無題

上松 煌(うえまつ あきら)

無題


無題


         その1


 2月末から10日間、嫁が友達と海外に行っちまったんでさ、おれも外房の貸別荘に移動した。

飼い猫様にはペットホテルに御下向願い奉ってね。


 岬の崖の上のコンドミニアムで、寄せる波音は聞こえるんだが、茂る木々で波そのものは見えない。

それでも緑の上にでっかい水平線が広がる。

春先の荒れた天候が多くて、毎日毎日、ぶっ飛びそうな風。

磯を噛む轟。


 2階のベランダに立ち、霧のように寄せる飛沫をあびると、髪と唇に塩を感じる。

波音が船べりを打つ外洋のうねり、風音が帆柱や索を抜けるきしみに代わる。

貸別荘が大航海時代の英国の高速フリゲート艦になり、おれはその艦長だ。

積載砲百数十門を誇るこの『天のいと高き所』号を海軍からかすめ取り、追尾を巻きながら喜望峰回りで新大陸をめざす。

艦首のバウ・スプリットには剣を携えた大天使像をかかげるのだ。


 行く手に行きかうコンテナ船やタンカーは、先回りしてはばむイギリス艦だ。

たまに現れる白い客船はスペインの金塊を積んだお宝船だ。

おれは私掠許可は持たないが、帆走技術を駆使して忍び寄る。


 …ってな空想をして、楽しく過ごしたw

ところが、雄大な海のオゾンをあびて、おれの肝心な『死にたい病』がきれいさっぱり消え去っちまった。

『死にたい病』こそ、おれの創作意欲の源だったのに…。


 ああん、書けない。書けないよう~。

おまえら、海には気をつけろ!

うっかりすると詰むぞw


          その2


 ガキのころ読んだ一節。

『人間は幸せすぎると、死にたくなる生き物なんだ』

まさにコレ。


 事業もこんな世の中にしては順調。

嫁も家庭もあったかい。

頼りにできる親友もいるし、愛猫様は愛らしい。

何一つ、不足ない。


 それでもいるのさ。

生(エロス)と死(タナトス)の挟間にあって死(タナトス)に傾くヤツが、確実に一定数いる。


 バカな政治屋や、考えなしのクズはいつも言うんだ。

「福祉大国のスウェーデンだって自殺者はいる。福祉なんて必要ない」

違う。

人間は不幸や絶望に追い詰められて死ぬだけじゃない。

幸せでも死を望む。

なぜか????


 究極の自己愛だからさ。

容姿や履歴も満足できる自分、不満のない環境境遇。

毎日が結構楽しくて、そこそこ思いどおりに生きられて、適度な刺激を満喫できる。

心地よい人間関係や安心できる家族、まわりからもちょっぴり気を使ってもらえてる。

う~ん、おれってイイじゃん。


 だからこそ、自分自身をぶち壊してやりたい。

台無しにしてやりたい。

抹殺してやりたい。


 なぜって?

おれはおれ自身にとって唯一無二の究極だからだ。

優れる宝はさらにないからだ。


 それで死にたい病の発作が起きる。

同時に書きたい病の持病もうずく。

この衝動はとても強くて、書かずにはいられない。

表現せずにはいられない。

訴えずには治まらないんだ。

今までその繰り返しで駄作を書いてきた。


 それが海近い貸別荘で10日間、1人の時間を持っただけできれいさっぱり消え去っちまった。

残ったのは腑抜けのおれ。

漠然とした幸福感の底に、海が鳴りどよむだけ。


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無題 上松 煌(うえまつ あきら) @akira4256

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