君のいない四十年
たちばな立花
第1話
愛する人に伝えたい物語がある。
しかし、彼女はもうそれを聞く耳も、読む目も持っていない。
彼女はもう随分と昔に、次の世へと旅立ってしまった。天国で待つと言ったけれど、彼女が瞼を落として四十年が経つ。きっと、痺れを切らしてもうこの世界のどこかで違う人生を歩んでいるのだろう。
彼女がいない世界はきっと無色で、とてもつまらないものだろうと思っていた。力の抜けていく手を握っていた時、私の人生は彼女と共に終わってしまったんだと思っていたんだ。
しかし、おかしいもので全然色は消えなかった。
彼女の残した色は鮮やかで、この四十年飽きることなんてなかったよ。
特に二人の子供には手を焼いた。彼女は私がいない時、こんなお転婆を二人も相手していたのかと思うと、頭が上がらない。
そんな二人も、もう彼女よりも年上になって、子供もいる。私はとうとう「じーじ」と呼ばれるようになってしまった。
彼女は四十年前に息を引き取った筈なのに、一度だって私の物語から消えたことはなかった。この長い物語を伝えられないのが残念だ。
彼女とよく見上げていた桜が咲いた。
「お父さん、また桜見てたの?」
「なんだ。来てたのか」
「だって、今日お母さんの命日じゃない。一人じゃお母さんも寂しいでしょ」
長女が仏壇の前で手を合わせる。「忙しい」と言いながら、毎年この日はこの家に帰ってきていた。
「じーじ、こんにちわ」
扉から小さな顔をのぞかせたのは孫娘だ。この子は目元が彼女によく似ている。血が繋がっているのだから当たり前なのだが。
「ああ、こんにちわ」
「じーじ、あのね。わたし、明日からよーちえんせーなの」
「そうかそうか。いっぱい友達ができるといいな」
「うん! いっぱいつくる!」
孫娘の頭を優しく撫でた。手の皺が随分と増えたように思う。もう皺を刻む場所などないだろうに、それでも増えていく。
◇
最近、起き上がるのが辛いと感じていた。気づけば布団の中で、桜が散りゆく姿を眺めている。
もうそろそろ、彼女と同じ道を歩けるのか。
「こんにちわー!」
それは突然だった。最後のひと時を妨げる呑気な声。しかも、人の家にズカズカと入ってくるではないか。
「あ! 良かった。いた!」
「……誰だ?」
「俺? カタリィ・ノベルって言います。至高の一篇を探してるんだけど、お爺さん知ってる?」
「さあな」
「そっか。知らないかぁ。じゃあさ、せっかく出会ったのもなんかの縁だし、お爺さんの物語を見せてよ」
カタリィと名乗る少年は、私の隣に座ると歯を見せて笑った。不法侵入だと怒る気力も残っていない。
彼は、詠目という不思議な力で私の中に眠る物語を書き起こしてくれるという。しかも、それを必要な人に届けるのだとか。
面白いことを言う。
「もうくたばるだけの老いぼれだ。好きにしたらいい」
「それじゃあ失礼して……」
私の物語はいつだって彼女が主人公だった。これを必要としている人など、この世にたった一人だろう。
もしも、この少年の言葉が事実なら、彼女に届くだろうか。
本当は私があの世で四十年分語って聞かせる予定だったが、さすがに待ち合わせに四十年も遅れていては待っていないだろう。
願わくば、彼女にその物語が届きますように。
私はゆっくりと、瞼を落とした。
君のいない四十年 たちばな立花 @tachi87rk
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