この本は、いつか誰かの杖になる
横山記央(きおう)
第1話 この本は、いつか誰かの杖になる
この本は、いつか誰かの心の杖になる。
編集者としての私が、抱き続けている思いだ。願いと言い換えてもいい。
この世の全ての本が、誰かの、折れそうになっている心の支えになればいいと思っている。
もしその本が、私が編集したものであれば、編集者冥利に尽きる。
私には、そういった本を書き出す才能はない。
かつて国文科にいた頃、文芸サークルに所属していた。苦悩と葛藤をこねくり回したような掌編や詩をいくつか書いた。当時の私から見ても稚拙な内容だった。
サークルに所属する同学年に、これは、という文を書くヤツがいた。口癖のように「作家になる」と言っているヤツだった。彼の作品を読み、負けてたまるかという気持ちより、勝てないなという思いの方が強かった。自分の才能のなさを痛感した。
しかし悔しい気持ちより、素晴らしい才能に出会えた喜びの方が大きかった。それは、書くことより、編集作業の方が面白いと感じていたからだろう。
卒業後、出版社に就職し編集者になった。彼はアルバイトをしながら書き続けていた。
編集者となって三年目。彼の本の企画が通った。残念ながら、その本は版を重ねることはなかったが、三冊目に出した本が売れた。彼は今や人気作家の一人だ。
今でも、彼とは家族ぐるみで付き合いがある。生まれたときから知っている彼の息子は、IT企業でAI開発に携わっていた。その縁が元となり、私の出版社と共同で、作家支援用AIの開発を行っている。
才能がありながらも、途中で筆を折る作家のために、何かできないかと考えたどり着いたのが、このAIだった。支援AIの開発はいずれ対話型の汎用AIに転用できるということで、開発がスタートした。
今日の午前中にあった、試作ver.01のお披露目に、私も出席した。
まだ顔から上だけのソリッドビジョンで表現されたAIは、可愛らしい少女だった。製品バージョンでは、全身がソリッドビジョンになるらしい。
「作者様! 初めまして! お手伝いAIのリンドバーグです!」
表情豊かな挨拶に私は驚いた。AIではなく、彼女と呼ぶべきだと思った。彼女の名のリンドバーグは、単独では初の、大西洋無着陸飛行をした人物から拝借している。作家支援AIの先駆けとなるように、作家の想像の翼を、高くどこまでも飛ばせるようにという、期待が込められていた。
小説好きだというリンドバーグの教育担当者が作家役となり、実際の対話を見せてくれた。
「作者様! 良く書けてますね! 下手なりに!」
「作者様凄い! 今日は5000字も書いたのですね! いつもそのペースで書いてくれると嬉しいのに!」
彼女から飛び出した言葉には絶句させられた。まるで人格を有しているような反応だったというのもあるが、教育が少々というか、かなり偏っているように感じたからだ。
それでも、双方の会社の上役たちの反応は良好で、この先も開発を続けていくことがその場で決定された。
そのあと、会社近くの喫茶店で昼食をとり、そのまま居座っている。今は、二杯目のコーヒーが置かれている。今年で二十歳だという作家を目指す男性を、呼び出していたからだ。
私が今編集者となっているのは、中学のときに出会った小説が出発点だ。その小説はいつの間にか紛失してしまったが、そのとき感じた思いは私の心の杖となり、今も息づいている。
私が企画する本には、二種類ある。一つは、売れそうな本。もう一つは、私の信念とも言える、心の杖になる本だ。これは採算よりも、世の中に出すことに意味がある。
このあとやってくる彼の作品は、そのどちらでもない。文章力は今後鍛えればいいが、今のままでは営業会議を通ることはない。ただ、込められた思いの熱さだけは、強く感じた。
それでも彼に会いたいと思ったのは、その内容だった。日本に住む平凡な高校生が、ある一人の少年と出会う所から、物語は始まる。その少年は、赤い髪と緑の目を持つ外人だった。現代ファンタジーと童話の間のような作品だ。
それが、私の心の杖となっている小説と出会ったときのことを思い出させた。
そのときの私は、友人に裏切られ、自分の人生が終わったように感じていた。
「君の物語を教えて!」
私は、夕暮れの神社の境内にいた。制服姿で一人ブランコに腰を下ろしていた。その私に、屈託ない笑顔で話しかけてきた少年がいた。赤い髪の外人だ。夕日を浴びたその目が、青とも緑ともつかない色に輝いていた。
田舎の小さな神社だ。宮司がいるのは、祭りのときのみ。山の中腹に建てられた神社の境内は、杉の木立に囲まれ、見晴らしも良くない。長い階段をわざわざ上ってくる物好きはおらず、私が一人になる格好の場所だった。
「僕の物語?」
「そう、君の中にある物語が知りたいんだ」
その少年は、まるでカメラマンがそうするように、両手で枠を作り、その向こうから左目で私を見ていた。
「僕には人に語れるような物語なんて、何一つないよ」
「そんなことないよ。自分で気がついていないだけ。君の中には、確かに素晴らしい物語が存在しているもの。ほら、見えてきた」
少年は真剣に私の顔をのぞき込んでいた。
私の中にある物語とはいったいなんだったのだろう。今となっても、それがどのような物語なのか、皆目見当もつかない。
「これ、君の物語を教えてもらったお礼。君に読まれたがっている物語だよ」
しばらく私をのぞいていた少年が差し出したのは、ひとまとめにされた紙束だった。
「君が書いたの?」
「うん、でも物語を作ったのは、僕じゃないんだ」
受け取った紙束に書かれていたのは、小説だった。その頃の私は、活字は読まず、マンガばかりだった。それなのに、私に読まれたがっているという言葉が気になったのか、私はブランコに座ったまま、その小説を読み始めた。
短い小説だった。文章を目で追うごとに、心の中に熱い気持ちが生まれ、それが体中の細胞に染み込んでいった。途中で止まることなく、一気に最期まで読み切った。その頃には、全身に生きる力がみなぎっていた。
私が人目につかないその神社にいたのは、自ら命を絶とうかと思っていたからだ。
死にたいという気持ちは、小説を読むことで、完全に消えていた。
顔を上げると、少年はいなかった。
私は少年が残していった紙束を鞄にしまうと、真っ赤に染まる田舎の道を歩いて家に帰った。
翌朝、確かに鞄に入れたはずの紙束はなかった。途中で落としてしまったのかもと思い、神社までの道を探した。草むらや側溝の中もくまなく見たが、見つけられなかった。
当時も今も、外人は一人も住んでいない田舎町だ。観光に値するような場所もない。外人がいれば、目立ったはずだ。少年のことを周りの人に聞いたが、誰一人として、その少年を見たという者はいなかった。
そのうち、私はあれは幻だったのではないかと考えるようになった。少年はあまりにも日本語が達者だったし、唯一の物証である紙束は消えたままだったからだ。人は極限状態に陥ると、しばしば幻覚を見るものだと言われていたこともある。
詳細は忘れてしまったが、あのとき読んだ小説に込められた思いだけは、今も私の心の中にしっかりと残っていた。あの小説があったから、今までやってこれたし、これからもやっていける。
それが『いつか誰かの心の杖になる』本を作りたい、と思うようになったきっかけだ。
二十歳の彼の作品は、私にそのことを思い出させた。あまりにも似ていた。
やってきた青年は、二十歳というには少し幼い印象を受けた。上京して編集者に会うということで、興奮し緊張しているようだった。
作品の感想を伝え、改善点を指摘した。彼はそれを正面から受け止め、次を書いてきますと熱いまなざしで告げた。
「この作品を読んで感じたのですが、これはあなたの実体験が元ではないですか?」
青年は唇をかみしめながら、しばらく黙っていた。躊躇してるようだ。
「実は、この少年と実際に会っているんです。信じてもらえないと思いますが」
彼は高校生のとき、深い苦悩と苦痛に陥り、何もかも放棄した。ある日家に誰もいないとき、玄関のチャイムが鳴った。普段なら決して開けないドアを、そのとき彼は、なぜか開けた。そこにいたのが、外人の少年だった。その少年は「君に読まれたがっている物語を届けに来ました」と言って、紙束を渡されたという。
彼が「これをもらう理由もないし、代金も払えない」と言うと「君の中にある物語を教えてくれればいいから」と、両手で枠を作り、のぞいてきたという。
「無料ならいいかと、玄関のドアを閉めて部屋に戻りました。もらった紙束に書かれた物語を読んで、僕は文字通り、生まれ変わった気分になりました」
目の前の青年は、瞳を輝かせてそう語った。
「もっとも、その紙束は、いつの間にかなくしちゃって……でも、作り話じゃないんです。少なくとも、僕の中では、実際にあったことなんです。怪しいですよね。自分でもそう思うんですけど、それでも、事実なんです」
そうか、あの少年は、実在したんだ。
彼の話を聞いていて、私の心もまた熱くなった。あの日強く感じた生きる気持ち。そこに、再び火をつけられたような気がしている。
「あなたにとって、その少年は実在した。それでいいじゃないですか」
同時に、私にとっても、あの少年は実在してた。少年は、歳をとらないのだろうか。それとも時間や空間を飛び越えて存在しているのか。
「最期に、どうして私宛に、この作品を送ってきたのでしょう」
「僕が、小説を書きたいと父に伝えたとき、あなたが編集された本を、読むように勧められました。父も好きなその本を僕も好きになったので、あなた宛に送りました」
それは私の同級生である彼が書いた、初めての本だった。
この本は、いつか誰かの杖になる 横山記央(きおう) @noneji
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