした。可哀想に、今頃必死に探してるでしょうね。今度給料上乗せしてあげよう」


 まったく可哀想と思ってない顔であきが言う。

 ……こいつを主に持つとか、不運ふうんとしか言いようがない。


「つまり、身は島原に置いているけど、今回吉原に来たってことで合ってるか?」

「ええ、やっと許可が下りたので、その下見したみに」

「は? 下見?」

「最後に見たのは十年前でしたから、荒れ放題だと思っていたんですけどね。想像していた状態よりずっと綺麗でした。きっと木ノ下さんでしょうね。これから更に綺麗にして、新しい妓楼ぎろうを建てます」

「誰が?」

「私以外、誰がいますか」


 どうしよう。目の前に、おれの常識をことごとくくつがえす女がいる。

 おれは次第しだいに頭痛がしだした眉間を押さえた。


「おまえがろうしゅ?」

「ええ、近々そうなりますね。まだ妓楼の名前は決めかねているのですが。まぁそれは置いといて。そうして姉さんの墓参りをねて下見に訪れた時、あの人、木ノ下さんと鉢合はちあわせたんですよ」


 あきは次々とふすまを開けながらもしゃべるのをやめない。


「昔、彼とは約束ごとがありましてね。その約束を果たそうとしたら突然景色が変わって、気がつけば焼けた筈のおうにいました」


「カナか」

「ええ、姉さんが現れて、一生懸命私を止めようとしてましたよ。姉さんにかばわれる彼にますます腹が立って、逆に引っ込みがつかなくなりましたけど」


 あ、今最初とつながった。


「壮碁としたっつー約束はあえて訊かねぇけど、おまえらは、おれがいることに驚いてなかったよな」

「そりゃいるでしょう」

「なんでだよ!」


「貴方が姉さんを置いて先に冥土めいどに行きますもんか」


「……」


 何も言えなかった。




 最後の襖を開け放ったあきが、不機嫌そうに振り返った。


「いない。どうやら今は起きているのかもしれません」

「どういう意味だ?」

「あいつは私らと違って生身じゃないんですよ。あいつにとってここは夢の世界。起きたら現実に帰ります。まぁ帰ったところで自害じがいする勇気もないでしょうから、また戻って来るでしょう。その時を待ちますか」

「もし自害したら?」

「それこそ姉さんのうらみが晴れる時です。きっとこの世界もなくなるでしょう。怨霊おんりょうでなくなれば、姉さんも、貴方にも御仏みほとけ様のおみちびきがあると思いますよ。くれぐれも地獄なんかにちないで下さいよ」


 相変わらず無茶を言う。


「おまえらはどうなるんだ?」

「さぁ? その時になってみないとわかりません」


 あきがわからないと言うのは珍しかった。少し引っ掛かったが、その時が来たら全てわかるだろうと自身を納得させる。


「とりあえず一旦いったん戻りましょうか」


 そう言ってあきがきびすを返す。


「待て!」


 おれはその腕を掴んだ。戻る前に聞いておきたかった。


「おれは確かに未練みれんがあった。おれがいなくなってから、おまえらが無事に過ごしていけるのか心配だった」

「知っています。貴方は死ぬ直前までそういうことを考える人ですから」

「おれは、なんでここにいる?」

「私は貴方ではないので。でも予想の範囲内でならこうじゃないですか。未練が強くて成仏できず、フラフラしてるところを姉さんに拾われた、と」

「人を放蕩ほうとう息子むすこのように言うな」

「それか、姉さんの強い罪悪感ざいあくかんが貴方を縛り付けたのでしょう」

「罪悪感?」

「貴方をめたのは木ノ下さんですが、そうさせたのは自分だと」

「そんな訳あるか! だいたいあれはおれが……」

「ええ、そんな訳ないんですよ。だって、貴方、わざと見せつけてましたからね」


 バレてた。


「ああ怒っていませんよ。私は私で、裏でいじめてましたから」

「おまえもかよ!」

「最後には姉さんと幸せになるんですから、少しくらいいじめたっていいじゃないですか。貴方も、そう思っていたのでしょう?」


 押し黙る。まったくその通りだ。壮碁から足抜けを手伝って欲しいと頼まれた時は腹をくくった。これでカナとお別れか、と。


「好きな奴と過ごすのが一番いいかと思った。だからあの話に乗った。けどまさか」

「姉さんは貴方を取ったというより、純粋に心配したんでしょうけどね。まさかそれがきっかけになるとは。一応私たちなりに祝福しゅくふくしてたのに……上手くいかないものですね……」

「……本当にな……」


 本気で別れさせるつもりはなかった。あいつらには幸せになって欲しかった。これがうそいつわりない本音だ。


「……おまえらだけがおれをえる理由……は、なんとなくわかったよ」


 きっと意識の問題だろう。あきと壮碁の中ではおれがいて当然だと思っていた。いないと思っていたら視えない。そんなとこだろう。

 そしておれがなぜ二十歳と思い込んでいたのか。これもなんとなくわかった。怖かったのだ。怨霊にカナの気配を感じた時、おれ自身がその事実を封印したのだろう。記憶と、カナの顔を同時に。馬鹿なことをした。そのせいでカナがどれほど傷ついたことか。……そういや、


「おまえ、『拒絶』って呟いてたな。知ってたのか。あの時にすでに、何もかも」

「聞こえてらしたんですね。ええ、貴方が姉さんの顔が見えないとおっしゃった時にですけど。きっと現実を受け入れたくないんだろうなと思いました。この甘ちゃんが」

「もっと優しくして。てか、何もかも知った上であの態度って人としてどうよ?」

「失礼な。優しくしてたじゃありませんか。無理やり現実をきつけるような真似はしなかったでしょう。……まぁ結局は、私の一言がきっかけになってしまいましたが」


 あきの『懐かしい』に二十五歳のおれが反応したのか。ん? 待て、何か言い忘れてるような……。


「ああ! おま! あ、あぶあぶ、危ねぇだろ! 大の男の下敷したじきになりやがって! 怪我はねぇのか?」

「怒るか心配するかどっちかにして頂けません? 大丈夫ですよ。小さい頃の私と一緒にしないで下さい。貴方くらい支えてみせますよ。貴方が巨漢きょかんでなくて助かりましたが」

「つまり巨漢だったら見捨ててた訳だな。おまえのその冷静なところ本当に尊敬するわ」


 もちろん厭味いやみである。しかし、本当に変わっていない。


「……おまえさ、おれと初めてった時のこと覚えてっか?」

「ああ、人のことをクソチビ言って下さったあの時ですか。覚えてますが何か?」


 う……胃が、あの時のおれ、どうしてくれる。


「あれは、その、」

「大丈夫ですよ。誰だって虫の居所が悪い時があります。例え初対面で暴言を吐かれたって仕方ありません。昔のことをとやかく言うつもりはありませんよ」


 言ってる! 今まさに言ってる!


「確かにあの時は言えない事情があった、けど! 普通池に落とすか! あのあと熱出したんだぞおれは!」

「馬鹿じゃないと証明されて良かったですね」


 ああ言えばこう言う! 


 そういやあの後どうなったか途中だったな。まぁきっとおたくらの想像通りだ。

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