~第一章~
世の中は広い。そりゃ色んな人間がいるもんだ。腐った奴なんて山ほど見て来たし会いもした。よほどのことじゃあ驚かない自負もあった。それを今
「こんなにも早くお会いするとは思いませんでしたよ。まぁ私は約束は果たす方です。きちんと責任は取りましょう」
「ちがっ、え! あれは私に対する
「なぜ嫌いな相手をわざわざ励まさなければならないのですか。紛れもない本音ですよ」
「えええええええええっ!?」
……うん。訳わからん。とにかく、今は状況
おれの名は
「この腕を離しなさい。さもないと
「待って待って待って!」
……あいつらさっきからうるせーな。
なるべく視界に入れないようにしていたが、そうもいかなくなった。いよいよ女の持つかんざしの切っ先が、男の
「ちょいとお二人さん」
おれは意を決して二人に話しかけた。化け物がホッと胸に手を当てた。顔は相変わらず見えない奴だけど、どうもこいつ、おれのこと知ってる
「二乃助さん!」
「チッ、もう
坊さんの涙いっぱいの瞳と、溢れんばかりの殺気を放つ女の瞳が同時に向けられる。あ、やっぱ早まったかも。
「ああっと、まぁ、なんだ? 美女に馬乗りされるなんて男
同時に命も尽きそうだが。
「冗談じゃないんですよ! この人本気で私を殺すつもりなんですよ! 私が貴方に頼めた義理じゃないのは重々承知ですが、今だけは助けて下さいいいいいいいい!」
必死か。
「本当に頼めた義理じゃありませんよね。どういう思考回路をなさっているのかとても興味がありますよ。その頭かち
「いいいいやあああああ!」
「ほら! 泣いてるじゃん! やめてあげて! ね?」
「この人は昔っから泣けばいいと思ってるんですよ」
「いい加減ちょっと落ち着けおまえら」
ガチ泣きの坊主から女を放すと、坊主は
「なんなの? なんでおまえそんなに
「それはこちらの
あれ、最近空耳が酷いな。取ると
「だいたい貴方がなぜ彼を庇うのですか。私の納得いく理由が
「おまえらは何か勘違いしてるかもしれねぇけど、おれはおまえらを知らねぇからな?」
「は? 貴方、二乃助さんじゃないのですか?」
いや! 確かに二乃助はおれですけども!
女の
「たぶん、おれは、おたくらの言う二乃助さんじゃないと思います」
その直後だった。パァンパァン! と連続して
しばらく呆気に取られていると、眼前の女が叩いた手をそのままに言った。
「すみません。まだ寝ぼけてらっしゃるのかと思って」
「だからって二回も殴るか普通!」
「二発目は
しれっと女が言う。このクソ
今にも喧嘩に発展しそうなおれたちの間に入ったのは、意外にも化け物だった。女の方を向いている。
「え?」
クソ女の声だけが聞こえる。
「は? なんでそんな面倒なことに?」
化け物はしゃべれなかった筈だ。どうやって会話してんだおまえら。
「はああああああああぁぁぁ……」
会話が終わったのだろう。それはもう、腹の底から深い溜め息をはいた女が額を押さえていた。
「ハゲ下さん」
「木ノ下です!」
「この人、どうやら記憶を
「え?」
…………え。
ちょっと失礼。いったん頭の整理をすることにする。
ここはおれの見世で、でも今は化け物屋敷になっていて、いつからそうなったのかは覚えがない。
ただ、たまに人が迷い込んで来ては化け物に殺された。そう、目の前にいる遊女の化け物だ。殺し方はえげつないし、おまけに顔は見えねぇときた。けれど、不思議と怖くはなかった。何度か会話を
化け物が襲う人間は逃げるのに必死だったのか、誰ひとりおれに気づこうとしなかった。声をかけても無視する者もいた。
ただ一つわかっているのは、この化け物が『
おっと話が逸れたな。あ~何を話していたんだっけな。ああ! そう、その顔の見えない幽霊。今からは桔梗と呼ぶな。もう五日も前のことだ。いつものように客を引こうと外に出ると誰ひとり歩いていなかった。ありえないことだ。いくら
「おれの妹をどこへやった……!」
あんなに叫んだのは久しぶりだった。
顔があろうが無かろうが幽霊だろうが、妹に害なす奴は、例え殿さまだって許さない。
その後も色々
その日はとりあえず妹の無事を祈りつつ就寝した。ここぞとばかりの
「ちょっと聞いてます?」
ハッと意識を戻す。目の前にはしかめっ面の女。
「その顔、聞いてませんでしたね」
そうだ、あれから人間が現れる度に同じように殺された。不思議なのは殺された後。血も死体も綺麗に消え、あの
「戻って来て早々またどこかに行かないで貰えます」
「え?」
「……はあ」
これ見よがしに溜め息をつかれムッとする。こちとら色々あったんだから物思いぐらい浸らせろ。
「ご自身はお
「誰がじじいだ!」
「ならさっさとお答え願えますか? こっちも暇じゃないんですよ」
こいつ……っ、
(これまで色んな女を見て来たが、ここまで生意気な女は…………)
……今、何か頭をよぎったような……気のせいか?
気を取り直して頭を
「二十歳だ。あんたとそう変わんねー筈だ」
「チッ」
「今のどこに舌打ちされる
こいつ舌打ち多くね? それも
「それじゃあ私を覚えていなくて当然じゃないですか。なんで忘れてるんですか頭でも打ったのですか? また打てば思い出しますか?」
「落ち着け! そしてこぶしはしまえ!」
え? これっておれの落ち度なのか?
「姉さんのことはもちろん覚えてらっしゃいますよね?」
「って、そこの幽霊のことだよな?」
「ハゲ下さん命拾いしましたね。先に片付ける相手が出来ました」
「木ノ下ですってば! 事情があるんですよきっと、彼のお話を
「どんな理由があれ姉さんを忘れるなんて
「君がお姉さんを慕ってるのは十分理解してますから! ここは私に任せて下さい!」
「えっと、あんたがハゲ下さん?」
「あんたらわざとですか」
凶暴女と入れ替わり坊さんが前に出た。頭は綺麗に丸められ、修行服に
「私の名前は木ノ下
「は? その若さで?」
「ふふ、よく驚かれますが、私はこの道十年ですよ。ちなみに今年で二十九になりました」
「はあ? 十九で
「……そんな、
「余計なことまでは言わなくていいです」
「すみません!」
「……おまえらの関係って何?」
住職っつったら
「そして彼女は、」
「自分の紹介まで頼んだ覚えはありませんが?」
「誠に申し訳ない!」
どんだけ腰低いんだあんた!
「あんま坊さんいじめてやるなよ! 見てるこっちがハラハラすっから! 道徳的に!」
深々と頭を下げた坊さん、壮碁さんは静々と後ろへ下がった。結果、女と
「彼女は
「いやおめぇの紹介じゃねぇのかよ」
「……桔梗姉さんですよ?」
「いやもう、そいつの名前は知ってっから」
おいおいおい、こいつ視線で人殺せるぞ。
「まだ、おわかりにならないと?」
「だーかーらー、おれにはそいつの顔が見えねぇんだよ」
今度はパチクリと目を丸くする女。ようやく反撃できた。
「見えない?」
「名前は殺された奴らから聞いたんだ。顔は最初から見えねぇんだよ。なんでか」
女は幽霊とおれを交互に見た後、何か考えるように口に手を当てた。
「……拒絶……」
「あ?」
「いえ、そのような事情があるのなら仕方ありません。今回は
「あのよ、なんでおまえ、そんなに偉そうなの?」
「それで? これまでに何人死にました?」
「サラッと
「チッ、……姉さん」
女は、思いっきり役立たず! とおれを睨んだ後、幽霊に話を振った。あれー? おれってば結構女ウケ良かったんだけどなぁ。女からこんな酷い仕打ち受けたのは生まれて初めてだわ。話が終わったのか(幽霊の声は相変わらず聞こえなかった)、再び女がおれを見る。
「取りこぼしがあとひとりいるようです」
「え、なんの?」
「危険なので団体で行動しようと思いましたが、一刻も早く見つけたいので
「おーい。おれの声聞こえてるー?」
「では二乃助さんはハゲと」
「とうとう下も無くなった!」
「頑張れ坊さん! じゃなくて詳しく説明しろ! 取りこぼしってなんだよ!」
「姉さんの
「お勧めされたくねぇよそんなこと! てか祟りっつった? え、あの殺された奴らは祟られたのか? そいつはただの幽霊じゃなかったの?」
「優しくてお
「優しい怨霊ってナニ!?」
怨霊って怨霊って! あれか、
「つか、結局おまえ名乗ってねーけど!」
仕切っている奴が一番謎を残してやがる。さすがのおれでもわざとだとわかる。
「……必要ですか?」
「いざとなった時に呼べねーと困るだろ。何? 名乗りたくない理由でもあんのか?」
「いえ、以前教えた名前を忘れられた
「おれも今、
しかも口悪っ! 丁寧に言やぁいいってもんじゃねぇぞ!
「あんたがおれにキレてんのはわかった。ちゃんと思い出すから、今は名前を教えてくれ」
「私が怒っているのはそれだけじゃありませんよ?」
「まだあんのかよ! ああもうっ、とりあえず今は仲良くしようぜ。な?」
「結構です」
「……」
無言で壮碁さんの方に目を向けると、もの凄い勢いで視線を逸らされた。
「どうしました姉さん?」
「え?」
「え~……」
「…………はい」
沸き上がる怒りを
「姉さんから貴方あなたの面倒を見るよう仰せつかりました」
思わず怨霊をさん呼びである。
「大変不服ですがよろしくお願いします」
「おれの
「そうなると確かに名前が必要ですかね。源氏名で宜よろしければ、私のことは
「
「それか
「しかも名付け親おめーかよ! なんでどっちも
「強くて格好良いじゃないですか」
「つよ、いや、せっかく知識が豊富なんだから、どうせなら
「強い
「……まぁ、一理あるわな。でもなんで中華? いや中華が嫌いとかじゃなくて、日本は駄目なの?」
「日の本だと姓も含めて長くなるので」
「そこかよ!」
だが普通、男の名前を付けるか? 周りは止めなかったのか? どうも今まで知り合った女たちとはかけ離れて過ぎてて扱いに困る。
「改めて訊くけど、遊女なんだよな?」
「今更ですね」
確かに軽装とはいえ、化粧は遊女の
「客取れてる?」
失礼を承知で
客足を気にするのは
「余計なお
「嘘だろ!」
「
「そういうことは人前で言っちゃ駄目!」
「今は
「って歴史の話かよ!」
「時に
「そこは枕を交わせ!」
「な! 何を恥ずかしいことを!
「え? おれがおかしいのか?」
あれ?
ふと背後に目をやると、桔梗とやらの幽霊が腰を折り曲げて震えていた。もしかして笑ってる? ジワリと心が温かくなるのを感じた。この感覚は覚えがある。どこで?
「ふふ、なんだか懐かしいですね」
女がどこか眩しそうに
「貴方がいて、姉さんがいて……あの頃が一番幸せだったかもしれません」
「おれもだよ」
…………は?
「やっと笑ったな」
な、んだ……? 口が、勝手に……。
「あき」
あき……?
「二乃助さん? もしかして思い出して……?」
皆の視線が集中する。おれは何を言っているんだ?
ガツン、と頭に
「うっ、あ……っ」
ドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクン……ドクンドクンドクンドクンドクン……ドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドク!
「はっ……はっ……」
何なんだ急に。どうしたんだおれは。
たまらず心臓を押さえる。
(苦し……っ)
このままでは心臓が破けるのではないかと思った。頭が割れそうな痛みは瞳に涙の
「落ち着いて! 今は何も考えないで下さい!」
「さ、」
先に行け。そう言おうとしたが叶わず、気づけば視界いっぱいに天井が広がった。ああ倒れる。そう思った時、すぐ後ろに人の気配を感じた。力を振り絞って首だけ向けると、
(馬鹿!)
成人男性の体重を支えきれる筈がない。例え前から男と女の幽霊がそれぞれ腕を伸ばしていたとしても。身体を
「いいから素直に倒れなさい!」
一応気を遣われたのだろうか。相変わらず(相変わらず?)親切が
『あき、大丈夫?』
「大丈夫ですよ。ところでハゲ下さん、その
「はいっ」
あきの
『ありがとう、あき』
優しい声音が脳裏に響く。彼女の声は音としてではなく、直接脳を震わせた。
「いえ、こうなる気がしていたので、なるべく刺激を与えないようにしていたのですが、私が
きっと、自分が
「姉さん、彼に付いていて貰えますか?」
『あなたはどうするの?』
「危険がないか少しこの辺りを
『わたくしも共に行くわ』
「いえ、もし彼が起きた時の為にも、姉さんには残っていて欲しいんです」
そう言うと、姉さんの瞳が不安げに揺れた。
「大丈夫ですよ。もう、大丈夫」
私は姉さんの手を取る。己の手にすっぽり収まるほど小さな手。この手に、昔はよく頭を撫でられたものだ。
「二乃助さんは
それに、と続ける。
「全てを思い出した彼が、一番に見たい顔、聴きたい声は、姉さんでしょうから」
姉さんの顔がクシャリと歪む。垂れた目尻から幾つもの涙が零れる。
「今までひとりでよく頑張りましたね。後のことは私に任せて下さい」
『あ、き』
ぎゅうっ、と強く抱きしめて来た姉さんの背を優しく叩く。
(手も、肩も、こんなにも小さかったんだな……)
幼い頃の私の全てだった
「木ノ下さん」
「だから私は木ノ下で、え?」
あきは愛する姉から離れると、帯の中から取り出した
「それをお貸しします。何かあったら死ぬ気で二人を護って下さい」
「そしたら貴女が!」
「私はそんなものに頼らずとも強いので大丈夫です」
そう言い残し
「それで許します」
「え」
「貴方を殺す約束を
あきが去った後もしばらく呆然としていた壮碁は、ようやく一言、
「
と、苦笑まじり呟いた。
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