海からの風に

上松 煌(うえまつ あきら)

海からの風に

 「あ、ごめんね、わたしのために時間取らしちゃって…」

「いいよ今さら。で、なによ?」

 高台にある安針塚(あんじんづか)駅から、谷間のように見下ろせる小さな古い喫茶店。

 午後の客もまばらな店奥で颯太(そうた)と話す。


「うん…。知ってるよね。みんなが言ってること」

「あ?亮輔(りょうすけ)の件か?ん~、知らんワケじゃないけど…」

「亮くんとはたまたま家が近かっただけなの。まぁ、100歩ゆずったとしても小・中いっしょだったから少しは知り合いってだけ」

「ま、おまえには凱揮(がいき)がいるんだし、そんなもんだろ。周りも無責任だよな。うわさにはあんましビビるなよ。よけい面白がって盛られるぞ」

「うん、わかってる。で…それでね、颯太にお願いなんだけど…、あの…あのね、亮くんに帰してもらいたい物あるの」


 「ああ~?なに、貢物受け取ったのかよ。光子(ひかるこ)、おまえバッカだなぁ。だから亮輔が舞い上がるんだ。おまえも悪いっ」

「ごめんなさい。本当にわたしがいけないと思う。でも、いらないなら目の前で捨てろって言われて…。わたし、ほんとに捨てたって言うか、地面に置いたの。そうしたら亮くん、いきなりふんづけちゃって…」

「っちゃぁ、おまえ、それ拾って来たのか…」

「うん、プレゼントには罪ないし…。わたし、つぶれちゃった箱、見捨てて来られなかった。でも、このこと梨恵(りえ)ちゃんには言わないでね。バカって怒られるから」

「ん~、光子(ひかるこ)らしいワ。わかった、おれが帰して来てやる。だけど次はない。これやると男は二重に傷付くんだぜ」


 颯太は言葉はガサツだけれど、物事を過不足なくはっきり伝えてくれる。

 クラブも伝統的な大学ラグビーのインサイド・センターだから、大きくて機敏な体は学部やゼミ仲間にも押しがきく。

 頼りにできる大切な友達だ。

 それにしても光子(ひかるこ)が亮輔にお熱なんてだれが言いふらしたんだろう?

 颯太とカノの梨恵(りえ)、凱揮とカノの光子(ひかるこ)で4人の横須賀キャンパス仲間。

 Y大3年の今の今まで、みんなで楽しくやって来たのに。


 「なにか食べる?お礼におごるね」

「おっ、わりい。じゃ、ナポリタンな。ここの味、親も好きなんだよ。もろトラッド」

「ここの地元の人、みんなそう言うよね。わたしは平塚だけど、颯太と友達になってほんっと、ここが好きになったもん。誘ってもらって引っ越してよかった」

「梨恵(りえ)も同じこと言ってるよ。ちっちぇ田舎だからな。ここしか喫茶店なかったんだぜ」

「それがいいんだよね、いつまでもこのままでいて欲しいな。目の前の交番もずっとあのままで」

「うん。コンビニもグルメも遊ぶとこもないけどさ、なんっつうか、美しき昭和なんだ。やっぱ日本は昭和だよな」

「うふっ、昭和なんか知らないくせに。でも、颯もぜんぜんかわらないよね。1年の時からホントいい人。社会に出てもずうっと颯太と梨恵、凱揮とわたしでいようね」

「ああ。ま、そんでいいんじゃね」


 起伏の多い坂だらけのこの町。

 ひとつ駅を置いた隣町の汐入は本当に発展してしまったけれど、この安針塚はかわらない。

 古い電柱や石垣の陰に、颯太や住民たちの思い出がそっと隠れている。

 山の緑と海の青。

 木々のざわめきと寄せる波のきらめき。

 砂まじりの潮風だって、慣れればオゾンいっぱいだ。


       ◇ ◇ ◇


 「波音がいいよな」

 凱揮(がいき)がボソッと言う。

「はぁ?裏の有料道路カッ飛ぶ車の音しか聞こえねえべ。おまえはこのごろおかしいよ。第一、観光客や恋人じゃねえんだから、夕方に逸見波止場(へみはとば)でお話しましょって、ホモかよ」

 颯太(そうた)の言葉にフフッと凱揮が笑う。

「うん、変だな…」

 それで会話が途切れる。


 夕凪で風も止んだ。

 うっとおしい6月半ばの大気の中。

 目の前には戦艦陸奥の壮大な第四主砲が見えていて、散策の人たちがちらほらしている。

 水平線は見えなくて、港湾クレーンや建物、停泊する大小の船に切り取られた海。

 カノの梨恵となら見飽きたここでも楽しいけれど、いくら友達でも♂とでは颯太(そうた)は手持無沙汰だ。

「人生ってなんだろ~な?」

「はあぁっ?」

 いきなりの話題に声が跳ね上がる。


「なんだろ~なって何よ。おまえ、ほんっとおかしい。っつうか、このごろ光子(ひかるこ)にスゲエ冷たいのは何?あいつ悩んでるよ。凱揮、まさかちがう女と?」

「あはっ。かもな」

 なんとなく投げやりな響き。

「え?なんだよ、その言い方。うわさ気にしてスネてんのかよ。彼女、おまえが好きで好きでたまんねえんだよ。わかるだろ?可哀想じゃん」

「いや、なんつうか、…彼女、もう、だれかいるんだろ」

 颯太がちょっと絶句する。

「凱揮ぃ~。それウ・ワ・サ。おまえがそれ言っちゃおしめえよ」

 凱揮は返事をしないから、また会話が途切れた。


 「ちょっと歩くか」

 立ち上がる彼に、颯太はつられてついて行く。

 足は逸見岸壁に向いているから、自衛隊のイージス艦が1隻、夕闇に消え入るようにもやっているのが見える。

「…横須賀は軍の街…だ…」

 所在無げな凱揮の言葉はだれに向けられたものだろう。


 「おれ、もう、アパートたたんでさ、東京帰ろうかと思ってる」

「え、話ってそれ?ってことは…もしかしてガッコもやめるってこと?凱揮はアタマいいから、どっか入りなおすとか?…あっ、まさか埼玉の防衛医大とか?おまえ、ホントはそっち進学したかったって言ってたもんな。でも、いくら官だからって国立から防医大?」

 凱揮はまた黙る。

 フェンスに依りかかると、手すり越しに見える暗い水面(みなも)。

 ちょうど上げ潮どきで、ひたひたと波が満ちてくるのがわかる。

 潮の香りも薄い浅濁りの海だけど、確実に自然の営みの中にあるのだ。

「いや…まぁ。もう、防衛医大は選択外だよ。将来の事はあまり考えてない」

「なんだよ。まさか、ボクちゃん、あと1年ちょっとで社会に出るのコワイってかぁ?」

「まさか。そんな単純なことならいいんだけど」


 「まぁ、おまえ自身の事だしな。自分で悔いのねえように動くしかない。だけど、これだけは言っとく。光子(ひかるこ)を何とかしろ。おめえのカノだろ」

 凱揮が何か言いかけて、途中で黙る。

「だれかが、い…」

 という言葉が口の動きでわかる。

「まだ言うのかよっ」

 颯太の声が尖った。

 すらりと長身でしなやかな体躯の凱揮は、しっかりと力強い颯太よりかなり華奢だ。

 颯太が本気で怒ったら、彼など敵ではない。


 「いいか、凱揮。ほんとグーで殴るぞ。おまえ。自分の女だろ。違う♂とのうわさ立って、ま、彼女への信頼度落ちたのはわかる。けど、好きなんだろ。今までアツアツでやってきたじゃん。弱っええなぁ。なに逃げてんだよっ」

 颯太はまっすぐな性格だ。

 本気で心を痛めているのがわかる。

 まくしたてる彼の口元を凱揮はぼんやり見つめた。

 放心というか、途方に暮れた態度に颯太も勢いを失う。

「ま、いいワ…どーでも」


       ◇ ◇ ◇


 安針塚駅に隣接した、この町でたったひとつの大型ストアの前。

 凱揮は東京に帰って今日もいないから、光子(ひかるこ)は夕飯をともにした颯太と梨恵に別れを告げる。

「いっしょにいよ?すぐじゃん、いいじゃん」

 梨恵が気を使ってくれる。

 彼女のアパートはストアから道路向こうの坂の中腹。

 もう、見えていてほんとにすぐなんだけど、たまには2人を開放したい。

「いいよ。ちょっとレポートあるし」

「なんだよ、光子(ひかるこ)。遠慮すんな。おまえがいたってやることはヤルよ」

「ば~か」

 颯太が梨恵にピシャっとぶたれた。


 楽しく笑って坂道を引き返す。

 いつもの喫茶店を過ぎれば小さな川があって、狭い石段が続いている。

 螺旋を描くように40メートルも上がれば、丘のてっぺんの彼女のアパート。

 家並みはちょっと途切れるけれど、新築で日当たりのいい1Kだ。

 夜になれば街灯もまばらな暗い道にも、この3年間ですっかり慣れている。


 自分の足音を数えながら、4世帯のこじんまりした白い建物にたどり着く。

「ルッコ(ひかるこ)。遅すぎ」

 ガケ側の狭い庭のほうから誰かがこっちに来る。

「えっ?」

 一瞬、固まる。

「…りょう、亮くん?…やだ…」

 思わず、後じさりしてしまう。

「亮くん、やだよ。わたし迷惑。びっくりしちゃった。…怖い」

「部屋で話したいから待ってた」

「やめてっ、密室になるもん。話したけりゃ下の茶店行こっ」

 どうしても声が高くなる。


 亮輔の態度から、何か重苦しいものを感じる。

 いつもの彼ではない気がする。

 嫌な予感がウソ寒く背筋を走る。

 とっさに踵を返す。

「ほんとに喫茶店行こ。今日、部屋がちょっと乱雑だから」

 言いわけが口に出た。


 「いいっ」

 ちょっとヒステリックな声とともに腕がつかまれ、引き寄せられる。

 亮輔は小柄で華奢だけど、それでも男の力だ。

 彼女はよろめきながら彼にぶつかった。

 押し殺した声が耳元でささやく。

「凱揮といつまで付き合ってんだ。ぼくは凱揮にルッコ(ひかるこ)をよろしくって頼まれたんだよっ」

「うそっ。なんのこと?」


 唇を奪われそうになって、必死で突っぱねる。

「そんなのっわたし知らないっ。凱揮にも聞いてない。わたしは信じないっ」

 亮輔が執拗に抱きすくめてくる。

 光子(ひかるこ)は手の甲で自分の口をガードする。

 外されそうになって、思わず自分の手の皮膚に噛み付く。

 アパートの2階に灯りが見える。

 力をもらえた気がして、思いっきり振り離す。

 それでよろめいて、ガシャシャッと立てかけてあった自転車に突っ込む。

 亮輔が覆いかぶさった。

「だれか来てくださいっ。だれかぁっ。火事よっ、火事ですぅっ」

 とっさに、自分でもびっくりするくらいの金切り声が出た。

 こういう場合、火事という言葉は有効だ。

 2階の角部屋の窓が急いで開き、1階の奥からも人の出てくる気配がする。


 亮輔は機敏に身をひるがえし、全力で石段をかけ下って行った。

「痴漢?未遂でもいやよねえ…」

「ま、火事じゃなくて良かった。警察には一応、言っておいたほうがいいね」

 住民たちの声が遠くに聞こえる。

 だいじょうぶです、すみませんと返事しながらも、立ちくらみのように呆然とする。

 幼馴染の亮輔。

 小学校の時はちょっとコミュ症で、やりづらいクラス・メイト。

 遠くから粘着するみたいなひねくれた言動が多かったけれど、いっしょだった中学校ではそれほど問題はなかった。

 高校は別になったのに、Y大でまたいっしょなのは何の偶然だろう?


       ◇ ◇ ◇


 凱揮は今日もひとりだ。

 選択した講義が終わると、京浜急行でさっさと「塚山公園」に向かって行く。

 江戸の昔、徳川家康の外交顧問として幕府につかえた英国人ウィリアム・アダムスの供養塔がある。

 観光地でも史跡でもあるので結構知られている場所だ。

 息を切らしながら、園内の「港の見える丘」に向けて登ると、梅雨時のしめった大気の中にあじさいだけが鮮やかだ。


 考えなければならないことが山積している。

 そんな焦りにも似た気持ちが、彼にひとりを選ばせる。

 重い曇り空の下の市街地。

 横須賀本港の艦船や米軍ベース・キャンプ、緑におおわれた猿島も今日は灰色に陰る。

 高台からの開けた眺望は考え事にふさわしい。

 彼はベンチに腰かけて、自らを俯瞰する。


 『そりゃ、疑問はあるだろうさ。なぜ?って…。だけど、それを考えてどうなる? きみはこれと一生付き合わなくてはいけないんだ。確実に人生の一部になってしまう。希望や夢を捨てなくてはいけないこともあるだろう。人生設計を変えざるを得ない。それでもきみには私がいる。私はきみをサポートできると考えているよ』

『ありがとうございます』

 自分の感謝の返事が心に反響する。

 そうだ、ひとりじゃない。

 心強いじゃないか、専門家の補佐があるのだ。

 自分は十分立ち向かえるはずだ。

 臆病や弱虫ではないはずだ。


 あれは風邪のような微熱からはじまった。

 食欲は落ちたけれど寝込むほどではないし、そのままサークルの彫像部を続けた。

 塑像の製作が佳境に入っていたからだ。

 医者には行かず、市販の薬に頼った。

 今までの経験ではそれで十分だった。

 2ヵ月ぐらいたってはじまったのが、胸痛と動悸息切れとのどが詰まる感じ。

 さすがに面倒くささを振り切って近くの内科に向かった。

 診断は風邪をこじらせたもの。

 細かいチリ・ホコリやカビの心配があるので、塑像の製作はしばらく禁止になった。

 そのせいか症状は改善に向かったのだ。


 「凱揮~」

 聞きなれた声が聞こえた。

「お、来たのか」

 振り向く彼に、颯太と梨恵が手を振ってやってくる。

「ね。やっぱここだったでしょ。あたしの勘バッチね」

 梨恵は得意そうだ。


 「あれ、光子(ひかるこ)は?」

「やっぱ、気んなるか」颯太が笑う。「彼女、平塚に帰ったんだよ。なっ」

 梨恵に同意を求める。

「うん、そう。なんか実家に用があるんだって」

「ふ~ん?」

 本来なら、凱揮が一番に把握していなければならない。

 それを友人に聞く自分に、少しだけ嫌気がさす。


 「このごろ、ひたすら孤独愛してるんだね」

「そ、お見限りだよなぁ」

 2人に言われて、ちょっと返事に詰まる。

「ま、いろいろあって…さ」

 よくある言いわけだ。

「ふ~ん、はっきり言えばぁ?凱揮はなんか隠してる。あんた、光子(ひかるこ)のことを本気でキライになってなんかいない。あたし、見ていてなんとなくわかるもん。あんたら男は女の勘を甘く見ちゃダメよぉ」

 

 颯太と凱揮が同時に苦笑した。

「隠してなんかいないよ。この間、颯に話したけど…?」

 矛先を変えたくて颯太を見ても、梨恵が素早く答えてしまう。

「ああ、ガッコやめて東京帰るってこと?理由は?ちゃんとした理由がなきゃ。あと1年ちょいなのにフツー辞めないでしょ。動機がないなんて甘々。世間知らずでバッカみたい。ほんと幼稚」

 ハキハキと物を言う梨恵は理知的な美人だ。

 けっこうきついことも言うけど、心は思いやりでいっぱいなのはこの3年間でわかっている。

 それに、まぁ、確かに理屈は彼女の言うとおりだ。

 凱揮は困って、笑顔を強くした。

「いや…そう言われても…。なんとなく辞めたいじゃ、ダメかな?」

「ダメに決まってるでしょ。いくら売り手市場だって、中退はハンデでかすぎだもん」

「いや、ホント」颯太も口をそろえる。「中退は止めろな。他に行きたい大学があるならいい。だけど、おまえの話聞いてると、なんとなくだろ?それってヤバすぎ」

「う~ん。まぁ、な…」

 凱揮はため息をついて黙る。


 言ってしまおうか?

 いや、言っても彼らにはどうすることもできないのだ。

 友達みんなを心配させるだけのことなら、このまま言わないで済ませたい。

 そしてできるなら、忘れられた影のようにそっと消えて行きたいのだ。


       ◇ ◇ ◇


 「あら、急に帰って来たと思ったら、クローゼットを家捜し?ま、いいけど、ルッコ(ひかるこ)はちゃんと食べてるの?お母さん今夜はあなた好みでいくわよ。鶏とアボカドのガトー仕立てに甘ダイと夏野菜のチーズ焼き。ビワのソースは岩塩をちょこっとかけたビーフで。ね?いいでしょ。ルッコ、好きだもんねぇ」

「わぁ~、ありがとう」

 母の明るい声は相変わらずだ。

 家に帰って来るだけで心が軽く暖かくなる。

 夏休み前には前期テスト期間が半月ちょっとあるけど、実家から通ってもいい気がする。

 交通は遠くなっても、ひとりぼっちのアパートで重い気持ちをかかえて過ごすよりはずっといい。

 なんだか気持ちが浮き立って、休み中に近くで求人でもあれば、今年はバイトにいそしんでみたい気分だ。


 古い紙筒といっしょに小中学校のころのアルバムが出てくる。

 なんだか無性に子供のころの思い出を確かめたくて帰って来たのだ。

 小学校の友達と好きだった男の子。

 そのまま持ち上がりの中学の親友たち。

 懐かしい顔々の隅に亮輔もいる。

 ふてくされたようにちょっと離れて、伸びた前髪の下から上目遣いに彼女を見る目。


 そう言えば…。

 ふっと昔の思い出がよぎる。

 あれは…。

 もう、定かではないけど、小学校1~2年?

 いつもちりめんのガマ口に入れていた、きれいな2枚の500円玉。

 造幣局から巷に流通したばかりの傷のない真新しいお金。

 友達と別れていつも一人になる道で、なんとなく取り出して見ていた。

 車も自転車も少ないから、気を使わなくても歩ける通学路だ。

 午後間もない光の中できらめく銀色。

 ちょっと投げ上げると、濃い青色の空でUFOみたいにグレーに陰る。

 一瞬ののちには輝きながらアスファルトに落ちて転げる。

 やさしい鈴の音色。


 色と音が楽しくて少し高く投げ上げた。

 はずみで斜めの放物線になり、2枚とも道路の端に落ち、受け止めようとした指先を跳ねて行く。

 あっと後悔した時には、もう、溝に消えた後だった。

 急いで駆け寄る。


 農業用水路の浅い澄んだ水が見えるけど、底には泥がたまっている。

 腹ばいになって思い切り腕を伸ばしても、水面には遥かに遠い。

 どこに行ったのか、500円玉は沈んで見えない。

 棒なんかでかき回したら、よけいに泥が深くなってしまう。

 それでも目は長い棒状のものをさがす。

 でも、何もない。

 人の家の生け垣の枝を、かなり長く折るしかない。

 そんな勇気は彼女にはない。


 なんというバカをやってしまったのだろう。

 宝物だったのに。

 光の反射に心からうっとりできたのに。

 きっと、もう取れない。

 小学低学年には500円玉2枚は安い金額ではない。

 お母さんが知ったら、何と言うだろう。


 後悔と反省と困惑と絶望で、自然に涙があふれる。

 手でふいてもふいてもほおから伝って、そでや地面を濡らしてしまう。

 嗚咽をこらえたくて、しゃがみこんだ両ひざに顔を押し付けた。


 「な~に泣いてる?」

 からかうような声が聞こえた。

 聞きなれた亮輔の声だ。

 鼻先で嗤うようないじわるな言い方。

 往来で泣いているなんて、やっぱり恥ずかしいから急いで涙をふく。

「おっ落ち、ち、ちゃったの。おっ、おっ、お金」

 こらえているのにしゃくりあげてしまう。

「へ~え、いくら?」

「えっと、ごっ、500円。2枚で、でっ1,000円。も、もう、どこに落ちたか、見えないの」


 少し沈黙があった。

「…それ、拾えるけどぉ?」

 探るような顔とよどんだ声がイヤだけど、希望がよみがえって涙が止まる。

「拾える?」

「マジで。でも、ど~しようかなぁ?タダじゃねぇ。準備大変だしぃ」

「じゃ、お礼すればいい?」

「まぁね」

「あの、好きなアイスとかおごるんじゃだめ?」

「アイスって、バカにしてる?」

「え?そんなんじゃ安すぎってこと?」

「ったりめ~じゃん。とにかく家行って、落とした金は取ってやるよ。お礼忘れるな」


 亮輔の家は兼業農家だから、住宅街からちょっとはずれた乗馬クラブのある手前だ。

 片道150メートルはある。

 往復で300メートルだから、小学生には確かに手間がかかる。

 彼は光子(ひかるこ)を押さえつけるようにチラリと見てから、走って角を曲って行った。


 「うんせっ、うんせっ、うんせっ」

 角の向こうを、掛け声が近付いてくる。

 急いで走って出迎えた。

「亮ちゃん、それ、なに?」

 胸に抱えて来たのは、重そうな金属の塊。

 鉛色で15センチ四方くらいの円筒形、周りに切ってある溝に長い紐がしばりつけてある。

 ハアハア息を弾ませながら、汗ばんだ顔でニヤリとする。

「じゃ、場所、どこだ?」

 聞かれて地面を見まわすと、岸辺に彼女の涙のあとがまだ乾かずに残っていた。


 亮輔が金属塊を水路に放り込む。

 紐のはしを握って行ったり来たりすると、泥が帯状に巻きあがって、流れのままにゆっくり下流に消えて行く。

「もっと、こっちかな」

 捜索範囲を広げる。

 見ているうちに光子(ひかるこ)にもピンときた。

「亮ちゃん、これ、磁石?」

「ったりめえ」

「でも、お金はくっつかないって、習ったよ」

「強力なのならOKなのっ。もう、聞くな。ウゼエ」

 確かに見るからに強力そうだ。

 分解された農業機器の一部かも知れなかった。

 彼女も水面を見ながらついて歩く。

 そのうちに引きずられる金属のわきに、何かの出っ張りが見えた。

「あっ」

「んっ」

 同時に顔を見合わせる。

「やっりいっ」

 亮輔が磁石から乱暴に500円玉を引きもぎる。

 一枚を彼女に投げたきり、口も利かずにそのままクルリと戻って行く。

 光子(ひかるこ)は一枚だけになった銀色のお金をつかんだまま立ちすくむ。


 思い出がちょっと重く心に引っかかる。

 あの日以来、亮輔は彼女につかず離れずの微妙な距離を持ちはじめたのだ。

 友達でもないくせにちょっかいを出して困らせたり、悪口や陰口を流したりする。

 中学ではそれは影をひそめたけれど、離れた所から彼女を執拗に目で追ったり、学校帰りに後をつけたりの陰鬱な行動がはじまった。

 具体的な危険や被害はなかったものの、光子(ひかるこ)にとってはやっぱりいい思い出ではない。


       ◇ ◇ ◇


 『休学を視野に入れたほうが現実的かも』

 主治医の声がよみがえる。

 あの時は、さすがにちょっと言葉が出なかった。

『え?あ…いや、あの。で…でも、以前はこのままで行けるって…』

『確かにそう言ったよ。プレドニゾロンなんかの通常の副腎皮質ステロイドでね。それで制圧できると思ってた。ところが効果は芳しくない。免疫抑制のトシリズマブを使うしかないかもしれない。過敏症や副作用があるんで本当は避けたいんだけどね。マクロファージ(血球貧食)なんかに出られちゃたまらんしなぁ。炎症は治まってるかに見えて、じわじわ血管に傷みが進むイヤ~なケースなんだよ。腰を据えて行かなければいけないから、休学しちゃったほうが、速水(はやみず)くんも治療に専念できるんじゃないかなって』

『はぁ…まぁ』


 凱揮も薄々は予感していなかったわけではなかった。

 母方は弁膜症の系統だ。

 今までは何事もなかったけれど、何かあった場合、病魔は弱い所に出る。

 この特定疾患は大血管の炎症だけでなく、彼の場合は心臓の大動脈弁と僧帽弁に不具合を生じつつあるのだ。

『あ、あの…じゃ、いっそのこと、手術できませんか?このままじゃ、結局、心不全でしょ?だったら、早いほうが…。今の人工心肺すごいって言うし。おれ、心臓止めちゃうの、別に何とも思いませんし』

『うん、できれば弁置換手術したいよね。だけど、それには炎症が治まらなければ。今の状態では危険すぎて、医師のわたしとしてはマジ怖えぇぇだよぉ』

 ちょっと冗談めかした言葉に片ほほだけで笑う。

 やっぱり休学か…。

 ため息をついて考えをまとめようにも、いざとなると思考が混乱して糸口がつかめない。

 このまましのげると思っていた自分の甘さが、今、確実に叩きのめされたのだ。


 『この病気の患者会というか、交流会みたいなものもあるよ。年代は速水(はやみず)くんみたいな20代から、高齢の方までいろいろ。女性が多いから、きみみたいなイケメンは大事にされるんじゃないかなぁ。若年も多くてJKだっているから元気もらえるよ』

 主治医の気を使ってくれる言葉に我に帰る。

 顔では笑っているものの、心は反発でいっぱいだ。

 患者会なんてフザけるな。

 JKが何だよ、うるさいだけのあんなガキ。

 安易にそんなところに行ったら、自らこの病気を認めることになる。

 第一、指定難病40というのが大げさで気に入らない。

 血管の炎症さえおさまれば、ごくフツーの心臓弁膜症だろうに。


 『きみはTypeⅡaだから、もともと大動脈に問題があったんだろうなぁ。乖離にも気をつけなくてはいけない。うまく炎症おさめて、人工血管置換も考えたいし。血栓症や動脈硬化への進行も早いから、合併症による臓器梗塞も視野に入れてる。大丈夫。いっしょに克服していこう。今の医療ってすごいんだから』

『はい、ありがとうございます。がんばります』

 凱揮の返事は、半分は本音で半分は社交辞令だ。

 もちろん、医学の進歩は信じている。

 前向きな主治医の言葉も、本気でありがたい。

 がんばろうという気力もある。

 それでも、なんでこんなことにという気持ちはぬぐえないのだ。


 大学は休学しよう。

 卒業、就職、結婚その他、それ以降の人生設計はひとまず思考外にはじき出す。

 考えても仕方のないことだ。

 動脈の炎症がおさまらないかぎり手術に踏み切れないのなら、大動脈弁と僧帽弁に閉鎖不全を持つ彼の予後は決して安泰ではない。

 考えたくはないが、最悪の事態も考慮すべきなのだ。


 だから、だからこそ、光子(ひかるこ)にこのことを知られてはいけない。

 彼女は性格から言って共に悩み、必死に支えようとするだろう。

 心は千々に乱れるけれど、不安をかきたてる重たい事実をささえるのは自分だけでたくさんだ。


 最良の方法は光子(ひかるこ)から、さりげなく離れることだ。

 彼女が亮輔に気があるというウワサが真実なら、これはお互いにいいことなのでは?

 それでもため息が出る。

 心をかきむしりたいような衝動に、不覚にも涙がにじんでしまう。

「ほんと弱いな」

 自分を罵る言葉が、吐き捨てるように唇を洩れていた。


       ◇ ◇ ◇

 


 結局、休学届は出さないままに夏休みになった。

 引きはらおうと思っていた横須賀の部屋もそのままだ。

 親たちは今のところは彼の希望に任せてくれている。

 それでも入院にでもなれば思い出深い横須賀を離れなくてはいけない。

 現在の横浜国立病院系ではなく、実家近くの都内に転院が現実的だ。


 蝉の声に湧きかえる山の緑が、草いきれとともに無性に心にしみる。

 血管の炎症は投薬で今のところは、やや小康状態を保っている。

 ひょっとしたら休学も手術もしないですむのではないだろうか。

 甘々の希望だが、現実になってくれたらどんなにいいか…。

 凱揮なんていう剛毅な名前の自分が、何でこんなことになったのだろう?


 滅入る気持ちを振り切るように、心地よい海風の入る大窓を目いっぱい開け放つ。

 快晴の空のもと、海を見渡せる彼の部屋は気宇壮大な気分にしてくれるし、山のほうを振り向けば防衛大の施設が白く輝いている。

 後を継いで欲しいと望む経営者の父の願いで防衛医大を断念はした。

 それでもY大横須賀キャンパスを選んだのも、馬堀海岸のこのマンションに住んだのも軍を身近に感じていたいからだ。


 不意にスマホが震える。

 あいつらだな、とピンと来る。

 立ち上がって窓から海岸のほうを見渡すと、大通りから坂道をやってくる颯太の車が見えた。

「もうすぐ着くから」

 梨恵の声でそれだけ言って切れる。

 いつもどおりだ。


 ドアのカギを開け、ちょっとあたりを片づけてテーブルを拭き清める。

 もう、6階の廊下を近づいて来る複数の足音。

 あの中に光子(ひかるこ)もいるのだ。


 「じゃぁ~ん。元気?」

 いの一番に梨恵のひょうきんな声。

「っちゃあ、暑っついな」

 颯太が次。

 最後にちょっと遠慮がちの彼女。


 「凱揮、飯、まだだろ。寿司買ってきた。デザートはおれんちの和菓子。錦玉(きんぎょく)ね。作ったんだぜ。おれ、職人としても才能ありそうだワ」

 颯太の元気な声。

 彼の実家はここ地元の老舗和菓子屋だ。

 凱揮は大事に受け取って、自然に光子(ひかるこ)と並ぶ。

 デーブルには冷蔵庫から急いで出したビールやジュース。

「やっぱ、お茶よね」

 梨恵が言って立つ。

 光子(ひかるこ)もいっしょに茶器の準備をする。

 勝手知ったキッチンの隅で、なぜか硬直した梨恵が彼女をつつく。


 「これ…」

 声をひそめる。

 置き忘れたのだろうか、複数の薬の袋だった。

「病院名、横浜市立病院心臓循環器科外来だって」

 ふたりで顔を見合わせる。

 学校をやめるという話も、光子(ひかるこ)を亮輔に頼んだという話も、これでつながる気がする。

 堅い緊張を振りすてるように、素知らぬ顔で梨恵が先に部屋に戻った。

「おん待たせぇ~」

 テーブルに湯呑を置き、わざと錦玉(きんぎょく)のほうに注意を引く。

「見て、見てぇ。颯にしちゃ、スゴイよね。芸術~。キレイにできてるぅ、ねぇ?」

 周りの笑い声に合わせながら光子(ひかるこ)も座る。

 みんなと同じように箸を取るけど、目先にちらつくのは白い袋の黒い文字だけだ。

 本当は知りたくなかった秘密にふれた驚きと不安が、ちょっとでも油断をすると質問となってあふれそうだ。

 何にも言ってくれなかった凱揮。

 信用されていない?

 つらい疑問が、重たい雨雲のようにゆっくりと広がってくる。

 もしかしたら彼にとって、わたしは迷惑?

 もう、そこまで嫌われちゃったの?


       ◇ ◇ ◇


 

 海からの風が吹き渡って行く。

 上機嫌で饒舌なのは颯太だけで、梨恵もなんとなくぎこちない。

 光子(ひかるこ)は一生懸命ニコニコしているけど、目の前の寿司はなかなか減らないのだ。

「どしたの?食べないね」

 凱揮の素朴な疑問に、梨恵が急いで返事する。

「彼女、朝ご飯遅かったのよね。あ、あたしもなんかお腹すいてないな」

 彼女の箸もすすんでいない。


 「はぁっ?」何も知らない颯太が声を張り上げる。「な~に言ってんだよ。腹減った、寿司買って行こつったのおまえじゃん?」 

 テーブルの下で梨恵の爪が思い切り颯太を襲う。

「いてっ…」


 凱揮がそっとみんなを見渡す。

 ポケッとしているのは颯太だけだ。

 女子は2人とも気まずそうに下を向いてしまう。

「なんか、ちょと…」凱揮もテーブルに目を落とす。「いつもと雰囲気ちがう…よね」

 誰も返事をしない。

 やっと空気を読んだ颯太も、上目遣いにみんなの顔を盗み見るだけだ。


 沈黙が重い。

 梨恵が決心したみたいに立ち上がろうとする。

 あの袋を取りにキッチンに行くつもりだ。

「梨恵ちゃん、ダメ」光子(ひかるこ)が止める。「今日は楽しくやろうよ。ね?」

 もう、誰もがそんな気持ちじゃなくなっている。

 首を振って、梨恵はそのまま立って行った。

 光子(ひかるこ)もこれ以上、止めるべき言葉がない。


 「あたしさぁ、今、すっごくムカついてる」梨恵が薬袋をテーブルに放る。「凱揮はカノや親友を何だと思ってんの?何で隠すの?あんたの態度がおかしくなってから、あたしたち、どんなに心配したか。光子(ひかるこ)なんて、ほんと被害者。ひとりで何グチグチしてんのよ?こういう時のためにあたしたちがいるんでしょっ?」

「いや、あんまり責めんなよ。凱揮だって悩んだんだろ。で、心臓病なの?だいぶ悪いの?」

 颯太がみんなの気持ちを代弁して、ズバリと切り込む。


 「いや、大したことない。血管のほうで…。ただ、ちょっと長引きそうな病気でさ。休学や退学もアリだし、将来もどうなっちゃうかわからない。みんなに言わなかったのは、言って心配させてもしょうがないって思ったからだよ」

「それが水臭いって言うのっ。知ってる?水臭いって言葉。他人行儀ってこと。つまり、他人行儀はカノや親友に対する態度じゃないってことっ。わかったぁっ?」

「い、いや、将来的にはみんなに話そうとは思ってたよ。ホント、そう思ってた…」


 梨恵の勢いに凱揮は押される。

 言葉はきついけど、彼女の想いは温かくてうれしい。

 でも、だからこそ、その気持ちがわかるからこそ、知らせないでおきたかった。

 特に光子(ひかるこ)には、陽の光にしずくが消えるように、忘れられていきたかったのだ。

 もう、こうなったからにはそれはできない。


「あ…あのね」光子(ひかるこ)が口を開く。これだけは言って置きたい言葉が、戸惑いながらもあふれ出す。「凱揮はわたしなんかに言ってもって、きっと思ったんだね。…でも、言って欲しかった。なんにもできないけど、ちょっとだけでも体のこと話してもらえれば、わたしだって役に立つことあるんじゃないかって…」

「…ごめん」

 彼の返事は重く短い。

 心から、こうした事態は避けたかった。

 彼女を悩ませ悲しませるだけの、ただの不毛だ。


       ◇ ◇ ◇


 小さな砂浜が残る、地味な走水(はしりみず)海岸。

 春の花見や潮干狩りではにぎわうけれど、夏の今頃は逆に人は少ない。

 遠浅で家族連れ向けの海なのに、2017年から海水浴はできなくなっているからだ。

 それでも漁船がもやい、海産物などが干されて漁村らしい風情をかもしている。

 もっと風光明美な海岸もあるけれど、駐車場がタダという理由でここに来たのだ。


 移動の車中では寡黙だった。

 梨恵は煮え切らない凱揮に腹を立てているし、光子(ひかるこ)はどうしていいか途方に暮れる気分だ。

 凱揮は自分の行動を後悔しはじめ、颯太はとにかく、もとの仲良し4人に戻りたい。

 思いはそれぞれでも、柔らかな波音を聞くと、みんなの煮詰まっていた気持ちがほぐれていく。

 のどかなトンビの声もそれを助長してくれる。

 夏の自然の中で、鬱屈した気持ちが少し変わって、ちょっとしたことなら余裕で流せそうな気がする。


 漁船の裏の、魚を入れる古いトロ箱が積み上げられた陰に4人で座る。

 潮風と青空の下で、なんでも話せそうな…。

「じゃ、光子(ひかるこ)、何でも言いたいこと言っちゃいな」

 梨恵がうながす。

 うん、とうなづいて唇から言葉を解き放つ。

「あの…、凱揮はきっと、わたしを嫌いになっちゃたんだと思う。わたしってダメだから…。凱揮に助けてもらってばかりだったし…。でも、でもね、亮くんにわたしをよろしくってひどい。わたしにはわたしの気持ちがあるのに。そんなこと言って欲しくなかったのに」


 「えっ?なにそれ」

 凱揮が絶句する。

 意表を突かれた顔で不思議そうに彼女を見守る。

「ウソだろ。山之内くんがそんなこと言ったの?まさか。彼の妄想だよ、ありえない」

「ええっ?ヤバすぎ。アイツの言ったことガセ?…ど~も変だと思った。ったくぅ、颯太、亮輔〆ていいわ」

 梨恵が怒って、きれいにネイルしてある手を振り回す。


 まるで自分の心を読んだかのような亮輔の言葉に、凱揮は思わず自らを疑う。

 確かに大切な光子(ひかるこ)をこのまま誰かに託せられたら、とは夢想した。

 だがそれは脳内だけで実際には口にしていない。

 まして、友達でもない亮輔などに…。


 「凱揮、あんたにまだ話してないけど、亮輔、光子(ひかるこ)を襲おうとしたのよ。あんたがしっかりしないから、こういうことになるのっ。自分のカノくらい守りなさいっ」

 さすがの凱揮も愕然と顔色を変える。

 怒りよりも、自分の不甲斐なさがひしひしと心を締めつける。

 頭をかきむしりたい気持ちで、梨恵の次の言葉を待つ。

「ね?凱揮は自分のことだけなのよ。病気のこともちゃんと光子(ひかるこ)に話すべきだったのっ。大事なカノなのにコソコソ避けてばっかいるから、亮がチャンスと思っちゃたんでしょ?それから光子(ひかるこ)も光子(ひかるこ)だわ。亮とのへんなウワサがたった時点で、きちんと凱揮に違うって言うべきじゃん」

 確かに当然の理屈だ。

 なぜ、そうできなかったのだろう?

「初動の間違いだな。古っるいドラマじゃねえんだからさぁ」

 颯太が笑いにまぎらす。


「ま、とにかく亮輔が行動に出てくれたんで、こっちも対処できるわよ。凱揮は彼女を離しちゃダメ。すっごく好きなんでしょ?どんな病気か知らないけど、しょっぱなからペショっててど~すんのっ?克服する気でガンバりなさい。病は気からって言うでしょっ。ほんと、凱揮はンポついてんのっ?」

 弾丸のように発射される言葉に、凱揮が心からため息を漏らす。

 そのとおりだ。

 弱い自分はひたすら逃げていたのだ。

 それが問題を複雑化したのなら対処法はただひとつ、最初からやり直すことだ。

 自分は今、梨恵の指摘でそれに気付いた。

 身近な友達だからこその言葉を、指針としてもっと大切にすべきだったのだ。

 カノや親友から逃げることばかりを考えていた自分の愚さが、今の現状を招いたのだ。

「梨恵の言うとおりだね。前にも颯太に言われてたんだ。光子(ひかるこ)を何とかしろ、可哀想だろって。でも、心が迷うばかりでさ。おれ、弱すぎたんだよ」

 心からの素直な告白だった。

 くだらない自尊心を振り棄てると、物事の本質が見えてくる。


 みんなの前だけど、おずおずと光子(ひかるこ)の手を取る。

 そのまま引き寄せてギュッと握った。

「光子(ひかるこ)ごめん。ほんとに逆のことしてた。心配かけまいとして、かえって悲しませたり悩ませたりしちゃった。もうしないよ。なんでも話す。だから、今まで通りカノでいて」

「うん」

 と頷くしかない。

 なにか返事をしようとすれば、彼女の言葉はたちまち涙声になってしまう。


 「はいはい、シリアス・シーン。続きはあとでね」梨恵が笑ってストップをかける。「でも、亮輔は凱揮の病気知ってんのかしら?なんか、タイミング絶妙よね」

「やっぱり、わたしのせいだと思う。すぐ顔に出ちゃうから」光子(ひかるこ)が自分を責める。「すぐオロオロしちゃうし。亮くんとは高校が違うだけで、なぜかずっといっしょだし。あの人、遠くからジィ~ッと見てるクセがあるから、ちょっとした変化を見極めるの上手いんじゃないかな」

「いや、元凶はおれだよ。梨恵や颯太にもホント迷惑かけたし、光子(ひかるこ)も悩んだと思う。亮輔をその気にさせちゃったとしたら、おれにも責任があるよ」

「う~ん。ま、そ~であったとしても、亮輔は短絡的過ぎるわね。かなりキツイ妄想入ってるもん。でも、雨降って地固まる、って言うじゃん、今回の2人はソレね」


 なぜか全員が空を見上げる。

 もつれた心をうまくほぐせたのは、抜けるような夏空のせいだろうか。

 4人の気持ちがまた一つになった気がする。

「うっしゃぁ~っ」

 颯太が浜辺の小石を真上に投げ上げる。

「うぷ、颯のバカッ、砂ぁ」

 風下の梨恵の声が、あたりに賑やかに跳ねかえった。


       ◇ ◇ ◇


 8月も末で、3週間もすれば秋学期が始まる。

 にぎわった海もクラゲと土用浪で、夏の終わりを告げはじめている。

 ツクツク法師が鳴く午後に、颯太は実家の2階に寝っ転がってウトウトしていた。

 スマホが鳴る。

 

 「あ?梨恵?うん、おれ暇。なによ?ああっ?…わかった。車出す。待ってろ」

 小高い安針塚駅前の彼女のアパートは、路地を2本隔てて見えるくらい近い。

 自分の車で駆けつけると、駅前ストアのあたりから梨恵が道路際に立っているのが見える。

「おまたっ。凱揮、倒れたって?ったく、アイツ弱ええなぁ」

 心配が毒舌に変わる。

「昨日の夜中に救急車で病院入りだって。光子(ひかるこ)が付き添って、朝になる前にご両親が駆けつけたって」

「ふ~ん、でも、ま、大したことないんだろ?」

「たぶんね。でも、心不全だって」

「あっちゃ~」

 颯太が頭を振る。

「心不全発症から約1年で2割強が予後不良」

「・・・・・・・・・・から約1年で2割強が予後不良」

 ネットでいっしょに見つけた事象が、同時に2人の口をほとばしる。

「このこと、光子(ひかるこ)知らねえといいな」

「ムリよ。たぶん、検索しちゃってる」

「うん…」

 

 横浜市立病院駐車場に車を放り込む。

 5階が心臓循環器の病室だ。

 心疾患集中治療室のすぐ隣が凱揮の個室。

「こりゃ、重篤だってコトだよ」

 颯太が声をひそめた。


 そっとドアを開けると正面に、ベッドから半身を起した凱揮が見えた。

 すぐそばに光子(ひかるこ)。

 上品な両親は少し離れて足元のほうに座っている。

 梨恵と颯太を見ると、うれしそうに立ち上がった。

「あらまあ、お手数かけて。申し訳ありません。大したことないのに、お友達にご心配かけちゃだめでしょ」

 やんわりと凱揮を叱りながら、光子(ひかるこ)を含めた3人をいたわる。

「ごめん、ちょっと調子悪くなっちゃって…」

 テレ臭そうに言う彼の顔も唇も、まあまあ平常の色を保っている。

「よかった。心配したよ」

 思わず口を出た言葉に、両親はまた頭を下げた。


 あたりさわりのない楽しい話を続けて、7時の面会時間終了前に3人は病室を出た。

 あとは両親に任せるべきで親子の話もあるだろう。

「凱揮はさしあたって4学期(2年間)休学するみたい。主治医の先生がそうしなさいって…」

 光子(ひかるこ)の言葉に沈黙が続く。

「…ま、まぁ、それで元気になれれば最高だよ」

「そうそう、多少、社会に出るの遅れたって、体治すのが先決よぉ」

 それで言葉がとぎれる。

 みんなに病気のことを告げるのをためらった凱揮の気持ちが、今さらながらにわかるのだ。 

 

 適当に見つけたファミレスで、飲み物とパスタを前にする。

「凱揮のね、主治医の先生が権威なんだって。だから転院しないで横浜市立病院にいるって」

「へ~、そりゃよかった」

「じゃ、毎日、お見まいに行っちゃおうよ。ま、たまには光子(ひかるこ)だけの時間もとってあげるけどさ。凱揮、あれで気がちっちゃいんだから。励まさないとね」

「いや、投薬のせいもあるってよ。鬱っぽくなるらしいぜ」

「ふ~ん。闘病も大変だね。メンタル面は光子(ひかるこ)がいるからいいけど…」

 話題も食欲もあまり進まない。

 凱揮は頭も性格もいいのに、肝心の運は悪い気がする。

 やっぱり、天は二物を与えないのだ。 


       ◇ ◇ ◇


 「そういえば、このごろ亮見ないわね。ガッコやめたのかしら?」

「あ?知らん。ああいう粘着質のヤツって興味失くしたら掌返すっつうから、それじゃね?」

 颯太と梨恵が思い出したように話題にする。

 もう、10月なのに、いつも遠くから張りつくような視線を送っていた亮輔の姿が見えないのだ。

 もとよりゼミ仲間にも影が薄いから、所在や近況を知っている仲間もいない。

「サッパリしちゃったわよねぇ」

 梨恵は心からサバサバしているけれど、幼馴染の光子(ひかるこ)は何となく亮輔が気の毒に思える。

 あの夏の晩、彼が取った行動は許しがたいけれど、そうなる前にはっきりした態度を取らなかった自分も、決して褒められたものではないだろう。

 

 「あっ、いっけない」

 横須賀中央駅で梨恵が大声を上げる。

「ヴィトンのポーチ、置いて来ちゃった。あれ、シャンゼリゼ本店のなのよ。学食だわぁ。もう、ないかもだけど取って来るぅ」

「わたしも行く」

「いい、いいっ。光子(ひかるこ)は先に帰ってて。じゃねっ」

 彼女はもう、ポーチで頭がいっぱいだ。

 とんぼ返りして行く梨恵を見送って京急本線に乗る。

 ドア近くに立ちながら見慣れた景色を目で追う。

 いつも梨恵や颯太と一緒だったせいか、なんとなく手持ち無沙汰。

 すっと誰かが後ろに立った。


 降りる人?

 ガラスに映る影に見覚えがあるような…。

 振り向いて、体が硬くなる。

「…亮くん」

 亮輔が獲物を見下ろすように黙って視線を送って来る。

「降りないの?安針塚だけど」

 うながされて、ぎこちなくホームに降りる。

「アパート行こ。話がある」

 圧力のある声で言われて、ちょっと反発する。

「いやっ。わたしは話しなんかないもの」

「ボクにはあるから。ただ話すだけだから」

「ほんとに?この間みたいなことしない?」

「この間?ああ、先におまえが手、出したんじゃん」

「え?」

 なにか認知に歪みがあるような?


 もう、秋の日は暮れかかっていて、すがるように駅前交番を見ても人の姿はない。

 夕方のパトロールの時間なのだろう。

「亮くん、喫茶店じゃダメ?」

 反対側の喫茶店に視線を振るけど、亮輔はそんなものに目もくれない。


 話があるなら、言われるままに聞いたほうがいいのかも知れない。

 こういうことを何度もくりかえされたら、彼女はひとりで外出もできなくなる。

 きちんとしなければ、はっきり意思表示しなければ。

 そう思いつつも、やっぱり不安だ。

 この間は運よく何もなかったけれど、今度はどうなるだろう?

 力なくアパートへの石段を上がる。

 4世帯の部屋には明かりの気配すらない。

 だれも帰ってきていないのだ。

 覚悟を決めて、自分の部屋のドアを開ける。

 鍵を開けっぱなしにしたけれど、亮輔が気付いて閉めてしまった。

 


 テーブルを防波堤みたいに彼と自分との間に挟む。

 亮輔が性急に襲ってきたらどうしよう。

 キッチンにある包丁とぺティナイフ、部屋の棚にあるハサミが浮かぶ。

 いざとなったとき、それを使う勇気は自分にあるだろうか?


 「座れば?」

 亮輔が先に腰をおろしてうながす。

 言葉通り、本気で話し合いに来たのかも知れない。

「お…お茶、入れるね」

「い・ら・ないっ」

 きっぱりした声に、叩き伏せられるように座った。


 「凱揮は『コーアン大動脈炎』だね。知ってた?」

 いきなり言われて無言で首を振る。

「アイツ、バカだからさ。横浜病院の薬袋、ゼミのゴミ箱に捨ててやんの。ハッキングしてやったよ。病院はセキュリティあってないようなものだから。個人検索かければカルテ見放題で、投薬でググれば大体の症状は判明する。セッションごとにデータ化してあるから楽だよ」

「…それ、悪いことだよ。他人のプライバシーは侵害しちゃいけないんだよ…」

「どこがぁ?アイツ、指定難病だった。大血管の炎症強くてさ、主治医がお手上げ状態じゃん。いつなおるかわからない病人、カレにしてるって、賢くないよ」

「亮くん。人を好きになる気持ちはね、好きな人が大変なことになればなるほど、何とかしてあげよう、いっしょにがんばろうってなるの。亮くんの言ってること、人を好きになったことのないヒトの言葉だよ」

「はぁっ?」亮輔の声が跳ねあがった。「なぁ~にバカ言ってんのおぉぉっ。決まってんじゃんっ。女の好きなのはイケメンと金だよ。ボクの家は土地持ちだ。売れば何十億だよ。すっげえだろっ」

 光子(ひかるこ)はちょっとため息をつく。

 彼の言い分は大学生になっても、まるで子供だ。

 女性に対する変な先入観はどこで身につけたものだろう?

「亮くんちは畑とか山林持ってる兼業農家だったもんね。だったらイケメンとお金の好きな人を好きになればお互いにラブラブじゃない?わたしはそういうのバカらしいって思うから」


「だぁかぁらぁ、ボクの好きなのはルッコ(ひかるこ)なのっ。言ってることわかるぅ?おまえだって、ちっちゃい時からボクが好きだったじゃん。素直になれよ。水路にお金落とした時のこと覚えてる?あれ、ワザとだろ?気を引こうとして、悪い女だ、ルッコは」

「は?」

 もう絶句するしかない。

 あさっての返事には、あさってで返せばいいのだろうか。

「じゃあ亮くん、さっきのお金の話だけど、そんなら凱揮だって都心に250坪のおうちだよ。家だって鉄筋で新しいし、駅にだって近いし。亮くんちよりスゴイと思う。わたしは凱揮が好き。結論でちゃったよね。だから、もう話しやめよ」

 亮輔が息を飲んで黙った。

 ツボにはまったらしい。

「ね。もう、帰って」


       ◇ ◇ ◇


 いきなり、ドアフォンが鳴る。

「あったわよぉ。ポーチ。まだまだ捨てたもんじゃないわね、世の中」

 賑やかな梨恵の声がする。

 モニタに気を取られた隙に亮輔がすばやく腕をつかむ。

「中に入れるなっ、追い返せっ」

 目がギラついている。

「うん、わかってる。わたしも亮くんといるの見られると怒られちゃうから」

 突き飛ばすように放されて、入り口に向かう。

「梨恵ちゃん、ごめん。頭痛くて…」

 視線で玄関先の靴を示す。

 明らかに颯太の物ではない。

「そ~なのぉ。ふ~ん、じゃ、帰るね。お大事に~っ」

 梨恵のすなおな言葉。


 ドアが閉まるや、亮輔が一足飛びに鍵をかけに来る。

 そのまま腕をつかまれリビングに引きずられた。

 彼は用心深く窓を細めに開けて、石段を下って行く梨恵の後ろ姿を確認している。

 光子(ひかるこ)が手を振りほどいて離れる。

 密室で亮輔と2人だけの現実が、ヒシヒシと身に迫る。

「お、お茶飲も…」

 理由をつけて離れたい。

 キッチンに逃れようとする背中を、ふざけたように抱きすくめられる。

 瞬間的に鳥肌立つような、嫌悪の戦慄。


「やめてっ、帰ってっ」

 振りほどいて突き飛ばす。

「いいじゃ~ん、ルッコ素直じゃないなぁ」

 薄笑いの声。

 ニヤニヤとゆるんだ顔にギラギラする目がサカリのついた犬畜生みたいで異様だ。

「チュー、チューしよっ。チュー。チューチューしよっ、チュッチュッチュ~、チュウッ」

 神経が高ぶりすぎたのだろうか、突然、亮輔が幼稚園児のように唇を突き出して歌い踊る。

 息も荒くなっている。

 何かのスィッチが入ったのだろうか。

 完全にイッている異常者の行動が、震えるほど不気味だ。

 玄関ドアに飛びつくけど、鍵とチェーンを開けている間に引き戻される。


 「ね、帰って。話し、終ったよね」

「はぁ~?聞こえないでチュウッ。チュウッ、チュウッ」

 幼児のようにまとわりつく体重に押されてよろめく。

 転んだら、この間みたいに覆いかぶされてしまう。

 必死に踏みとどまりながら、窓際まで追いつめられる。

 もう、時間の問題だ。


 「亮くん、凱揮がわたしをよろしくって言った話、ウソでしょ、ウソつきっ」

 とっさに痛いところを突く。

 案の定、動きが止まった。

 体を離してニヤニヤする。

「ウソぉ~?知らな~い」

 スネた子供のように体をグネグネして手を振り回す。

「ショーコあるぅ?ショーコ、ショーコ。ショーコあるんでチュかぁ」

 開き直ったらしく、顔を突き出してくる。

「チューしちゃうぞ。女はチュウが好きだろ~?」

「いやっ」

 おぞましさに、思わずほおを張り飛ばしてしまう。

 はっと後悔したけれど、もう、遅い。

「おまえぇ~、先に手ぇ出したなあぁ」

 亮輔の顔色が猛悪に変わる。

「いやっ、だれか、だれか来てっ」


 突然、反対側の窓ガラスが爆発したように吹っ飛ぶ。

 状況判断に迷う耳に怒声が響いた。

「ってんじゃねえよっ」

 颯太だ。

 ラガーマンのスピードとガチムチ筋力で、瞬間的に粉砕したから、かえって危険はない。

 土足のまま、床までのガラスをぶち破って侵入した男に亮輔はびっくりして、1歳児のようにストンと転んだ。

「お~らぁ、お姫様だっこぉ」

 颯太がひっつかんで立たせ、ゴミでも処分するように掃きだし窓から捨てる。

 急いで玄関に走った梨恵が靴を放り投げる。

 グシグシ鼻をすする音が石段を遠ざかって行くのは、亮輔が泣きだした証拠だ。


 「イケてるわよねえ、颯くん」梨恵が心から感嘆の声をもらす。「あたし、合鍵持ってたんだけどさ、こっちのが最高っ」

 確かに梨恵が惚れ直すのも当然の、颯太のヒーローぶりだった。

「ガラスどうする?おれんちの高級和菓子で釣れば、角のガラス屋のおっさん、タダにしてくれるかもよ」

「もう、光子(ひかるこ)は引っ越しなさい。あたしの隣り、ちょうど空いてるから」

「いや、亮は懲りただろ。アイツ根性ねえから。ま、おれが〆りゃ2度やるバカはいね~けどさ」

 女子たちの尊敬と傾倒を一身に浴びた颯太が、仁王立ちになって筋肉美を誇示する。

 散らかったガラスを掃き集めながら、みんなが笑顔になる。

「健康ほどいいものはないわねぇ、凱揮にもがんばってもらわなきゃ」

 思わずもらした梨恵の言葉に全員でうなづく。

 楽しく屈託のなかった昔に、きっと帰れることを信じたい。


       ◇ ◇ ◇


 「本当にいろんなことがあって…」

 柔らかな日差しの中で、光子(ひかるこ)が昔を懐かしむ。

 腕の中には愛らくて優しい産着。

 速水光子(はやみずひかるこ)に名前が変わった幸せ。

 満ち足りた視線の先で凱揮がほほ笑む。


 「颯太と梨恵、結婚だってさ」

「わぁ、わたしたちより早いと思っていたのにね」

「颯太がプロで海外遠征とかあったからね。でも、バタバタしてるんで、挙式は落ち着いてからだって」

「新居はどこかしら。近くだったらいいなぁ」

 なつかしい友達の近況に心が弾む。

 また4人の仲間に戻れたら、毎日はもっと輝くだろう。


 休日の朝のように伸びやかに時を刻む光。

 穏やかで暖かい家庭に漂うやさしいゆらめきに、そっと涙のにじむ気さえする。

 喜びも幸せもゆるやかな日々の営みにこそ生まれるのだ。

 心がさそわれるような、たおやかな緑にけぶる庭向こう。

 少し離れたそこに彼が横たわって、空を見ている。

 いつかの夏の日のように真っ青に満ちる澄んだ大気。

 潮風より野の風が吹きわたる。


 流れる雲のゆくえを追う眼差しが、やがてたゆとう陰にかわる。

 揺れるまどろみに、そっと現(うつつ)が入れ替わるのだ。

 満ちては欠け、欠けては満ちる時の狭間に抗えるもはなく。

 蒼ざめたほおによみがえるのはいつか見た古い夢の名残りだ。

 現し身(うつしみ)はすでに消え入る光に似て。

 今はもう、とまどいがちな別れの言葉を、震えるように受け止めるしかない。

 尽きて行く者のはかない残り香。

 去りゆく後ろ影を、だれが留めることができるだろう?


 凱揮が静かに目を閉じる。

 今はもう物言わぬ唇が少し開いて、柔らかな微笑に変わっていく。

 力を失った指先に触れるものはだれの想いだろう。

 永久(とわ)に帰らぬ心はつなぎとめる術もなく。

 冷え切った水の底から、ゆらぐ思い出のように満ちる悲しみ。

 宇久の時はなにを指さすのか。


 うらうらと夢から立ち戻る、おぼつかない目覚め。

 いつもの自分の部屋にちょっととまどう。

 目に映るものは見慣れたアパートの一室だ。

 小さなさざ波のような、胸騒ぎに似た想いが少し苦しい。


 ためらいながら窓を開ける。

 まだ暗い街はいつもより光に乏しくて、ただ風が吹いている。

 今日もまた、凱揮のお見舞いに行こう。

 ゼミの話やこれからの冬休みの話題。

 病院で迎えるはじめてのクリスマスはみんなで楽しく演出したい。

 彼はきっと喜ぶだろう。


 夢の名残りを破るようなスマホの着信音。

 引き潮時の電話は何を告げるのか。

 光子(ひかるこ)が手を伸ばす。

 彼女の不安な表情が、白い反射に浮かび上がって揺れた。

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海からの風に 上松 煌(うえまつ あきら) @akira4256

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