~第二章~
『あきは優しい子でしょう?』
愛しい者の声にハッとする。
「
素直に認めると、彼女は柔らかい笑みを浮かべた。
初恋だった。十八の頃、仕事の取引相手に、
「私のことがさぞや恨めしいでしょう」
「本当に取り返しのつかないことをしてしまった。今更謝っても遅いですが、……申し訳ありませんでした……」
深々と頭を下げる。許して貰おうとは思っていない。むしろなぜ自分が生かされているのかが不思議だった。
叶絵さんが亡くなってから五年が経った頃、ひとり、またひとりと人が死んだ。彼らの死は叶絵さん……桔梗の怨念と噂された。うわごとで誰かが名を呼んだことから広まったようだ。彼らは夢を見る度に、何度も何度も八つ裂きにされたそうだ。そうして精神を病み、
『毎日』
壮碁が顔を上げる。そこには困ったように笑う叶絵がいた。
『毎日会いに来て下さいましたね』
きっと火事の後のことを言っているのだと気づく。
『雨の日も、風が強い日も、毎日、毎日、足を運んでくれましたね』
家族の反対を押し切って出家した後、彼女の亡くなった場所に
『嬉しかったです』
「……っ」
ようやく彼女の目を見ることが出来た。そこには生前と変わらず
『あきとあなたの会話も聞いていました。ヒヤヒヤしましたよ、まったく』
「叶絵さん」
『あきには悪いですが、わたくしとの約束を破って貰っては困ります』
約束。そう、彼女と最期に
『約束通り、あきを助けてくれてありがとうございました』
「……っ、私は! 貴女も助けたかった!」
十年前、炎に包まれる部屋で、彼女は言った。
「もし、わたくしに負い目を感じているのでしたら、この子を助けて下さい。この子だけは死なせないで」
「貴女も助けます!」
「わたくしにはやることが残っています」
炎が彼女を覆い隠す。
「叶絵さん!」
「あきを助けて。わたくしを愛してくれているなら」
叶絵さんの腕を引っ張っても嫌々と首を振られた。足元には先に助けに入った女の子が意識を失って横たわっていた。身体が小さい分、この熱気に耐えられなかったのだろう。このままでは全員が呑まれてしまうと思い、まずは女の子を救うことにした。抱えて外に向かう。すぐ戻って今度こそ彼女を救おうと思っていた。しかし、外に出た瞬間、炎が一段と勢いを増し、私は悲鳴を上げた。急いで中に入ろうとした私を、消化に当たっていた人たちが押さえた。屋敷が崩れていくのを絶望した気持ちで見ていた。喉が裂けても叫び続け、血の味がした。まだそこにいるんだと。まだ助けていないんだと。
全てが
「邪魔が入らなければ助けられた! あの時! 私を行かせてくれたなら……っ」
『それは無理でした』
「無理じゃなかった!」
『いえ、無理でした。あなたとあきが出た後、わたくしは更に
「え?」
なら、あの時一気に燃えたのは……。
『最初から助かる気なんてなかったのです。だから、あなたが気に病むことはありません。わたくしは自ら死を望みました』
「なん、で……そこまで……、やはり、二乃助さん、ですか?」
彼女は二乃助さんの
『どうしても許せない人たちがいました』
「人、たち?」
『
「あの人たちとは?」
「おいこら、女の秘密をやたらに聞き出そうとするんじゃねぇよ。だからおめぇは鈍いんだよ」
心臓が跳ねた。この口調。この威圧感。
声のした方を見ると、二乃助さんが頭を押さえながら起き上がるところだった。
「チッ、おれとしたことが」
おおよそ
「カナ」
『……っ』
「すぐにわかってやれなくてすまねぇ」
『いえ! いえ!』
叶絵さんは子どものように二乃助さんの胸に飛び込んだ。ジクジクと胸を締め付ける感情。大人になったと思っていた。だが相変わらず
「もう
私は何度も
「足抜けは重罪です。もし失敗したらあなたも、わたくしの命もありませんよ」
「いえ、きっと貴女は大丈夫ですよ。
子どもだった。叶絵さんと出逢って一年、彼女はまだ十八で若かった。もっと時間を掛けて楼主を説得していれば良かったものを。ずっと二乃助さんの存在が
商家の家に生まれ、大事に育てられ、仕事も
「それに、手引きは二乃助さんがしてくれるそうです。彼なら安心でしょう」
「なんですって!」
その時、初めて女性に打たれた。
「あの人を巻き込まないで!」
喧嘩もこれが初めてだった。
「……貴女は、いつも……」
いつもいつも彼を優先する。その度、嫉妬で身を焼かれる思い味わってる己を知らないだろう。
「とにかく、足抜けのことは考え直して下さい」
「……」
「壮碁さん?」
もう、限界だった。私はうっそりと笑った。
「ええ、勝手に
「謝らないで下さい。わたくしが遊女でなければ……あなたも、他にいい
「そのようなことおっしゃらないで下さい。私は貴女以外考えられません」
「ありがとう、壮碁さん」
叶絵さんを抱きしめながら私は他のことを考えていた。二人で遠くにいけないなら、あの人を遠ざければいい。
彼女と別れた後、私は楼主と会った。そして言った。
「二乃助さんと桔梗さんが足抜けするそうですよ」
桔梗とは、叶絵さんの源氏名だ。彼女は怒るだろうけど、たまには反抗してもいいじゃないか。ずっと我慢して来たんだ。楼主は顔色を変えてすぐに部屋を飛び出した。
叶絵さんも二乃助さんも見世には必要な人たちだ。きっとお
そして二乃助さんは処刑された。叶絵さんもその場にいたらしい。帰って来た彼女に何度も謝った。しかし彼女は私を責めなかった。
「あなたの気持ちをわかってあげられてなかった」
そう言って逆に謝られた。追いつめてごめんなさいと。
そんなつもりじゃなかったのに。
その日の夜、二乃助さんに続いて彼女も
「で、なんだってこうなってるんだ?」
二乃助さんの声にハッと我に返る。
「おまえがいながら、なんでカナが死んでるんだ? あ?」
二乃助さんは人ひとり殺しそうなほど怒っていた。それもそうだろう。間接的とはいえ自分を殺した男だ。殺されて当然だと思った。
『怒らないであげて。わたくしが勝手にしたことなの』
「……おれ、おまえに言ったよな? 生きろって」
『……』
俯く叶絵さんに、二乃助さんは首を掻いた。
「つっても、おれも偉そうなことは言えねぇな。おれが死ななきゃよかったんだよな」
「違います! 私が! 貴方を!」
唇を噛み、預かった
「どうぞ
「は?」
懐剣と私の顔を交互に見て、二乃助さんは呆れた顔をした。
「何バカ言ってんのおまえ。おまえをここで殺しておれに何の得があるんだ?」
「私は! 貴方を
「あ? あ~……そういやそんなこともあったな」
「そんなことって!」
「つか、おまえ相っ変わらずクソ真面目だな。
「え?」
「おれがおまえにキレてんのは、カナを護り切れなかったことだ。でもまぁ本人が許してるんだし、その場にいなかったおれがとやかく言えることじゃねぇ」
「で、ですが、そもそも私が嘘をつかなければ……っ」
「だからクソ真面目だって言ってんだ。あんなもん蚊に刺されたようなもんだ。
「楼主が?」
二乃助さんは一瞬しゃべり過ぎたという顔をした。そして間を置かずして昔と同じ
「そもそも、おまえがおれを
『そんなことしてらしたの!』
「そんなこと考えていらしたんですか!」
二乃助さんはツンとそっぽを向いた。おいこら二十五歳。当時十九歳だった自分に言いたい。この人、かなり大人げないぞと。
「だってよ? 可愛い可愛い妹が、おれ以外の男の話をするんだぜ? ぶっちゃけ殺してやりたかったわ」
い、も、う、と、が!
そうです。彼は
「けど
「そういう貴方は、恋仲なのに恋人がひたすら兄を優先する私の気持ちはわかります?」
「そりゃあおれを優先するだろ。思い悩むぐれぇならおれに直接文句言やぁよかったんだ。男ならそれくらいの
「無茶言わんで下さい!」
「それに比べ、あきはなぁ、…………あきは?」
ようやく彼女がいないことに気づいた二乃助さんが立ち上がる。
「彼女なら、少し
二乃助さんは目を見開いた。
「いつから」
「貴方がお倒れになってからです。あれ? 結構
『いけない。迷子になったのかしら』
「バッ!」
二乃助さんは一度大きく深呼吸した。
「このバカ! あいつが散策だけで済ませる玉かよ!」
『
「おまえも
そう吐き捨て、二乃助さんは彼女を探すと言った。その前に、
「おいそーご! 今度こそカナを
彼の姿が見えなくなってから壮碁は密かに感心した。
「本当に同じこと言ってる」
あきはカナの
(変わってなかった……)
記憶を
あきと初めて出逢った時、おれは珍しく機嫌が悪かった。何もあの日あの時が最初でなくても良かっただろうに。神さまも人が悪い。初対面でさっそく
……その前に少しおれの秘密を明かそうか。そもそも、このおれが最愛の妹をむざむざ
おれは十四から十八の間、
当時、おれには七つ下の妹に、五つ離れた兄貴と、仲の良い両親がいた。家は貧乏だったけど、それなりに幸せだった。けれど、その幸せは長くは続かなかった。まだ幼い妹を残して両親が
「二乃助ぇ、いつもの文だよ」
「……兄貴?」
売り上げのほとんどは見世を
叔父はおれの送った金で
久しぶりの我が家は酷く荒れていた。もちろんそこに叔父の姿はなく、頭から血を流す兄貴だけが残されていた。おれは慌てて兄貴を抱き起した。
「に……の、すけ……」
「しゃべるな! 何か血を止めるもんを探してくるから待ってろ!」
「いや、いい……オレは、助からない……おまえも、わかってる、だろう……?」
おれは唇を噛んだ。こんな時でも
「まもれ、なかった……。ごめん、な……?」
誰のことを言っているのかわからない筈がない。兄貴はこれを言う為だけにおれの帰りを待っていたんだ。
「大丈夫だ。あいつは絶対取り戻す。安心してくれ」
精一杯の笑顔を向ける。すると兄貴はホッとしたように、静かに息を引き取った。
兄貴を
「あんた、どうしたんだい?」
事情を話そうとし、やめた。思い返すだけで悲しみと殺意で頭がおかしくなりそうだった。叫びだしたい感情を抑え、ゆっくり唇を開く。
「おれ、
今はこれで精一杯だった。
「は?」
それだけ言って見世を出ようとした。一応義理を果たしたつもりだった。けれど背後から腕を掴まれ、おれは
「逃がす訳ないだろう! あんたが一番の稼ぎ頭なんだからな!」
「……兄貴が死んだ。おれはこれからさらわれた妹を見つけなきゃなんねぇ。あんたには世話になったと思ってる。できたらこのまま行かせてくれ」
「そんなもん知るか! あんたは
そんなもん。
おれは
人間は金に目が
おれは女将の細い首にそっと右手を当てた。そして
「折られてぇのかい?」
少しばかり手に力を込めると、女将は悲鳴を上げて後ずさった。それから人が集まる前にその場を去った。あれからあの見世には一度も行っていない。
復讐は
だがおれは、初めて人を
翌日の客引きの仕事をサボり、庭の小さな池に掛かる橋に腰掛けていた。どういう顔をして妹に会えばいいのかわからず、ずっと揺れる
「そこにおわすのは、二乃助さまでありんすか?」
幼い声の割に
後で聞いた話によると、カナの禿になったあきは、一応
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