せんぐり  せんぐり

りんこ

第1話

ちらほらと、雨がみぞれになってきた。

正月を過ぎてからは、天気の悪い日が続いている。

今年は暖冬になると言っていたのに、いつもよりも寒いくらいだ。夜は寒くて凍えてしまう。

すべりこんだ電車の中は暖房が効いていた。凍りそうだった手の指の感覚が少しずつほどけていく。

斎藤のことが頭から離れないままに、足元の温かい電車に揺られた。

実家から家まで三駅。斎藤のことを考えていたらうっかり乗り過ごしてしまった。

脳が膿んでしまったかのようにうまく状況を整理できない。乗り過ごしたと気づいて、反対方向の電車に乗ってという不毛な行動を繰り返していた。

反対方向の電車を待つホームでスマホが震えた。母からのラインだった

『明日、やっぱり、ママも一緒に行こうか?』

そうしてくれるとありがたいような、そうまでされると困るような、自分の意思さえわからなくなる。

『ううん、大丈夫、一人で行ってみる ありがとう」

思考が絡まってほどけなくて、その奥にあるものが何なのかもわからなくなる。

一体、どんな顔をして斎藤と会ったらいいのか。

いくら考えても不明なままに、美咲はやっと自宅最寄りの駅にたどり着き、電車を降りた。

みぞれは、本格的な雪へと変わっていた。


美咲と約五年を共にし、同棲までしていた斎藤一と別れたのは、夏が終わり、秋の気配のする風の吹いた三か月と少し前の話だ。

美咲の家族は仲がいい。斎藤も美咲の家族と仲が良く、たまに皆で食事をしに行ったりしていたので別れたことはきちんと家族に報告をしておいた。

両親のそろった四人家族。年の離れた姉との二人姉妹で母はずっと保険の外交員をしている。

建設会社に勤める父は単身赴任が多く、あまり家にいない人だが、たまに会う斎藤のことを気に入っていたらしく、別れた報告をラインでしたときには、『さみしい』と泣くウサギのスタンプが送られてきた。

美咲の家は都心からほど近い閑静な住宅街にある。実家は一昨年、大規模なリフォームをして新築同然になった。

両親には孫が二人いる。姉の子二人は上が小学生の女の子で下の子が年長さんの男の子だ。

リフォームのきっかけは姉の離婚だった。今、実家には、姉と姉の子、母の四人が暮らしている。

美咲は今年三十歳を迎え、姉が二人目の子を産んだ歳を越えていた。

仕事は充実しているし、良い三十代を迎えられたと自負している(いささか特殊な仕事ではあるが)

斎藤一(まるで区役所の記帳見本になりそうな名だ)と離れてから、いなくなった空虚を埋めるために、インスタなどで疎遠だった昔の知り合いと連絡を取るようになり、今年は四年ぶりに学生時代の友人とカウントダウンライブに行ったりもした。

斎藤と別れてから美咲に恋人はいない。いまは恋人をつくろうなどとは考えられない。同年代のたちが結婚し、子供を産む中で、美咲は一生おひとりさまでもいいかもしれないと考えていた。自由を謳歌できるし、気楽だ。

美咲は生理休暇で、一か月ぶりに実家に遊び来ていた。丁度、日曜で姉も母も仕事が休みだったので、姉家族とさっきまで近くのショッピングモールの中にある映画館に行き、姉の子供たちと四人でアニメ映画を観てきた。

子供向けアニメ映画と言ってもあなどれない。最近の子供向け映画は、親をも退屈させないようにうまくできているのだなぁと感心してしまった。

「みーちゃん、最近、斎藤くんと連絡取ったりした?」

母が料理をしている横でなにかつまめるものはないかと冷蔵庫を覗いていたら母から斎藤という単語が飛び出し、心臓が不穏な音を立てた。

台所のテーブルには出来立てのナムルが置いてある。母の作る甘辛いタレに浸かったチャプチェやナムルは美味しい。母の作る料理は、最近、いつも韓国風だ。(韓国映画やドラマにハマって、何度か職場の友人と渡韓しているからだと思われる)

「斎藤くんって、はじめちゃん……?」

「うん、そう、さいとうはじめくん」

「あぁ、だよね、いや、全然。別れてからは全く連絡取ってないよ、なんで?」

「そうかぁ……ううん、なら、いいの、なんでもない」

母は、もうすぐ還暦になるというのにまだ四十代後半に見える。おっとりしていて色白で美人だ。

体毛が薄いせいか、肌が白いせいか、太っていないせいか、熟女として売り出しても売れるんだろうな。なんて、娘らしからぬことを考えてしまう。

美咲も母に似たおかげで、体毛が薄く整った顔をしている。おかげで整形せずとも、客の受けはいい(幼い頃、歯並びだけは矯正したが)

美咲は都心にある風俗店『女王』でソープ嬢として働いている。

もちろん家族には内緒だし、同業の友人以外にも秘密にしている。

短大時代の同級生が、スカウトに紹介されたソープでバイトをしていて、他の人より贅沢をしているのを見ていたらうらやましくなり、さして深く考えずにその世界に飛び込んだ。

知らない人と身体を重ねることに、はじめはやはり抵抗があったが、やった分だけ見返りがもらえることで感覚が麻痺していった。

時給の安い普通のバイトが色あせて見えてしまい、就活もうまくいかなかったので、そのままその世界に居ついた。あれから十年。まだそこから抜けだすきっかけを見つけられずにいる。

『世の中は結局ね、お金がないとなにもできなのよ』と小さい頃、守銭奴の祖母に教えられて育ったおかげか、美咲にはソープ嬢としての素質がすでに形成されていたようだった。


幼い頃近所に住んでいて美咲の初恋の人だった斎藤とは、美咲の勤める総額三万円の中級ソープ店『女王』にて、客と嬢として再会した。

オカルト漫画の雑誌で賞を獲った斎藤が、編集長に実はまだ童貞なのだと冗談交じりに話したら、『女王』に連れてこられたそうだ。

斎藤は美咲の三歳年上。美咲が小学校三年生の頃、集団登校で一緒のお兄さんだった。斎藤は家の事情で関西から越してきた転校生で、美咲の知る限り斎藤に友人はいなかった。

いつも漫画を描いていて、口数が少なく、描いている漫画も少年漫画ではなく万人受けしないオカルト漫画だったから気味悪がられていたのだろう。『斎藤菌』とか『斎藤菌バリアー』とか言われ、からかわれている斎藤を何度か学校内で見かけた。

美咲は他の上級生のことはおかまいなしに斎藤の描く漫画を読むことを毎日の楽しみとしていた。

斎藤は放課後になると、美咲にいつも落書き帳に鉛筆で描かれた『日刊オカルト』という自作の雑誌を読ませてくれていた。

そこには、斎藤の描いた漫画が連載形式で三本載っていた。

美咲は漫画が好きだったし、斎藤自身に恋をしていた。斎藤の描く漫画は純粋に面白かったし斎藤は美咲には普通に話してくれて優しかった。放課後、斎藤と公園で待ち合わせる時間がいつも待ち遠しくて、うきうきしていた。

斎藤は一人っ子だから美咲を妹のように思っていてくれたのかもしれないが美咲にとっては、れっきとした初恋だった。

神戸から来た斎藤が家の都合で同じ町内に住んでいたのはたったの一年だけだ。

中学にあがるときには再び神戸に戻ってしまった。

斎藤はそれからもずっと漫画を描き続けていたらしく、漫画の専門学校に行くために上京し、地道に漫画家のアシスタントなどを続けバイトに明け暮れながら、やっと漫画誌の賞を獲ることができて読み切り作品でのデビューが決まった。

斎藤は、編集長に連れてこられた『女王』で出された写真を見て、(好みのタイプだな)と思って美咲を指名したのだがそれがまさかのビンゴで知り合いだったというなかなか現実には聞かない稀有な再会を二人は果たした。

斎藤の見た目は小学校のときからあまり変わっていなかった。黒縁眼鏡をかけていて髪が黒く、肌は白く、背が高い。

美咲は指名してくれた客が成長した斎藤だとすぐにわかってしまった。斎藤は小学校のときと変わらず、チェックのシャツをズボンにインして着ていた。(小学校の頃は半ズボンだったが)

斎藤を迎えた途端、美咲の心臓は大きく音を立てた。胸に強い衝撃波を持つ空砲を打たれたかのように動揺した。

「あ、えっと、こ、こんにちは、いらっしゃいませ」

美咲の顔を見て、斎藤もすぐに気が付いたようだった。

「あ、えぇ! う、うそ!」

「あはは、ひ、ひさしぶり~」

まさかの初ソープで美咲を指名してしまったことに斎藤も激しく動揺していた。

二人で部屋に入ったはいいが、斎藤の目は終始泳ぎまくり、裸になることをも拒否し、結局なにもできずに話だけして終わった。

互いに気まずく、会話もちぐはぐで、美咲も接客のリズムを崩してしまったし、ずっと、動揺したままで、大好きだった人と、こんな場所で再会してしまったことを悲しく思った。

斎藤は「可愛い子だなと思ったんやけど、まさか、みーちゃんだとは思わなかったんよ、ごめんな」と何度も謝り、ソープランドというか、風俗に来たのすら今日が初めてだったのだと、事の成り行きを説明してくれていたが、『女王』で再会してしまったことは取り消せない事実だ。

好きだった人に、ソープ嬢になっていたことがばれてしまった。

斎藤を見送った後、美咲は落ち込んだ。なにもしなかったし、謝られたし、連絡先も聞かれなかったから、せっかくまた会えたのに、多分もう軽蔑されて二度と会えないのだろうと思った。

もっと、別のところで会いたかった。斎藤と再会し、美咲の心の奥底に斎藤一が巣食っていたことに気が付いた。

ああ、きっとさぞかしヤリマンになったのだと思われてしまったことだろう。

美咲は心を痛めた。動揺した心臓の鼓動は、しばらく振り子のようにカチカチと大きく動き、臓腑が浮いているような感じがした。

しかし、そういう縁だったんだ。それでよかったんだ。と、美咲は斎藤との再会を忘れようと目をつむり歯を食いしばり気持ちを切り替えた。神様は時に残酷だと嘆息をつきながら斎藤が帰った後の部屋を片付け、斎藤との日々を思い出していた。

斎藤が小学校を卒業し神戸に戻る少し前、美咲は、いつも斎藤と遊んでいた近所の公園で変態に遭った。

「いつものお兄ちゃんがあっちで呼んでいるよ」と、汚い、こじきみたいなおじさんに、無理やり人気のないところに連れて行かれ、身体をまさぐられ、危うく消えない傷を負うところだった。

いつもの場所にいなかった美咲を必死に探して助けてくれたのは斎藤だった。

「みーちゃん!? どこにいるの?」

おじさんがズボンのチャックを開けて臭いペニスを美咲の顔に近づけた瞬間、斎藤の大きな声が聞こえた。

「はじめちゃん! 助けて」

恐怖で何が何だかわからず声を発せず固まっていた美咲は、斎藤の声が聞こえた瞬間に泣きそうになって大きく叫んだ。

おじさんは斎藤の声と気配に驚き、ズボンをあげて、転びそうになりながら走って逃げた。

助けに来てくれた斎藤がヒーローに見えた。息を切らして現れた斎藤が輝いて見えた。

「みーちゃん、怖かったな、もう大丈夫だからな」

斎藤の言葉に安心して、どっと、蛇口から水があふれるように泣いてしまった。臭い蛇みたいなペニスはものすごく怖かった。泣いている頭を優しく撫でてくれた斎藤の掌のぬくもりは、その後の美咲を強く、思慮深くさせてくれた。泣き止むまで斎藤はそばにいてずっと、美咲を慰めてくれた。

「もう、絶対知らん人についていったりしたらあかんよ」と言われ、美咲は何度も頷いた。幸い、その日は母も仕事で遅く、姉も中学の行事でいなかったので、泣き顔を見られずに済んだ。だから美咲が変態に遭遇したことは斎藤しか知らない。誰にも言っていない。

斎藤が引っ越したあと、美咲は寂しくて人知れずお風呂場の湯船の中で何日も泣いた。多分、人生で一番泣いた時期だ。泣いた後は家族に顔を見られないようにすぐに寝た。

斎藤は神戸に帰る前日に、わら半紙に美咲の似顔絵と、『楽しかった♪ありがとう』と、メッセージを書いてくれたのだが、そこに新しい住所は書いていなかった。なので、引っ越した後、美咲から斎藤へ連絡の取りようはなかった。

四年生になって新学期が始まると、新しい日々が始まり、斎藤との日々は少しづつ淡い思い出と化して行った。

仕事が終わり、控室で着替えながら「今日、たまたま初恋の人が来たんだよね」と、話したら「まじ~?」「超、運命じゃん!」と、嬌声があがり控室が一気に盛り上がった。

「そんなことって本当にあるんだね! どうだった?」

「え、絶対嬉しいよね? もりあがっちゃうよね」と、浮かれた口調で聞かれた美咲は「まぁ、嬉しかったけど、なんか、変な感じだよね……エッチもできなかったし、向こうも気まずそうだったし、結局、連絡先も聞かれなかったし」と、自嘲気味に話した。

「……なるほど、それは確かに気まづいね……」と、華やいだ空気は一気に澱んで重くなった。

帰ってからも、美咲は嘆息ばかり吐いてしまった。『女王』ではなく他のところで会っていたら、なにかはじまっていたかもしれない。と考えながらあまり眠れない夜を過ごした。翌日、店に行くと「昨日の初来店のお客様がお待ちです」と、ボーイに言われ驚いた。

なんと斎藤は自腹で店に来て美咲を指名し、美咲の出勤を待合室で待っていた。

今度はあまりの嬉しさに、心臓が激しいビートを刻んだ。

再び斎藤を目にできた嬉しさを抑えきれなかった。口角がずっと上がってしまっていた。

出迎え、部屋に入ってすぐ、斎藤は息を整えながら言った。

「あの、誤解しないでな、そういうことをしたいんじゃなくて、昨日は、せっかくみーちゃんと再会できたのに、あの、なんか、とんちんかんやったから、連絡先を伝えるのも忘れていたし、みーちゃんに会えたの、めっちゃくちゃ嬉しくてな、今日、こうして会うまで、実はみーちゃんと会えたことは、自分の妄想だったのかと疑っていたくらいやったんよ」

「でも、はじめちゃん、わたしソープ嬢なんだよ? いいの? 軽蔑しないの?」

「そんなん、どんな仕事をしていても、みーちゃんは、みーちゃんや」斎藤は眼鏡の奥、優しくまなじりをさげ、純朴な少年のような台詞を言ってくれた。

嬉しすぎて、うっかり鼻の奥が痛くなった。変わってない斎藤の優しい言葉とあきらめていた二度目の再会は美咲の心に温かい光を灯した。光は頭の先から体の奥まで広がっていった。

斎藤はそんなかっこいいことを言いながらも、ものすごく顔を赤らめていた。頬に赤い模様ができ、耳まで赤く透けていた。

小学校の頃と同じようにシャツをいつもズボンにインしたままの地味な斎藤が可笑しかったし、可愛かった。心の底から愛おしいと思った。

その後は毎日頻繁にメールや電話をした。(斎藤はガラケーだったのでラインをやっていなかった)たわいのない話。コンビニで見つけた美味しいお菓子の写真。道でみつけた不細工な猫の写真。

斎藤とのやりとりは楽しく、幸せに満ちた日々が美咲に訪れた。

再会してから一週間の間、美咲が出勤する日は必ず店に通って会いに来てくれたが、誘ってみても斎藤は恥ずかしがって服を脱がなかった。手を握って話をするだけだった。

どう見ても貧乏そうな斎藤がこんなに店に頻繁に来て大丈夫なのだろうかと心配になって聞いたところ、実は『女王』に来るために斎藤が貯金を使い果たしていたことが判明し、美咲は店の外で会おうと提案した。

(実を言うと、今まで告白されてなんとなく付き合った男性は何人かいたが、本気で好きになったと言えるような人はいなかった)幼い頃のたった一年だったけれども美咲の中での『斎藤一』の存在は大きかった。斎藤と美咲が再会し、つき合うようになったのは、必然だったように思えた。

風呂無し安アパートに住んでいた斎藤に「はじめちゃんがよかったら、一緒に住まない? そしたらお金もかからないし、毎日一緒だし」と提案したのは美咲の方からだ。

斎藤は「えぇ! そ、そんな、ええの?」と、あたふたし、驚いていた。

「よくなかったら、言わんから」と、わざと関西弁で返すと斎藤は、初めて、ぎゅうと、美咲を抱きしめてくれた。

「みーちゃん、ありがとう」

斎藤の顔は真っ赤になっていて、手は震え、涙ぐんでいた。斎藤の胸の中は温かかった。

斎藤はすぐに美咲の住んでいるマンションに越してきた。もともと荷物は少なく、レンタカーを借り、すぐに引っ越しは終わった。

斎藤は酒もたばこもやらず、生活の為、コンビニとビルの清掃員のバイトをかけもちながら漫画を描いていて、真面目な苦学生のような生活をしていた。

斎藤と住むようになってからも、美咲は生活の為『女王』をやめなかった。斎藤も、美咲が『女王』に在籍し続けることに対しての異論を口に出さなかった。

やっと、身体の関係を持ったのは美咲の家に斎藤が越してきてからだ。(斎藤は、正真正銘の童貞で姦通するまでに何度か失敗したがなんだかそれすらも嬉しかった)家賃、光熱費、食費は美咲持ちだったので、斎藤はその分バイトの数を減らし漫画に専念することができたし、互いに良い関係を保てていると思えた。斎藤は帰宅すると温かいご飯を用意してくれていた。斎藤との同棲生活は今まで生きてきて一番と言えるほどに楽しい時間だった。

休みの日になれば近くの公園にピクニックに行ったり、美咲の実家に遊びに行ったり。美咲の家族と斎藤とで熱海に旅行に行ったこともある。斎藤はいつもスケッチブックを持っていて頼めばすらすらとなんでも器用に絵を描いてくれた。

姉の子たちも斎藤によく懐いていた。(サイトウと呼び捨てにされていたが)

斎藤の薄いいびき、度々発せられる意味のわからない寝言。(饅頭どっこい、いらっしゃい)と、はっきりと言われたときには、面白くて大いに笑った。

あまりに頻繁に寝言を言うので『はじめちゃん寝言帳』も作った。

起きて、サイドテーブルに置いた寝言帳を見るたびに、斎藤は「自分でもなんでこんなこと言ったのかまったく意味わからんわ~」と、笑っていた。

一緒に暮らし始めてからほとんど毎日同じベッドで眠り、そのぬくもりに安堵した。

共に毎日を過ごした五年は決して短くない。同棲をしたのも初めてだったし、いままで付き合った誰よりも濃密な時間を過ごした。二人でひとつで、斎藤は自分の半身なのだと本気で思った。

斎藤のいない日々を考えることなどできないほどに、斎藤と美咲はつがいだった。

斎藤は読み切りの掲載後、月刊誌で連載の仕事をもらっていたが、なかなか順位が上がらず打ち切りになってしまった。単行本も出すことは出せたが、あまり売れずにくすぶった。

そのうち、斎藤はスランプに陥り、描けなくなり、笑顔が減っていった。それでも美咲はなんとか斎藤を励まし続けた。斎藤の笑顔を取り戻してあげたくて必死になった。

斎藤ならいつか必ずスランプを脱出できると信じていた。

斎藤は美咲のヒーローで、運命の人だったはずだ。しかし、斎藤との幸せな日々はいつのまにか泡のように消えていた。


「ママ、なんで、急に、斎藤くんの話なんかしたのさ、やだなぁ、終わった話なのに、なんかいろいろ思い出しちゃった」

母が銀のボウルでこねたナムルはごま油を変えたようで、いつもよりさっぱりしていて、美味しい。

「いや、知らないなら、いいの、聞いてみただけだから、なんでもないから気にしないで」

「気にしないでって言われても……なんか気になるってば」

「そうよね、それはよくわかるんだけど」

「ねぇ、なんで、斎藤くんの話ししたの? どっかで会ったとか? なんかあったの?」

「それは……言えないのよ」

ゼンマイが腸にいいとテレビで聞いてから、母のナムルの比重がゼンマイに多く置かれるようになった。

母は、素直で隠し事がヘタだ。まあ、そこが誠実で可愛らしいとこではあるのだけれども。

しかし、聞き逃せない。気になってしまう。美咲の中の刑事が出動する。

「斎藤くん、保険のことでなんかあったの? 病気? それとも事故ったの?」

「……会社の規則で言えないのよ、何も聞いていないならいいの、もうやめて、ほんと、ごめん、ママが悪かった」

フライパンからじゅう、と、甘辛いたれと油と春雨と野菜の爆ぜる音。ばちばちと音が鳴って、換気扇に白い煙が吸い込まれていく。

会社の規則と母が言ってしまった時点で、斎藤になにかあったと白状したのと同じことだった。

母は、あきらかに焦っていた。口がぴくぴくと痙攣している。なんだかこれ以上追及するのは悪いような気がして、美咲は母に問うのを一旦やめようと思った。作戦を変更する。

斎藤は貧乏だったのに、母の勧めた月々2500円の掛け捨て保険に入ってくれていた。

保険使用の申請があったのは間違いない。それで、母は心配してくれているのだろうが、斎藤はもう、美咲にとっては過去の人だ。別れてから一度も連絡をとっていない。

もしかしたら斎藤には新しい彼女がいるかもしれないし、別れた美咲が斎藤を気にしてはいけない。

と、思いつつも気になって仕方がない。

「映画はどうだったの? よかった?」

「よかったよ、うまくできてたよ、お姉ちゃんがぼろ泣きしてたよ」

「お姉ちゃんは涙もろいからなぁ、国語の授業で、ごんぎつね音読したら、泣き止まなくなっちゃって、ママとみーちゃんで学校にお迎えに行ったことあったよね」

「ああ、あったね、わたし、ちっちゃかったけど、覚えてるよ」

「みーちゃんは、反対に全然泣かない子だったよね」

母は知らないのだ。美咲が人知れず流した涙の数を。

(みーちゃんは本当に泣かない子ね、えらいね)と、小さい頃、母に褒められていたことが美咲の性格の芯に強く根付いているのだろう。

あまりに泣かないので、今まで付き合った斎藤以外の男には『可愛げがない』とか、『心が冷たい』と、何度も言われた。

「みーちゃん、あ、チヂミ作るの手伝って、あの子たち食べ盛りだからさ、ちょっと多めに作ろうかな、パパがまた海鮮送ってくれたし」

「いいよ、じゃあ、ホットプレートだしてくる?」

「そうね、こっちだと狭いから、向こうのテーブルで焼いたほうがいいね」

「じゃあ、タネだけ作って、リビングに行ってみんなで焼こうよ」

「そうね、そうしよ、そうしよ」

「おばあちゃん、お腹空いたー!」

と、子供たちの声が、リビングから聞こえた。父は、現在、仙台に単身赴任をしているので、新鮮な魚介類がたくさん送られてくる。

小麦粉と卵でタネをつくり出汁を入れて大きな海老や、キムチとニラと玉ねぎを混ぜ、リビングに運んだ。

「みーちゃん、なに? ホットケーキ焼くの?」

「違うよ、チヂミだよ」

「やった、ちぢみ!」

姉の娘たちも母の作る料理が好きだった。

お玉から具沢山なタネを流すと、温まったホットプレートから湯気があがり、クリーム色の液体が端から固まっていく。リビングに食欲をそそる匂いが広がっていく。

姉の横で、きゃあきゃあと騒ぐ子供たち。それを見ながら嬉しそうに、ご飯をよそう母。

きっと、どこにでもある、幸せな家族の風景。

姉は離婚し家に戻って来てから、母の勤める保険会社に就職した。ちょうど、定年で辞めた人がいて人手が足りなかったそうだ。

チヂミやチャプチェをたんまり食べたら腹がふくれて眠くなってしまった。

実家はリフォーム後、床暖房になったので暖かくて気持ちがいい。生理だから余計に眠いのかもしれない。寝ころびたいが、片付けないと。

「美咲、泊まっていけばいいのに」

と、姉に言われたが「いや、もう少ししたら帰るよ」と、眠い目をこすりながら、気合いを入れて立ち上がった。

子供たちは、仲良さげにソファに並び、姉の所有するタブレットで今日観たアニメ映画シリーズの他の作品を見ている。

リビングから移動し台所をのぞくと母がすでに洗い物をしていた。

「手伝うよ」

と、美咲が腕をまくると、母は「いいのよ、こんなの、ちゃちゃっと、終わるから、そこで座ってお茶でも飲んでなさいよ」と、慣れた手つきで次々と洗い物をさばいていた。

確かに、余計なことをしても邪魔になるかもしれないなと、お言葉に甘え、美咲は台所の椅子に座り茶をいれて飲んだ。

「ねえ、ママ、斎藤くんの話、もう、美咲に言ったの?」

美咲がいることに気が付かず姉が台所に来て母に話しかけた。テーブルで茶を飲む美咲をみつけた姉は「ひぃ!」と、漫画みたいなリアクションをした。

「ちょっと、美咲、気配消さないでよ! まじびっくりした」

「ってか、消してないし、ひぃ! てなによ、漫画じゃないんだからさ!」

姉のリアクションが可笑しくて、美咲が、思わず茶を噴出したのを皮切りに親子三人で腹をかかえて笑ってしまった。

「もう、あなたたち、やめてよ、ほんと」

「ママ、相当ゲラだからね」

「いや、美咲もかなりのゲラだよ、普通、お茶ふかないから」

「まじ、コーラじゃなくてよかったわー」

「コーラは、鼻痛いし、べとつくしキツイね」

笑い声はしばらく止まなかった。が、笑い疲れ、しばしの静寂が訪れた。母はまだ、洗い物をしている。ふー、と、姉も茶を入れて美咲の横に座った。

玄関のチャイムが鳴って、インターフォンのカメラを見たら近所に住む母の友人がアップになって映っていた。

『こんばんわー、あのね、おすそ分け持ってきたの』

「ああ、はい、いま行きますね~」

母は、タオルで手を拭き、玄関先に向かいながら、「洗い物このままでいいからね、ママがあとでやっちゃうから」

と、姉と美咲に念を押して玄関へ向かった

「はーい」と言いながらも、姉と二人で洗い場に立って母の代わりに洗い物の続きをした。

蛇口からでてくる湯は温かくて気持ちがいい。

「お姉ちゃんも知ってたんだね、斎藤くんの話」

「ああ、やっぱりもう聞いていたのか、なんかさ、ほんと……びっくりだよね」

「うん、びっくりした」

「わたし、斎藤くんと美咲は結婚するものだと思ってたから、なんか、ショックだったわ」

よっしゃ、姉。よくぞひっかかってくれた。と、美咲は心の中でガッツポーズを決めつつ平静をよそいながら話を続けた。

斎藤と別れた理由は、複雑だ。しかし、一番の理由はあのとき、美咲が正直に言わなかった大事なことの歪が徐々に大きくなり、繋いでいた手に亀裂が入り取り返しのつかないところまで行ってしまったからだと思う。

決して、互いに嫌いになって別れたわけではなかった。多分。まだ愛し合っていた。

けれども、ただタイミングが悪かったのだ。美咲は意固地になってしまったし、優しい斎藤は美咲にしがみつこうとはしなかった。

「病院にお見舞い行くの?」

姉に聞かれ、入院しているのか。と、悟った。美咲はそのまま、姉を誘導した。

「うん、近いうちに行こうと思ってる」

「そうだよね、斎藤くんも喜ぶと思うよ、美咲と別れたあと、狭いアパートで一人暮らしだったみたいだし、お母さんが会ったとき、はっきりとは言わなかったみたいだけど美咲に会いたがっていたみたいだよ、やっぱりさ、わかんないけど、最期は、好きな人に看取ってもらいたいんじゃないかな」

最期……?

耳に滑り込んできた言葉に驚き、うっかり手を滑らせ、シンクの中で皿を割ってしまった。

「やだ、美咲大丈夫? ああ、お皿、まっぷたつ、怪我無い?」

ねぇ、最期って言った? いま。

美咲の目の前が靄のかかったように白んだ。割れた皿を捨ててくれている姉の声が水の中で聞こえているような気がした。

「ごめん……お姉ちゃん、ありがと、あのさ、さっき、ママに詳しく聞き忘れちゃったんだけど、その、斎藤くんが入院した原因ってなんだったの?」

「原因? 原因はわたしもよくわからないけど、とにかく、みつかりにくいし、珍しいがんなんだってね、調子悪くなって病院に行ったときにはもう末期だったっていうから、しいて原因っていうものはないんじゃないかな? 若いから進行も早いし、転移が進んで手術はできないし、抗がん剤治療も死期を早めるだけな気がするからどうなのかなぁって、お母さんは言ってけど」

癌。斎藤は、がんなのか。

「そうだよね、えっと、なんて名前のがんなんだっけ?」

「たしか、胸線がんって、聞いたけど、わたしもそこまで詳しくは聞いてないからなぁ」

知らない名前だった。わからない。

胸線がんが、一体どこの病気なのか。どれくらいの生存率なのか。わからない。

「ねぇ、ラスクくださったから、みんなで食べよ、ホワイトチョコのやつ、みんな好きでしょ~これ」

無邪気な母の声が聞こえてくる。

洗い物を終えた瞬間、眩暈がして立っていられなくなり、腰の力が抜け、椅子に座り呆然としてしまった。

ラスクを持った母が台所に入ってきた。

「あら、みーちゃん、大丈夫? 調子悪いの? なんだか顔色が悪いわ」

「……うん、生理だから、多分貧血、あとお皿割っちゃった、ごめん」

「あら、いいわよ、お皿いっぱいあるし、怪我無い? 生理なの? 痛み止めあるけど、飲む?」

「うん、痛いのは大丈夫、ありがと」

綺麗に磨かれた台所をみて母は「あらあら、お台所がすごく綺麗になってる! 二人ともありがとうね」と、穏やかな笑顔を見せた。

「ママ」

美咲が言うのと、リビングで子供たちが「ママー」と、姉を呼ぶ声が重なった。

姉は手を拭きながら「なあにー?」と、子供たちの方へと向かって行った。

台所に母と二人きりになった途端。しんと、台所が海に沈んだ部屋のように静かに感じられた

「きょうせんがんって、どこのがんなの? 斎藤くん、どこに入院してるの? 長くないの?」

母の笑った顔が、ゆっくりと神妙な面持ちになり、静かに美咲の手をとった。細くて、皮が柔らかい。懐かしい母の手だった。

「……胸の奥にある臓器なんだけど、脳やリンパや骨にも転移が進んで……来年、春になるまで持つかわからないって」

「そんなにひどいんだ」

母は、無言で頷き、目じりに溜まった涙を拭いて鼻をすすっている。

そういえば、斎藤はよく鼻血を出していた。一緒に暮らした四年間で、何度も風邪をひいていたし、急性胃腸炎と腎盂腎炎になって二回も救急車を呼んだことがある。

そのたびに、美咲は心配しながらも斎藤に声を荒げ怒った。

「お願いだからもっと健康に気を使ってよ、はじめちゃん、こんなんじゃ病弱で頼りないよ? 心配だよ」美咲自身は健康に気を使い週に三回はジムにも通っていたし、職業柄、毎月の検査は欠かさなかった。年に一度は必ず健康診断を受けていた。

だからこそ、斎藤にも気を使ってほしかったのに、徹夜で原稿を描くのは当たり前、集中しすぎて美咲が帰宅するまでご飯を食べていないことも多々あった。健康に対する意識の低すぎる斎藤に苛立つことは何度もあった。

どんなに美咲が機嫌を悪くし怒って声を荒げようとも、斎藤はいつだって美咲に優しかったし、怒っている美咲を笑わそうとしてくれた。鼻にティシュをつめ「ごめんごめん」と言う斎藤の顔はまぬけでおかしくて、結局いつも美咲が笑ってしまい仲直りするのはお決まりのパターンだった。

「斎藤くん、どこに入院しているの?」

「市立病院」

「誰も、付き添ってないの?」

「うん。みーちゃんと別れてから、ずっと一人だったみたい。斎藤くんのお父さんはね、ここ最近で痴呆が進んでしまって、地元の施設にいるんだって」

「え? だってお父さんまだ若いよね? 七十歳くらいだったよ」

「そうね、でも七十歳くらいで痴呆になる方も多いみたいよ、特に、斎藤くんのお父さんは、今まで色々ご苦労なさっていたみたいだし」

 斎藤の地元の神戸には、二年ほど前に、一度だけ連れて行ってもらったことがあった。

そのころはまだ斎藤のお父さんは元気そうだった。一緒に串カツを食べに行き、お土産に神戸プリンを持たせてくれて「これからも一をよろしくね」と、斎藤によく似た優しい笑顔で言ってくれた。

斎藤は幼い頃母親を亡くし父子家庭で育った。(父親は海外出張の多い仕事だったらしく、治安のあまりよくない国に行かなければならなかったときに、親戚に預けられて東京に来ていたらしい)

それからは斎藤にお父さんから電話が来るたびに、『美咲さんはげんきにしとるのか』と、聞いてくれていた。あの優しいお父さんが痴呆で施設にいるのかと思ったら、眉根が寄って、目の奥が痛んだ。

そういえば、最近、斎藤からお父さんの話を聞いていなかった。

斎藤はきっと美咲に心配をかけまいとしてくれていたのだろう。

「斎藤くんね、みーちゃんに会いたそうだった、でも、ママは、みーちゃんに任せる、今のみーちゃんの生活もあるんだし」

信じられない。という思いと同時に、『後悔』という黒いコールタールのようなものに身体を乗っ取られてしまいそうだった。

反省はするけど後悔はしない。そんな名言を自分の言葉のように思って偉そうに言っていたこともあったのに。『後悔』で背中が重い。何か見えないものに覆われているみたいだ。

果たして、死期の迫った斎藤に会ってなにをしてあげることができるのだろうか。

先が無い。終わりが近づいている斎藤と、どんな顔をして会ったらいいのだろうか。

あんなひどい別れ方をしたのに、会いたそうだったなんて、本当に?

会いに行けば後悔するだろう。でも、行かないときっともっと後悔する。

「うん……行く……明日、休みだから、行く」

言うと母の温かい手が、そっと美咲の手を撫でた。

母の手はいつも温かく、ほんのりと湿っている。心が冷たい人の手は温かいなんて嘘だと、美咲は母のぬくもりを感じるたびに思う。

「本当に大丈夫?」

「会いに行くのがいいことなのかどうかはわからないけど、そうしないと多分……いや、暗くなるからこの話やめよ。大丈夫だから、ママ、なんでママが泣くのよ、ほら、笑って」

母の目から涙がぽろぽろとこぼれていた。美咲は母の手を握って振った。

「ほら、笑って、元気出して、斎藤くんなら平気だよ、あの人、案外しぶといんだから、簡単に死んだりしないよ、さてじゃあ、そろそろ帰るかな」

「……明日、ママも一緒に行こうか?」

「ううん、大丈夫だってば、ママは、ほんと超過保護」

「だって、心配なんだもん、みーちゃんだけで本当に平気?」

「へいきだよ、もうわたし三十歳だよ? 子供じゃないんだから」

じゃあ、と、母は斎藤の入院している病棟と、部屋番号と面会時間を紙に書いてくれた。

母は、綺麗な容姿に反して字が汚い。

「これ、なんて書いてあるの? 0? 6? 」

「6よ、516号室」

「本当?」

「本当よ、多分」

「多分って」

「いや、516よ、絶対」

「わかった、信じる」

「うん、みーちゃん、ありがとうね」

「なんで、ママがありがとうなのよ、変なの~」

美咲は、おどけながら、母の書いてくれた紙をバッグに入れて、実家を後にした。



正直、信じられなかったし、なにも考えたくなかった。

夢だったらいいのに、夢のような手触りは感じられない。そんなわけで、何度も電車を乗り過ごしてしまった。

『後悔』に乗っ取られた身体は重くて、自分のものではないような気がしていた。

電車を降りて自宅マンションまでの帰り道、ふりそそぐ雪を受けながら早足で歩き、スマホを開く。

 思考を止まらせ、無意味な時間を流していくように、そこまで親しくもない友人たちのインスタグラムをチェックして、たまっていたラインをチェックする。

『女王会』と題された同年代の店の子たちで形成されたグループラインを開くとたわいのない会話が羅列されていた。

『新しく入った女の子、すんごいボインちゃんだよ~』

『ってか、ボインちゃんて、死語ですよ~ ウケる』

『まじ、客のラインうざくて死にそうなんですけど……どうしたらいいんだろう』

『本当にしんどい客は逆に切っちゃった方がいいよ、自分もつらくなるよ』

美咲と同期の水原が、後輩に的確なアドバイスをしていた。

確かに、どんなに金になっても、心が壊れてしまったら元も子もない。

美咲も、水原の意見に同調し『うんうん』と頷くクマのスタンプを押した。

店のホームページで新人の女の子の写真をチェックする。確かに痩せ型で胸もあまりない美咲とボインちゃんの体つきは対照的だった。

最近入店してくる若い女の子たちは足が長くて胸の大きい子が多い。これも欧米の食生活の影響なのだろうか。

雪が、大きい粒になってきた。靴が防水ではなかったので、冷たい雪が浸みて足の先が冷えた。美咲は早足でマンションまで駆けた。

マンションは斎藤と同棲していたころから変えていない。斎藤の使っていた部屋は物置同然になっている。

部屋に入り、なんとなく斎藤の欠片を探してしまう。コップも茶碗もない。別れたときに処分したのに、もしかしたら忘れているものがあるかもしれないと、美咲はぼんやりとした頭のまま部屋の隅々を探した。

暖房をつけずにいたら背筋に悪寒が走り鼻水と一緒に大きなくしゃみがでた。

手先が冷えて感覚がなくなってきていたことに気が付き、暖房をつけ風呂にあたたかい湯をためた。

服を脱ぎ、あたたかい湯につかると固まっていた身体が湯に溶けていき背中の重さが消えていった。バスタブの横に置いてある、緑色をしたゴム製のカエル人形と目が合う。

あぁ、そうだ、このカエルは二人で買ったんだっけ。

斎藤個人のものは処分したけれども、一緒に買ったものはまだ置いてあるものがいくつかあった。

美咲はカエルの人形を手に取って匂いを嗅ぐ。

ゴムと塗料の匂いがする。

記憶の中、風呂場で人形を持って遊んでいた斎藤の笑顔がちらついた。

だからといって涙は出ない。ただ、ものすごく疲弊した気持ちになっていた。

美咲は、風呂に潜り大きくぶくぶくと息を吐き苦しくて耐えられなくなるまで沈み続けた。

もうだめだ。と思うまで我慢し顔をあげて思い切り息を吸ったら幾分か気持ちが落ち着いた。

茶色く染められた長い髪の毛から、水滴が滴り落ちる。

静寂は、ときに暴力的なまでの孤独を刻む。


『516』号室は六人部屋で、元気そうな若者が見舞いに来ていた仲間と談笑していて、老人はテレビを観ていた。入り口に斎藤と言うネームプレートはかかっていなかった。

美咲の思った通り一番奥の部屋。『510』に『サイトウハジメ』の名前があった。

母は、大体、6と0を書き違える。勢い余って、線が突き出てしまうのだろう。

病院全体に、消毒液の匂いが濃く薫っていた。

『510』は、『516』と違い、静かで空気が澱んでいる感じがした。

なかなか部屋に入る勇気が出なかった。買ってきた土産の袋の持ち手を握り、しばらく俯いていたが意を決し部屋を覗いた。

斎藤は、窓際の一番端のベッドで寝ていた。

頭に帽子をかぶっていて、鼻にチューブをさしている。

寝ている斎藤の横にあるサイドテーブルには、見覚えのあるスケッチブックとペンが置かれている。

美咲は、ゆっくりと部屋に入り斎藤をじっと見た。

痩せていた。前から痩せていたけれども、もっと痩せていた。頬がこけて、彫が深くなっている。

眉がなくなっていて、斎藤の標本を造りかけているよう人形のように思えた。

「はじめちゃん」

美咲が小さく声をかけると、うっすらと目が開いた。

「……」

無言だった。

「おーい」

美咲は、風呂場から持ってきたカエルの人形の腹を押し、キュウと、斎藤の顔の前で音を鳴らした。

「ん……みーちゃん?」

「そうだよ」

「……みーちゃんが見えとるってことは、死んだんかな? おれ」

「馬鹿だね、生きてるよ、お見舞いに来たの」

美咲が言うと斎藤は、寝たまま、ふふ。と、薄く笑った。

「なんか、食べられる?」

「うん、いまは、お腹空いてる」

「じゃあ、はじめちゃんの好きな、ショートケーキを買ってきたから一緒に食べよう」

「まじですか」

「まじ、まじ、三軒コンビニ回ってね、やっとあったんだよ」

斎藤は、コンビニのショートケーキが好きだった。高いケーキ屋さんのよりも、スポンジが少なくてうまいんだな。と、いつか熱弁していた。

「めっちゃうれしいわ」

斎藤の声はかすれていて、起き上がるのがしんどそうだったので、美咲が介助し、ベッドごと起した。

パジャマの上から背中をさわってもわかるほどに骨ばっている。

美咲の心は不思議と凪いでいた。

斎藤は、見た目以外、別れる前と何も変わっていないように思える。

「やっぱり、うまい」

と、小さなプラスティックのスプーンでゆっくり一口ケーキを食べて、入れ物をテーブルに置いた。

「もったいないから、またあとで食べようかな」

口がまずい、味がしないと、美咲が高校生の頃に亡くなった祖母が入院していたときに言っていた言葉を思い出した。

もしかしたら、斎藤も本当は味覚が正常ではなくなっているのかもしれない。

「みーちゃん、今日は仕事休みなん?」

「うん、休み」

「そっか、最近、調子はどう?」

「なんも変んないよ、でも正月は久々にカウントダウンに行った」

「なんや、リアルに充実している人やん」

「まぁね、なにげにリアみつるだよ」

「それ、前に俺がリア充をリアルに間違えたやつやん、なんや、みつるって、誰やねん、しつこいわ」

あまり大きな声で笑えないので、こらえながら肩を震わせた。時間が巻き戻ったみたいに思えた。斎藤は、見た目はオタク系でさえない男子だが、美咲の笑いのツボを心得ていた。

「おやおや、かーたん、ひさしぶりやな」

美咲の持ってきたカエルの人形に向かって斎藤が話しかける。

「はぁい、ひさしぶり」

美咲が声を高く変えて返事をすると斎藤が笑った。

「かーたん、そんな声ちゃうし」

「どんなん?」

「おう、ひさしぶりやなっ! て、こんなんじゃ」

「ドスがききすぎて可愛くないし。親分みたいじゃんか」

「そうやで、親分なんよ、かーたんは、カエル組、カータン一家のオヤジなんじゃ」

「こんなつぶらな瞳をしているのに? ってか、カエル組って保育園みたいじゃん」

「カータンは、カエル組の組長さんなんやで」

「ほんと、はじめちゃんは頭ん中、妄想ばっか、うちの姪っ子たちより子供みたい」

「俺、子供のときから変わってないねん、多分、頭ん中、ずっと保育園児よ」

「アダルトチルドレンか」

「いや、ちょっとちがうんよ、大人になれなかった子供言うてな……」

「一緒じゃんか」

やせ細り帽子をかぶった斎藤は、美咲を笑わせるようなことしか話さなかった。

一体、自分がどんな状態で、今後どうなっていくのか、美咲に話そうとしなかった。

美咲も聞かなかった。

ただ、骨ばった斎藤の横で、斎藤と話しながら笑っていた。

「あ、みーちゃん、あれや、すまん、そろそろ回診の時間や、ここな、ほんまに白い巨塔の財前先生たちみたいなんが来るんよ」

「それ、ぜったいうそでしょ、でもそっか、あ、ごめん、もうこんな時間か」

気が付くと陽が落ちるまで話していた。外が暗くなっている。時間が経つのがあっという間で驚いた。

元気そうで、よかった。とはとても言えなかった。きっと、無理をして話してくれているのであろうことは、美咲にもよくわかった。

「みーちゃん」

骨ばった顔の斎藤が美咲を見つめた。

「来てくれて、ありがとう」

言われて、言葉が詰まる。『ありがとう』の懐かしいアクセント。まだ、別れていなかった頃に戻ったような気がしていた。別れた恋人なのに昨日まで、同じ家に一緒に居たような錯覚に陥ってしまう。

「また、来ていい?」

美咲が言うと、斎藤は申し訳なさそうに、美咲の手の甲に自分の掌を重ねた。

ひんたりと冷たい手の中に微かな体温を感じた。

「来てくれるの?」

「はじめちゃんが、嫌じゃなければ。わたし番号も変ってないから、はじめちゃん都合悪いときは、事前に言ってくれれば来ないし、メールでもいいし、あ、ラインやってる? ラインの方がいい?」

美咲が言うと、斎藤は歯を見せて、にやりと笑った。歯茎もやせていた。

「ってか、俺、まだガラケーやねん」

「そうか、ってか、まだガラケーって、まじ? しかも、何で自慢げ? うけるんだけど」

「そうやねん、スマホにしてラインをやったら、もう負けやと思っとるからな」

ぷっと、思わず美咲はふきだして笑ってしまった。

「なにと闘っているのさ」

「ほんまやで、いや、そんでな、メールはな、右手がちょっとうまく動かんようになってきてな、文字、打つのがちょいと難儀なんよ」

「そうか、じゃあ、無理な日あったら電話して」

「無理な日なんてないけど、電話はしてもいい?」

「うん、接客中以外だったら出られるから」

「みーちゃん、新しい彼氏おらんの? 大丈夫なん?」

「いたら、来ないし」

「そっか」

斎藤は嬉しさが隠せない子供みたいに、優しく笑った。


外は寒くてバスを待つのがつらかったので、病院の前でタクシーを拾った。

ここから駅までだとワンメーター。近すぎて悪いので、家までタクシーで帰ることにした。

斎藤が世に出した単行本は二冊ほどだ。

絵が独特で内容はシュールで、たまに笑えて、オカルトなのに怖いよりも少し切なくて……美咲は斎藤の描く漫画が好きだった。

打ち切りになるたびに、時代がまだ、斎藤に追いついていないのだと言って励ました。


―右手がうまく動かんようになってきてな


斎藤の言っていた言葉が気にかかった。サイドテーブルに置いてあったスケッチブック。あれは斎藤がプロットと下絵を描く際に愛用していたものだ。左手で描いているのかな……。

余命いくばくか。なんて信じられない。斎藤から悲壮感は感じなかった。生きようとする気力しか感じられなかった。

美咲は、スマホに斎藤の病名と共に『ブログ』と、打ち込んだ。

『パーやん』という四十五歳の男性のブログがヒットした。

ページを開くと最新の記事に『右半身マヒ』と、言うタイトルが飛び込んできた。

『ご無沙汰してました。パーやんです。ついに右半身マヒになってしまい、妻ちゃんにブログを打ってもらっています(どんだけ~) 今日は娘ちゃんたちが幼稚園の帰りにお見舞いに来てくれていて癒されています。小さな娘ちゃんたちを見ていたら、いままで、仕事ばかりしていて何もしてあげられていなかったことに気が付いて(涙) もっと、こうしてあげればよかった。ああしてあげればよかった。そんなことばかり考えてしまいますわ。あ、そんなこと言ったら妻ちゃんが怒った。(笑) とにかく、この子たちのためにも、もちろん愛する妻ちゃんのためにも、そして同じ病と闘っている人のためにも、頑張ります! (もちろん、無理せずにゆるーくだけど)以前 癌は、神様がくれたギフトだって、大切なものが見えるようになるって言われて、その言葉に勇気づけられました。いま、本当にそう思います。あのまま仕事ばかりしていたら、きっとこんな近くにある大事なものの大切さをわからないまま、ただ、無意味に日々を消費していたかもしれない……。だから、パーやんはラッキーです。 ラッキーマンです(笑) さてさて、ではまた~』

一緒に掲載されている写真。妻ちゃんらしき女性と、やはり斎藤と同じような帽子をかぶったおふざけ顔のパーやんらしき男性と可愛らしい娘ちゃん二人の仲のよさそうな家族写真が添えてある。

思わずほほえましい気持ちになった。が、美咲は、はたと気が付いた。

最新の記事の筈なのに、ブログはその記事で止まっている。

日付はもう、三年も前のものだった。

美咲の思考が静止する。あぁ、そうか、もう、本当に時間はないんだ。

命が永遠だなんて思ってはいないけれども、三十半ばにならぬうちに斎藤がこの世から消えてしまうなんて今まで考えてもみなかった。


翌日、美咲は生理休暇を終え、店に出勤した。

働かなきゃいけない理由、たとえば、借金とか、ホストに貢ぐとか、留学するためとか。そんなものは自分にはないのに、なんとなく、居心地がよくていつかはやめなければと思いながらも、きっかけがないまま『女王』に居続けてしまっている。

「あぁ~、乳首気持ちいい、もっと、もっと噛んでほしい~、お願いします~」

「嬉しい、じゃあ、飯岡さんの乳首はずっと、わたしの乳首ね」

「あぁ、そうよ~わたしの乳首、ずっと吸っていてね、あ~」

齢七十歳を超えた飯岡は、若いときに陰茎が膿んでしまったのに放置してしまい切除しているので射精ができない。なのでプレイはほとんどが乳首責めが中心だ。飯岡は痩せていて皮膚が薄く骨が透けて見えるようだ。

エッチな時間が終わった後はマッサージをしてあげる。ごつごつとしていてほとんど肉がないのだが、触られているだけで気持ちがいいらしい。

「わたしは、これからもここに来るために長生きしないとね」と、言いながら飯岡は『わかば』と書いてある古い銘柄のタバコを吸いながらコーヒーをたしなむ。

もう、定年してもいい年齢なのだが早くに離婚し独り身の飯岡はまだ印刷工場で働いている。痴呆で施設に入っている斎藤父と年齢はあまり変わらないのに、飯岡は屍のような見た目に反して元気だ。

飯岡の口から出て行く煙はいつみても、魂が抜けて出て行く様に見える。とは、さすがに口が裂けてもいえない……。

「ずっと、こうして裸で抱き合っていたいよ~ ああ、気持ちいいなぁ~ 」

煙を吐き出した後、抱き着いてきた飯岡にキスをされると口の中から『わかば』と、コーヒーと加齢臭が混ざってなんともいえない香りと味がする。決して好意的な匂いとは言えない(むしろ臭いのだが)しかしこれが、飯岡の生きている匂いなのだと考えると長生きしてもらいたいなとも思う。

プレイ後、裸のまま飯岡と話しをするのは楽しい。大体、美咲がまだ生まれる前の古い映画の話をすることが多い。山形から上京した飯岡の娯楽は映画だったそうだ。

さすが、美咲よりも四十年以上多く生きているだけあって飯岡は物知りだ。

毎回、おすすめの映画を教えてくれて、美咲はなるべくそれを観るようにしている。

お客様の性的な要素を消化した後、こうして裸で話す時間が好きだった。

目的もなく、緊張もなく、さっきまで、喘いでいた男女が卑猥を抜きに仲良くできる。

そこには、人肌があって、湿気があって……。

美咲は、ざわめく心の襞と自身の肉体の震えに怯えながら飯岡の身体のぬくもりに安堵していた。

「また来月来るときに、メールしますね、寒いから暖かくして風邪ひかないようにね」

「うん、飯岡さんもね、ありがとう」

無事、飯岡を見送った後、部屋を片付けにきたボーイに次の予約が入っていないことを確認した。

もう、斎藤に残された時間が少ないことを飯岡の生きている匂いを嗅いだ瞬間、痛いほどに思い知らされた。なのに、美咲はまだ斎藤になにもしてあげられていない。

確かに生きていく上でお金は必要だ。けれども、いくら稼いだって斎藤に残された時間をお金で引き延ばすことはできない。

美咲は決心し、部屋から店長に「相談があるんですけどちょっといいですか?」と、コールした。


「そういう事情なら、まあ、仕方ないけど……どれくらい休むつもりなの?」

紫煙をくゆらしながら、いささか、難しい顔をして店長が言った。

長期休暇は店の承諾なしではクビ扱いになってしまう。なので、美咲は正直に今の状況を話した。

店長がまだ新人のボーイだったときから美咲は『女王』に在籍している。

「すみません、一応春までってことにしてもらって、復帰のめどが立ち次第、すぐ報告します」

「春って、三か月もあるじゃないよ、しかも、別れた元カレなんでしょ? 別れてるのに、看病する必要あるの?」

「そうなんですけど、身内も、友人もいない人なんで」

「本当にそんな状況で、復帰できる?」

「します。絶対。来てくださってるお客さんには、そういうところ、ちゃんとしたいし」

「まあ、これだけ長く働いてくれてるからさ、長期休暇は会長も許してくれると思うけど……無断でとんだりするのだけは勘弁してよね」

「すみません、ありがとうございます」

「お客さんにはなんていうつもりなの?」

「母の具合が悪くてとか、そんな感じで」

「まぁ、それがいいかもね、ちゃんと、休み中もお客さんに連絡とか、お店にも報告してよね」

「はい、すみません、ありがとうございます」

『とぶ』というのはなんの連絡もなしに、いきなりいなくなったりすることだ。この世界。はっきり言って、とぶ子の率は高い。

(とぶ子のたいていが、ほかの店に移ったりしているので見つけるのは容易なのだが、そこは暗黙の了解のように追わないようになっている)

帰りの支度をしに控室に行くと、水原が控室でご飯を食べていた。カレーの匂いが漂っている。水原は売れっ子嬢なので、カレーの匂いなんてお客さんも気にしないのだろう。

「カレー? いい匂いだね、お腹すくわ」

「いや、蔵王のカレーラーメン。超ウマだから、これ、わたし三日連続で食べてるよ」

「さすが、水原」

美咲が笑いながら言うと、水原も笑った。

「でも本当、美味しいだもん、なんか絶対中毒性のあるもの入ってるよ、これ」と、言いながら、水原はカレーラーメンをすすっていた。

「でも、お客さんにもちゃんとラインしておいたよ『いまカレーラーメン食べてるから、よろしくね』って」

「そしたら?」

「そしたら、その人も『俺も腹減ったからカレー食ってからいくわっ』て」

「めっちゃ優しい人だね」

「ねー、性格はすごく優しいんだけどさ、その人、超遅漏で、潮ふかせようとガシガシ必死になるし、根元だけ太い短小なんだよなぁ……終わった後、まじでぶっ倒れそうになるよ」

「まじか、若干、それはきついね……」

水原は、働かなくなってしまった彼氏を養う昔ながらの古風な風俗嬢だ。もともと病院で介護士をしていたらしいのだが双極性障害を患っている。

躁状態になると一週間連続オープンラストで出勤したりもする。

そして欝になると、しばらく出てこないというサイクルをくり返している。

店側も事情をわかっているし、普段の水原は真面目でいい子で太い常連客も持っているので重宝されている。

正直者なので、躁のときになると、なんでも話してくれる。

はじめて会ったときは、あまりにノンストップに色々喋るので違法薬物かなにかやっているのだろうかと疑ってしまったが、薬物依存ではあるがちゃんとした処方薬だった。

美咲と同い年で控室のお姉さん的な存在。

しかし、欝状態になると、ネットの匿名掲示板をパトロールしてしまい余計に欝になるらしい。美咲は、匿名掲示板などの顔の見えない人の意見を見ないことを主義としている。匿名掲示板は疑心暗鬼になるだけで見たっていいことはひとつもない。(気にして見ていた時期もあった。が、見た後は決まって落ち込むのでやめた。斎藤を見ていてもそう思った。斎藤はスランプになると欝になり、掲示板やツイッターでエゴサーチをして落ち込みを増長させる癖があった)

匿名掲示板に『態度悪い』とか『男と住んでいる』とか、『常連には生でやらせている』と書かれていることを、わざわざ紙にコピーしてきて教えてくれるお客さんがいたりもした。

そのお客さんは決まって「それでも、おれはあなたのこと、ずっと好きだからね!」と、アピールしてくる。

つまり、『自分だけは特別だから』というスタンスでいたいのだ。

正直、ものすごく腹が立つし、ぶん殴ってやりたいが、そこはベテランの肝の見せどころだ。

「わたしのことそんなに想ってくれて嬉しい~ ありがとう~」と、しなだれかかり、甘えるのがベストな接客法。

どんな嫌な客に対しても、だって、お金だもの。と思ってしまえば、なんとか乗り切ることができる。

とはいっても、疲弊はする。心は気が付かないうちに少しづつすり減っていく。

水原は情緒不安定だが心根が優しく気遣いのできるところが、少し斎藤に似ている。だからなのか、店に来て水原の顔をみると、いつもどことなく安心した。

水原の母親は水原が成人する前に癌で亡くなったのだと聞いていた。父親は、産まれたときからいなかったらしい。

美咲は、自分は平凡で幸せな家庭に育って大した苦労をしていないな。と、他の女の子の生い立ちを聞くたびに申し訳なさのようなものを感じる。

もうやめてしまった女の子に聞いた話だが、養父に犯され十六歳で妊娠し、産まされ、実母がその子を育てているので養育費を払うために風俗で働かされていると打ち明けられたことがあった。

なんという名前の女の子だったかは思い出せないけれども「事実は小説より奇なりとは、よく言ったものだね、えらいね」としか、かける言葉が見当たらなかった。言った後に他にもっと優しく気の利いた言葉をかけてあげるべきだったと何日か悩んでしまった。

しかし、どうしたって陳腐な嘘みたいな言葉しか浮かんでこなくて、当時、家に越してきたばかりの斎藤にその話をしたことがあった。

斎藤は「それがベストな答えだよ」と、言って慰めてくれた。

控室のシンク、水原が空になったカレーラーメンの皿を洗いに行く。美咲はロッカーから必要な私物だけ取り出し、着替え始める

「あれ? みーちゃん今日、あがり?」

「うん、ちょいといろいろあって」

「そっかー、なんだ、さみしいなぁ、おつかれちゃん」

「ねえ、水原さ、変なこと聞いて悪いんだけど」

「なに、なんでも聞いていいよ、今日、元気だから」

水原が自分で言いながらカラカラと笑った。先週まで、欝がひどくなって休んでいたのだ。

「水原のお母さんって、なんの癌で亡くなったの?」

「うち? うちの母は、乳がんだよ、最初全摘して、一回治ったと思ったんだけどね、再発して」

「余命とか、そういうのって、あてになるの?」

「え、みーちゃん、なんかあったん?」

「うん、ちょっと、大事な友人がね」

「え、若いの? その人?」

「うん、三十ちょいすぎ」

「そっか……」

言いながら、水原が神妙な面持ちになった。控室に漂うカレーの残り香はまだ消えていない。

「うちの母のときは余命宣告より二年ほど長く持ったよ、でもその間、治療方針なんかでもめたりもしたなぁ」

「水原はここに来る前は病院で働いてたんでしょ? 専門学校とか行ったの?」

「ううん、本当は看護師になりたかったんだけど、ちょっと経済的にハードル高かったからさ、当時、働きながら資格取れるのが介護士だったのね。母が亡くなってから双極性も酷くなっちゃったから、わたし病院にしか居場所なかったんだよね。そこで仲良くなった男性の看護師さんがいてね、その時いろいろと相談にのってくれて、まぁ、一緒に住むようになったんだけど、その彼が実はナース長と浮気していたのがわかって、キレちゃってさ、持っていた眉切りばさみで自分の二の腕ぶっさして、血流しながら病院で暴れたら、まぁ、当たり前だけどクビになって、結局、彼とも別れて居場所がなくなって、金もなくなって風俗にきたんだわ。まぁ、結局こっちのほうが性に合ってたから結果、よかったんだけど」

「えぇ! ってか、眉切りばさみ腕に刺すって相当痛い! しかしその彼、最低だね」

「あはは、まぁ、だいぶ話それたね、ごめん。とにかく、余命っていうのは、人それぞれらしいよ、余命宣告過ぎて、十年生きてる人とかもいるし、大抵は短めに言っておくらしいから、そんなに深刻に考えないほうがいいと思うよ」

「そっか、そうなんだ、なんか、ちょっと安心した、ありがとう」

「なんかあったら、また聞いて、一応、そこは人より知識あるはずだから」

「ありがとう」

『女王』で働く女の子は、性格のいい子が多い気がする。少なくとも美咲の知っている子はそうだと感じる。

そうではない子はすぐにとぶか、辞めてしまう。

ロッカーのカギをフロントに預け店を出る。普段、店から帰るのは夜なので、まだ陽の名残りのある風俗街の景色は、いつもと違って見えた。


半年ほど前のことだった。うっかり避妊用のピルを飲み忘れてしまい、次の周期まで休薬した途端にヘタをうった。斎藤とのセックスのあと、ゴムが破けていたことに気が付いたのだ。

土曜日だったので、翌日、病院は空いていなかったし、一回の失敗で孕んでしまうなんて、そんなことはまさかないだろうと、どこか楽観的に考えていて月曜になってから、アフターピルをもらいにいった。

一錠目を飲んですぐ、胃がむかむかして吐いてしまったのだが、あまり気にせず、その後、指示通り二錠目を飲んだ。

すぐに出血があるはずなのに、いつまでたっても出血はなく、しばらくして妊娠が確認された。

 正直、焦った。斎藤とはずっと一緒に居たいが、まだ、今は産むべきではではないと思った。だから斎藤には伝えずに、美咲は黙って堕胎をした。三日間、風邪と偽り家で寝て、店には一週間で復帰した。

堕胎が斎藤にばれたのは、美咲が仕事に復帰したあとだった。ちょうど、斎藤は新しい漫画の企画が通らず落ち込んでいた。

堕胎のための書類をまとめて封筒のままにシュレッダーにかけたら紙が詰まっていたらしい。斎藤がつまった紙を排除しようと巻き戻したところ、堕胎の承諾書がまだ読める状態で出てきてしまったらしく、帰宅した途端、悲しみを湛えた顔で斎藤に問い詰められた。

「ただいま」と、帰って来て、目を合わせたときの斎藤の第一声は「なぁ、みーちゃん、なんで、なにも言ってくれなかったん?」だった。

「風邪っぽいって、寝てた時、それやったん?」

美咲は、何も言えずに口をつぐんだ。

「これって、大事なことやよ、みーちゃん」

斎藤は、怒っていなかった、優しく諭すように話した。けれども美咲は、責められているような気になり、不貞腐れ、身体にも負担をかけ、金もかかって、心を痛めたのは自分なのにと、憤慨する気持ちを抑えきれず、つい、言ってはいけないことを言ってしまった。

「……だって、もしかしたら、はじめちゃんの子じゃないかもしれないしさ」

一瞬、斎藤から憤りのようなものが伝わってきた気がした。斎藤と知り合ってから、初めてのことで美咲は少し驚いた。

「なにそれ? 仕事でも、そういうことあったんか? もしそうだとしても、なんで、黙って……」

「いや、そういうことはなかったけど、でもさ、今のはじめちゃんに言ってもしょうがないことだから言わなかったんだよ、もう終わったことなんだし、やめようこの話」

美咲の言葉を受けた斎藤は、何も言わなかった。

ただ、俯き、じっとなにかをこらえるように「みーちゃんにそんな風に思われているとは知らんかった」と、肩を震わせ、自分の仕事部屋へと戻っていった。

(はじめちゃんがもっと、ちゃんと漫画で売れていたら。家賃とか、お金だって、ちゃんとしてくれていたら)

一瞬、そんな考えが頭をかすめたけれども、もしそうだったとしても堕胎しなかったとは断言できない。

子供を産み、自身の生活のサイクルが変わること。そこを決心できなかったし、夢をあきらめる斎藤も見たくはなかった。今思えば、子供を産んですぐ復帰して、斎藤に主夫になってもらいながら漫画を描いてもらっていたってよかったのに。

その一件の後、明らかに話す回数も減り、落ち込む斎藤と一緒にいると心が痛み苦しくなり、美咲は、帰宅するとすぐに自分の部屋にこもり、斎藤も自分の部屋にこもっていたので、二人はほとんど話さなくなった。

寝る場所も別になった。気配はするのに、一人ぼっちになった気がした。

蝉の声が聞こえなくなって、外を歩く人が長袖を着るようになってきた頃「みーちゃんの負担になってるよな、俺」と、言ってきた斎藤に対し、意地になっていた美咲は返答をしなかった。

そんなことないよ。の一言が、意固地になって言えなかった。

もっと素直に早くに、互いの本音を言い合えていたらほどけたはずの糸は固く絡まり切るしか手段がなくなってしまっていた。

翌日、斎藤は「いままでありがとうね」と、書かれたメモと、なけなしであろう一万円を置いて美咲の家から荷物をまとめて出て行った。置かれたメモには濡れた後があった。ありがとうの「ありが」の字が滲んでいた。斎藤のいなくなった部屋の中は灰色になったような気がして、美咲はメモを手にしながら肩を震わせた。


店を出て駅に着き、斎藤への見舞いの品を何にしようかと考えていたら、母から電話があった。

「ママ? どうしたの」

「みーちゃん、ごめん、あの、落ち着いて聞いてね」 

そのあとの言葉は、たった十三文字だった。たった十三文字なのに耳から母の声が遠くなって、目の前が、捏ねられた小麦粉に巻き込まれたみたいに曲がりくねった感じがした。

― 斎藤くん、亡くなったって。

あっけなさすぎた。そんな急な出来事があるなんて信じられなかった。これから、仕事を休んで斎藤の介護に専念し、失くした時間を少しでも取り戻せたら、そんな気持ちでいたのに。

 斎藤は、昨日美咲が帰った数時間後に脳溢血になり意識を失ない、目を覚まさないまま、今日の午後に亡くなったらしい。

母からの電話を切ってすぐ、美咲は、病院へと向かった。

遺骸と対面したとき、斎藤は、まだ、生きているように見えた。

なにもできなかった……。斎藤の固く冷たくなった手が『死』を、生きていないことを実感させた。

しばらくそこから動けずにいた。時間が経つごとに斎藤は死んでなどいなくて、黙って堕胎した美咲に復讐したくて、精巧な蝋人形をそこに作ったという錯覚を思い込んだ。

しかし、やはり斎藤の肉体に魂はもうなかった。本当にからっぽになっていた。

美咲は、斎藤の身の回りを片付ける役を引き受けた。

空いた病室のベッドの横、置いてあったスケッチブックを開くと、斎藤が描こうとしていたのであろう漫画の下絵があった。

鉛筆書きだったが、一応の形を成していたので読むことができた。

一コマ目、顔上半分の見えない女が、「出かけるときは鍵を閉めてね」と言って、着飾って出かけていく。

主人公らしき冴えないメガネの細長い男は、彼女が作った朝食を食べようとテーブルに座った。

テーブルに置いてあるのは、トーストとエッグスタンドだ。

卵の殻をスプーンで割ると卵の中には胎児がいた。男は、驚き、エッグスタンドを隠す様によけてトーストをかじった。

『わたしが誰だかわかる?』

エッグスタンドの中の胎児が男に語りかけてきて、男は驚き、トーストをくわえたまま椅子から立ち上がった。

『わたし、生まれるはずだった、でも、あなたが、ダメ人間だから、わたしは生まれてくることができなかった』

男は、青ざめた顔をして、ゆっくりと卵の中をのぞく、胎児は丸まり目を閉じたまま、男は胎児に話しかける。

『ぼくが、ダメ人間だったからなの?』

『そうよ、あなたみたいな人種のことはね、世間ではヒモって言うのよ』

『きみは、よく、そんな言葉を知っているね』

『まあね、まったく、困るわよ、これから楽しい人生が待ち受けていたはずだったのに、ヒモのせいで』

男はエッグスタンドの中を見つめながら、トーストを食べ終え、胎児との会話を続けている。

『そうかぁ……ごめん。と、しか言いようがないな。ところで、なんできみは卵の中にいるのさ』

『だって、形的にわかりやすいでしょ』

『たしかにわかりやすい』

その男のセリフからは、絵も台詞もミミズがのたくったように読みづらいものになっていた。

『ねえ……責任……』


漫画は胎児の放つそのセリフで途切れていた。

その後ろ、震えた字で『かなしみはたいせつなもの』と書いてあった。

スケッチブックの最後に、書いてあった言葉はそれだった。

美咲の頭の中が痺れた。

想像のつかなかった言葉が、動揺を誘った。

かなしみはたいせつ。これは、何に対して思ったことなのだろうか。斎藤に聞くことのできない今となっては、真実はわからない。なにもわからないままに、斎藤は逝ってしまった。

冬晴れの日。精巧な蝋人形のようになった斎藤の火葬が行われた。葬儀は行わなかった。焼き場には斎藤に初ソープを世話してくれた編集長さんが来てくれていた。

「本当に、惜しい人を失くしました……」

涙目で言ってくれた編集長さんは、水原の太い客だ。ついでにあそこも太いらしく、水原は編集長さんが来るたびに、陰部がひりひりする。と、店で買える『スエ』というデリケートゾーン用の軟膏を塗っている。

斎藤に、やはり他に友人はいなかった。ガラケーの電話帳には、仕事の関係者、神戸の施設の連絡先、それと美咲の連絡先しか入っていなかった。

保険で火葬の金なども賄うことができたし、母や姉が手伝ってくれたおかげで、ことは円滑に進んだ。

斎藤の生活用品などは、すでに斎藤の手によって処分されていた。

住んでいたアパートは入院時に解約していて、入院するときに私物はほとんど処分していたようだった。

だから、遺品と呼べるものは、橙と黒の表紙のスケッチブックとガラケーと、色付きマジックなどや鉛筆などの筆記用具だけだった。

ガラケーを開くと、待ち受けは、美咲と斎藤が一緒に写っている写真だった。

たしか、動物園に遊びに行ったときのものだ。ゴリラの絵の枠に入った斎藤の横で美咲が笑っている。

斎藤に、伝えられなかった。

 どんなに『リア充』になっても、どこで遊んでいても、何度もスマホを見つめ、『はじめちゃん』にメールをしようとしていたことを。

美味しいものを食べたときも、はじめちゃんと一緒に食べたら、どんな嬉しそうな顔するんだろう? と、考えてしまっていたことを。

斎藤のことを欠片でも思わない日はなかった。美咲は、手放してはいけないものを自らの手で手放した。

恋愛の思い出は三か月で薄れていく。それならばこの苦しみはいつか消えるだろうと思いながらも毎日、斎藤からの連絡を待った。

斎藤からメールが来ていないか、一日に何度もスマホをチェックしていた。

自由の裏にある寂しさを感じるたびに斎藤との日々を取り戻したくなっていた。しかし拒否されてしまうことが怖くて、勇気が出ず、なにも伝えることができなかった。

全てが遅い、もう、斎藤はいない。なにも伝えられなかった。なにが反省はするけど後悔はしないだ。そんなの嘘っぱち。後悔だらけだ。

別れずに一緒に居たら、もっと早くに病院に連れて行けたかもしれない。

斎藤の遺伝子を残すことができたかもしれないのに、自らの勝手な考えで放棄してしまった。

 斎藤は、ずっと美咲を助けてくれていたのに。見守ってくれていたのに。美咲は斎藤をひどく傷つけた。考えれば考えるほど、苦しくなって息がうまくできなくなる。

大切なものほど大事にしなければならなかったのに、五年と言う歳月が美咲の斎藤に対する甘えを増長させた。

美咲は『わかってくれるだろう』という甘えで、一番大切だったものを失くした。

焼かれたばかりの骨から放たれる熱気が温かく、寒空で冷えた身体に安らぎを与えてくれる。

「いい人ほど早く逝くって、ほんとうね」

焼き場からの帰りのタクシーの中で、母と姉は、そんな話をしながら鼻をすすって泣いていたが、美咲は泣かずに窓の外の空を見上げていた。

タクシーから見上げる空は絵の具を溶かしたみたいに青く澄んでいた。

― じいさんやばあさんやったらええけど、若い人やったら可哀想やな

― そうやけど、死んでも、死んでも、あとからあとから、せんぐり、せんぐり産まれてくるわ

― そうやな、ようできてるなぁ 

と、以前、飯岡が勧めてくれた古い映画、小津安二郎監督の『小早川家の秋』でのワンシーン。煙突から登る煙を眺めながら川で野菜を洗う夫婦が言っていた台詞を思い出した。

ほんのり温かい骨壺は美咲が預かり、自宅に持ち帰った。

なんだか斎藤が家に戻ってきたみたいで不思議な気がした。

美咲は、この半年。堕胎したことを極力考えないようにして過ごしていた。

ただ、その擦り傷はたまに痛んだ。原因不明の子宮痛が訪れることも多々あった。

赤ちゃんを見るたびに、自分が罪を犯した人間のように思えた。あのとき、斎藤に言っていたら、相談していたら、斎藤は、きっと産んでくれと言っただろう。食えない漫画を諦めて普通の職に就こうとしただろう。美咲との未来を考えてくれただろう。

美咲は骨壺をまとった布をとって、木箱から取り出し、すべすべの骨壺を撫でた。壺に、球状にゆがんだ自分の顔が映っている。

―苦しまずに、逝けたとおもいます。

と、医者は言っていたがそんなの生きている人に対する慰めでしかないと思った。

斎藤にとっての苦しみが、なんだったのかはわからないし、もしかしたら、まだ、意識はどこかに浮遊しているのかもしれない。

美咲は、白い壺の蓋をあけてみた。蓋は思っていたよりも重たかった。

詰められた焼けた骨の匂いは、灰の匂いに似ている。

こういうとき、斎藤の描く漫画だったら、骨をポリポリ食べたりするんだろうな……。

醤油につけたら、いけるかな……?。いや、消化に悪そうだし固そうだ……。

思いながら、美咲は小さな骨を手に取って見た。

人間の軸がこれで構成されているのだと思ったら、感心した。

皮膚や肉や血や臓器は燃えるのに、骨はなくならない。

骨ってすごいな……。美咲は骨壺を探り、丁度いい形をした骨をいくつかテーブルに並べ、目や口などを描いてみた。

骨に目と口をかくと、小さな斎藤の欠片が生きているみたいにみえた。

どうせ、骨壺をあける人はいないし、少しくらい平気だろうと、美咲は斎藤の遺品のマジックで斎藤の小さな骨に顔を書き、ピンクや緑の明るい色をつけて飾った。自分で言うのも何だが、可愛くできた。素材が骨とは思えない。なんだか、その作業は、子供の頃に戻って工作をしているみたいで楽しかった。

「はじめちゃん」

美咲は骨に呼びかけるが、当たり前だが返事はない。

「はじめちゃん……」

ピンク色のカバみたいな顔をした骨がじっと美咲を見ている。

斎藤が生きている間は、ずっと斎藤の介護に専念しようと思っていた。

今まで貯めた金、全てを斎藤に使ってもいいと思っていた。まずは個室に移動させて泊まりこみ、斎藤の望むことすべてを叶えてあげようと計画していた。

そんな決意で長期休暇を申請したにもかかわらず、斎藤のあっけない最期のおかげで美咲は一週間で仕事に復帰した。

店長は、とくに、何も聞かなかったし言わなかった。

水原にもその後のことを聞かれたが、喉が詰まって真実を答えることができなかった。

なので、「うん、まだ、元気そう 気にかけてくれてありがとうね」と、嘘で言葉を濁した。

斎藤が亡くなったこと以外、美咲の日常はほとんどなにも変わらなかった。

いつもと同じように笑顔で接客をこなし、家に帰って、部屋に飾った色とりどりの『骨アート』を指で転がしてから、斎藤が親分の声まねをしていたカータンと一緒に風呂に入る。

「カータン組長、たまには、なんか喋ってよ」

つぶらな瞳で温度のないカータンの腹を指で押すと、キュウと、間の抜けた音がした。

朝、起きてから、斎藤の骨壺を地元の墓におさめに行く旨を斎藤の父が入所している施設の人に伝える電話をかけた。

ちょうど、施設長だという男の人が電話に出た。斎藤の恋人だと思われたのだろう。

親切そうな優しい声色で施設長は「いろいろ大変でしたでしょう、この度は本当に、ご愁傷さまでした」と、言ってくれた。

顔も見たこともない、その人に電話口で言われた瞬間、信じられないことが起きた。

ぼろぼろと、玉のような涙が目から流れて、頬が濡れ、美咲の顔面は意識と関係のないところで激しく収縮した。

電話口で、美咲は激しく泣いた。声というよりも悲鳴に近い声で、過呼吸になるほどに泣いた。多分、変態に遭遇したあの日に斎藤の前で泣いた以来。人に聞こえる嗚咽を漏らし涙を流した。

幸い、午前中だったことがよかった。これが夜だったら、そのまま深い闇に堕ちて行ってしまうような『かなしみ』が美咲を覆っていたことだろう。

「とりみだしてしまって、すみません」

「いえ、どうぞお気になさらないでください」

施設長は、沁みる優しい声をしていた。きっとおじいさんくらいの年齢の方なのだろうな。

思いながら謝り、電話を切った。息がうまくできるようになるまで時間がかかったが、しばらく肺をおさえて、呼吸を整えていたら、なんとか、きちんと息を吐けるようになった。

人前で泣く女なんか、みっともない。『わたしは泣いている』とアピールして、慰めてもらおうとしているように思われるのが癪だ。そんな女にはなりたくないから絶対に人に聞こえるところでは泣かない。

美咲は、そう心に決めて生きてきた。なのに、顔も知らない人のなにげない一言でその信念があっけなく敗れたことに、脆弱な自分を思い知った。

斎藤の骨を届けに斎藤父の入所している施設に行った際、電話で対応してくれた施設長と対面した。

施設長と言うくらいだから、おじいさんかと思っていたら意外に若かった。まだ、四十歳だと聞き「お若いのに、施設長さんだなんて、偉いですね」と、言うと施設長は、はにかんで照れていた。

施設長は背が高く、眼鏡をかけていて、『やすらぎ』と胸に刺繍してあるポロシャツをジャージ素材のズボンにインしていた。

電話口で醜態をさらしたお詫びもかねて、施設内の共用スペースでお茶を飲んだ。

一緒に茶を飲み、持ってきたケーキをつまむ施設長に感じたのは、既視感。

決して顔自体が似ているわけでもないのに、知っている人がそこにいるような気がした。

「今後、なにかあったときのために」と、一応連絡先を交換したら、施設長からのマメなアプローチがはじまった。

美咲はもちろん、自分の仕事は偽っていた。『事務職』と嘘を吐いた。

施設長は『真面目』と、おでこに判子を押してもいいような性格だったし、性や、風俗といったグレーゾーンな世界には縁のないよう人に思えたので、本当のことは言わないでおいた。

『背の高い関西弁の眼鏡男子』ということで、施設長に斎藤の面影を重ねたことは否めない。

『今度研修で東京に行くので、よかったらご飯でも行きませんか?』

かなり頻繁に東京に来ると言って美咲を誘う施設長と何度か二人で会うようになり、(後になって、東京出張は、美咲に会う口実だったと知ったのだが)自然と、施設長との未来を思い浮かべるようになっていった。

運命や縁とは不思議なもので、美咲は施設長にプロポーズされ『女王』を寿退店した。

常連さんたちには、さすがに結婚するとは言わなかったが、辞める旨はきちんと伝えた。

お客さん個々の好みを考えて、他の女の子への引継ぎも済ませた

水原は相変わらずヒモの彼氏と同棲しているが、彼の母親が身体を壊し、母親の生活費をも払わなければならなくなったから、いつまでたっても辞められないとラインでぼやいていた。

美咲は『女王ライン』のグループを退会する旨を皆に伝え『なんかあったら個別に連絡ちょうだいね』と書いて送信し『グループを退会する』という文字をタッチした。

タッチした瞬間、繋がっていた糸が切れたような気がした。

その後、しばらくして美咲はラインのアドレスを変え、インスタグラムも辞めてしまった。なので東京にいたころ仲良くしていたみんなが現在どうしているかは、知らない。

美咲は新しい船に乗った。今まで乗っていた船の姿は遠のき、完璧に見えなくなった。亡くなった斎藤が施設長と美咲を引き合わせて、新しい人生をくれたような気がした。

自分勝手な考えかもしれないのだが、そんな風に美咲は信じた。

―せんぐり、せんぐり、産まれてくる。

お腹に宿った子供の予定日が、ちょうど斎藤の誕生日と近いことは偶然とは思えなかった。もしかしたら……。なんて思ってしまうのは施設長には失礼な話だが、もしそうだとしたらいいなと考えてしまう。

桜が散り、神戸と言っても新居は繁華街から離れていたので、家の周りには、緑が多く新しく小さな命が沢山芽吹いていた。(たまに猪にも遭遇した)

神戸の新居の玄関の靴箱の上には『骨アート』を海外で買ってきた置物と偽って飾った。

施設長はもちろんそれが斎藤の骨だとは気が付いていない。本当に外国で買ってきた置物だと信じてくれている。

美咲は、神戸に越してきてからも、出かけるときに、いつもペットを愛でるように『骨アート』を撫でていた。

時計を見る。陣痛が、五分間隔になってきている。

十分間隔のときには、こんなものかとタカをくくっていたが、感覚が狭まってくるにつれ、どんどん痛くなってきて、思わずいきんでしまいそうになる。

酷い腹痛が押しては引いてと、波のように襲ってくる。

母や姉がこの痛みを二度も経験したのかと思ったら、全ての母親を尊敬したい気持ちになった。そろそろタクシーが玄関先に到着するはずだ。施設長にはさっき連絡した。

施設から病院は近いので先に病院で待機してくれているらしい。

美咲は、斎藤。いや、『骨アート』に心の中で話しかける。

―いってくるね

もちろん『骨アート斎藤』からの返事はない。胎動と陣痛が重なって、額に汗が滲み、なにがなんだかわからなくなってきた。

―頑張れ、みーちゃん。

空耳なのか、幻聴なのか、勝手な思い込みで聞こえてくるものなのかわからないが、確かに斎藤の声が聞こえた気がした。

陣痛の波がひいた瞬間。美咲は骨アートに話しかけた。

―ありがとう、はじめちゃん。

最期まで言えなかったけど、出逢ってくれてありがとう。いつもそばにいてくれて、ありがとう。

優しい気持ちになったのも一瞬。すぐにまた痛みが襲ってきた。美咲は小さく唸りながら、鍵を閉め、玄関を後にする。

タクシーに乗り、行き先を告げながら、(そういえば、せんぐりって……。ぜんずりと一文字違いだよな)と、考えてしまった。こんな大変な時にくだらなく卑猥な考えが頭によぎるのは職業病が抜けていない証拠だ。まだ、余裕があるのだろう。

六甲道の坂をタクシーが下っていく。再び痛みが襲ってくる。


ああ、もうだめ! 漏らしそう!

                                

                           了


             

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せんぐり  せんぐり りんこ @yuribo

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