第30話 理性の果て

 コークスはリルの手を引いて、ダンスホールを抜けた。汗ばんだ手がべたべたとして気持ちが悪い。しかし、ここからは仕事だ。そんな感情は殺さなければならない。そう言い聞かせているうちに気づけば、3階まで階段を上がっていた。

「ここがそちの部屋だ」

 三階を全て使った大きな部屋だというのに、物が多いせいかなんだか狭く感じる。薄暗い部屋で、まず大きな天蓋付きのベッドが目に飛び込む。そして、その周りを取り囲むように壺や皿といった骨とう品がずらずらと並んでいた。壁には、ほっそりとした若い男の肖像画が飾られている。よく見ると、絵の下にコークス・マーティというタイトルがついていた。本人とは似ても似つかない姿だから、思わず二度見してしまう。

「これはフローアンから取り寄せた名品の壺でな……」

 コークスがリルに骨董品について語り始めた。そんな話に興味はない。さっさと命をいただいて、薬をもらおう。リルは、コークスがうんちくに夢中になっている隙に、隠し持っていたナイフを取り出し、足音をしのばせて襲い掛かろうとした。しかし、

「あやつの言う通り、やはりそちを殺す気だったか。そなたは、レイズの手の者……なのだろう?」

 マーティ市長は、すばやい動きでリルのみぞおちに拳を入れてきた。

「な……!」

 しまった。ダータンに嵌められてしまった。一瞬よろめいたリルをマーティ市長が慣れた手つきでベッドに倒し、押さえこむ。

「くく……いい体をしておる」

 こうなると、いくら剣の腕に自信があるリルでも抵抗はできない。マーティ市長が美術品を愛でるようにリルの胸や腰を触っていく。

「やめて……」

 コークスがドレスに手をかけた。初めての夜がこんな気持ち悪い男と一緒だなんて、絶対に嫌だ。しかし、ナイフもなく、毒薬も持っていない今、なされるままにされるしかなかった。

「うむ。その怯えた目も悪くない」

 コークスが慣れた手つきでドレスを脱がせ始める。

「嫌っ……!」

 体格差では圧倒時に不利だ。じたばた暴れてもコークスはびくともしなかった。

「安心せよ。そちがしっかりとかわいがってやる」

ダータンに嵌められて、この男にかわいがられるなんて、痛恨のミスだ。自分に落ち度がある。そう言い聞かせて、あきらめようとした瞬間、

「リルに触るな!」

 市長の部屋が勢いよく開き、誰かがコークスを思いきり殴り飛ばした。

「なんだ……お前は……!」

 殴られたマーティ市長がよろよろと窓辺にすがる。

「ガイ……」

 ドレスを脱がされかけているリルを見て、怒り心頭といったところらしく、ガイは腰の剣を抜くとコークスに突き付けた。

「姿が見えないときは、ダンスの途中に抜けて、きれいな女を部屋に連れ込んでいるんだって、お前の家臣たちが教えてくれたぞ。よくもやってくれたな。このヘンタイ市長!」

「ま、待て。申し訳なかった。命だけは助けてくれ」

 マーティ市長がその場に土下座し、ひたすら謝り始めた。リルは今すぐにでも切り払ってやりたいと思ったが、優しいガイはその命乞いを受けて躊躇していた。しかし、

「あなたの相手はあたしよ」

 その命乞いもむなしく、窓を割ってダータンが現れ、コークスの首を切り落としてしまった。床に大量の血が流れたかと思うと、置物のようになった頭がごろんと転がり、さきほどまでリルを押さえつけていた大きな体が倒れた。

「ダータン……‼」

 殺してこいと言いながら、ついていたのか。そのあざとさにあきれるばかりだ。

「そんなに睨まないでよ。約束通り、薬は返してあげるから」

 リルの殺気立った視線が恐ろしくなったのか、ダータンはさっさと薬を渡してくれた。

「リルにこんなことさせたのは、お前だな?」

 ガイの怒りの矛先が今度はダータンに向く。ダータンは、

「もとはといえば、とられたあなたが悪いのよ」

 ぺろりと舌を出して、ガイの落ち度を指摘する。

「それは……」

 ダータンに痛いところを突かれて、ガイが言葉に詰まる。

「まあ、あたしは楽しかったからいいけど?」

 ダータンはこれを狙っていたのか。なんだかんだ言いながら、仲間だと思っていたが、その考えは今日から改めないといけない。

「人が苦しんでいるのが……か?」

 ガイが信じられないとばかりに呟く。しかし、ダータンは気にも止めない。それどころか、

「ええ。とってもいい気味だわ。レイズ様はいつでもその子をひいきするからね。個人的には、その子が苦しむ姿をもう少し見ていたかったくらいよ」

 男にしては高い声でからかうように笑っていた。

「お前なあ……!」

 ガイがダータンに食って掛かっていったが、ダータンは軽やかにかわすと、

「邪魔が入って本当に残念ね。あたしは引き揚げるわ」

最後まであざ笑いながら、煙幕を投げ、軽やかに窓から去っていった。

「大丈夫か?」

 ごほごほとせき込みながら、ガイがリルに尋ねる。全くこの煙幕は煙たいことこの上ない。

「……ありがとう。助けてくれて」

 リルはガイに素直にお礼を言った。ガイのおかげでコークスの餌食にならずにすんだ。自業自得だと諦めていたつもりだったけど、やはり恐怖は感じていたらしい。もう大丈夫なのだと思うと、ほっとして涙が出てきた。ぽたぽたと涙を流していると、ガイがその隣に腰かけ、そっと抱き寄せてくれた。

「抱え込んで……こんなことして……もっと頼ってくれよ」

 ガイの温もりが伝わってくる。なんて温かいのだろう。

「だって、ガイに迷惑かけちゃうし……」

 本当は何事もなかったかのように薬をガイに返すだけだった。こんなことになるとは思いもしなかったのだ。つい言い訳がましくなってしまう。すると、

「リルになら、いくらでも迷惑かけられてもいい。こんな思いをする方がずっと嫌だ」

 ガイがリルをもっと強く抱きしめる。まっすぐな言葉が心に刺さって、チクチクと痛かった。

「ごめんなさい……」

 いつもとやっていることは変わらないのに、そんな風に言われるとものすごく悪いようなことをしたような気になる。

「わかってくれればいいんだ」

 ぽんぽんと優しくリルの頭を撫でる。先ほどまでの険しい表情はなく、いつもの優しい笑顔に戻っていた。

「もう……気安く触らないでよ……」

 本当はもう少し抱きしめていてほしいくらいなのに、口を開けば文句ばかり言ってしまう。でも、

「おう。それは悪かったな」

 必死で涙をぬぐっているリルを見れば、それが本音ではないことはわかるらしい。ガイは、悪びれもせず、にこにことその様子を眺めていた。

「行こう。フォスター先生に薬を渡したらすぐに出るぞ。こんなところ、長居は無用だ」

 リルが落ち着くまで待ち、ベッドに腰かけていたガイが切り出した。

「うん」

 リルもドレスを整えると、ガイと一緒に部屋の外に出た。長い廊下を歩き、2階へと下りる。その時、

「こんなところで何をしている?」

 黒髪の男に呼び止められた。黒い仮面をしていて顔はよくわからないが、どこか聞き覚えがある声だとリルは思った。

「散歩だ」

 ガイが黒髪の男に強い口調でぴしゃりと言い放つ。しかし、男は引き下がる様子はない。それどころか、

「ふうん……まあ、そういうことにしておいてやろう。君にリルを預けるのは惜しいけどな」

 と上から見下ろしたような嫌味を言った。

「なんだと!」

 ガイがまたかんかんに怒りだした。今にも殴りかかりそうなガイをリルは冷静に制し、

「なぜ私のことを知っているのですか?」

 自分の疑問をぶつける。黒い仮面の男の答えを待っていたが、

「大変だ!」

 それよりも先に下でコークスの家臣たちがばたばたとし始めた。どうやら市長の死に気づいたらしい。

「追手が来る前に行け。ここは僕がなんとかしよう」

 黒い仮面の男は結局、正体を明かしてくれなかった。

「かっこつけやがって! 行くぞ!」

 ちっと舌打ちし、ガイが走り出す。黒い仮面の男の正体が気になりはしたが、ここで悠長に話している時間はなさそうだ。リルもその後を追うことにした。

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