第3話

 連れ込まれてしまってはおしまいだ。自分からどこかに……――。

 そうして思い当たる。唯一の場所。

「では、美術資材室ですね」

 美術資材室は管理棟最上階へとつながる一番近い階で、珍しい絵の具や資料が揃い、一度、過去に盗難にあった事から監視カメラが仕込んである。その上、今日は美術部の文化祭展示出店のために備品保管場所として、特別に開錠されていた。

 無駄にどこかに引きずり込まれる危険性があるより、絶対安全策を考える。

「人も居ないし、今日は鍵も甘い」

「話しが早くて助かるわぁ」

 そうして一階下くだり、一番端奥の教室へ。案の定鍵は掛かっておらず、簡単に部屋に入れた。

(本当に、今日で良かった)

 妙な脱力感が肩の力を抜いていき、思考も動くようになってきた。

 チラリとドアを見遣る。中から施錠も出来ない部屋。それがここを選んだもう一つの理由。

 資材室に入るなり、聞いたこともない速度の足音が激しさを増して近づいて来た。

「陽芽っ!」

(翔利、早っ)

 瞬間。ダンッと勢いよく開いたドアの音に驚いた男の手を思い切り振りほどいた。そのまま入口の翔利の元へ走り出す。再び背後から伸びて来た男の腕が視界に入ったけれど、それを遮るように、翔利が反対側の腕を素早く引き寄せてくれる。

「翔利、ナイス」

「ナイスじゃねぇわっ! 何、連れてかれそうになってんだよっ!」

 面と向かって初めて怒られた。

 その顔は苦しそうで、どこか悔しそうで。

「翔利?」

「あぁ、もう!」

 何に怒っているのかも分からない。

「翔……っつ!」

 もう一度その名を呼ぼうとして、それは叶わなかった。

 ――バクッン! と跳ねた心臓の痛みに全身が固まった。

 固い腕に自身を包くるまれる。

 目の前にはブレザーの胸ポケットに刻まれたエンブレム。

 気が付けば、愛おしい人に抱きしめられていた。

 全身が歓喜に震えて痛むことを、初めて知る。けれど、それは決して自分だけのものではない。

 抱きしめてくれる強い腕が、僅かな振動を伝えてくる。

「翔利、もう大丈夫」

 心配をかけた。怖いのは自分だけではないはずだ。翔利には立場もあるし、数人を相手にしないといけないかもしれない。案の定、目の前の三人組は諦めてはくれていない。

「何だよ、お前。せっかくの黒薔薇ちゃんとの時間を邪魔すんじゃねぇよ」

 明らかに事を構える気満々な、険悪な雰囲気が部屋を満たす。

「あぁ?」

 それを受ける様に翔利の表情も険しくなった。

 そっと腕から解放され、その背に匿われた。

「ほらほら黒薔薇の姫ちゃん、こっち来て遊ぼうよ」

「嫌です」

 今度はちゃんと拒否が出来た。

「そんな事言わずにさ、ねぇ」

「嫌なものは嫌です」

 遣り取りは録画されている。それでも、やはり背中を這う恐怖や嫌悪は拭えない。ジリジリと寄ってくる三人から、その背に隠してくれる翔利だけが頼りだ。背中越しに見るその横顔が、今にも爆発しそうなほど怒っていた。

「翔利、ダメだからね。皆が来るまで」

「分かってるよっ」

 唸る様に答える翔利の喉がグッと音を立てた。

 こんな時に、とも思うけれど、やっぱりトクトクと高鳴る鼓動は止められなくて。

 ――今、だけ。少しだけだから。

 と、後ろから背中のシャツを引っ張った。

 どこか遠くから数人の足音がする。その瞬間、翔利はポケットから銀色のホイッスルを取り出すと素早く吹いた。

 生徒会役員が持つ、自分の居場所を知らせる、澄んだ真っ直ぐな音。

「翔利!」

「遅い! 書類はっ」

 大きく一喝して、そのまま三人から視線を離さずに、駆け寄って来た役員に手を差し出した。その差し出された手に数枚の書類が乗る。

「同じ中三生ね。考えなしのバカな受験生もいるんだな」

 辛辣な翔利の物言いに、再び三人が気色ばんだ。

「なっ!」

 そこへ涼花ちゃんに連れられた校長先生たちがやって来る。

「黒井さん、無事ですか?」

「は…い……」

 穏やかな声で校長先生に問われて初めて、未だ緊張感に体が強張っていた事に気付いた。すんなり返したはずの声は擦れ、喉に貼り付いたみたいに上手く出て来ない。

「学校にすぐ連絡。どういう意味か分かるな?」

 そんな校長先生と私の遣り取りをチラリと横目で確認し、翔利は三人に改めて向き合った。

「俺たちは、その子に連れて来られただけです」

「校内を案内してほしかっただけなのに」

 事の重大さに気付き始めたのか、苦しい言い訳が始まった。

 翔利はそんな彼らの前に、銀色の小型機械を差し出し、そのまま中央のボタンを押した。

『ほらほら黒薔薇の姫ちゃん、こっち来て遊ぼうよ』

『嫌です』

『そんな事言わずにさ、ねぇ』

『嫌なものは嫌です』

 三人の内の誰かがヒュッと息を飲んだ音が聞こえた。

「さて、君たち三人には少しお話を伺いたいので、来ていただきましょう。黒井さんは明日。宜しいですか」

「はい」

「では、まずはここから出ましょう。弓削くん、最後に施錠の確認をお願いしますね」

 有無を言わせない雰囲気で校長先生が先に立つ。

「では、後は頼みましたよ。生徒会長諸君」

(諸君?)

 三人と、駆け付けた生徒会役員達を連れて歩き出した校長先生の背後には、まだ人が立っていた。

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