すべての物語を愛する人たちのために

なるゆら

すべての物語を愛する人たちのために

 この世界に音はない。濃淡のない鮮やかな草木の色。小さな丸い庭に降る日差しは暖かいけれど、太陽は見当たらない。小屋には物語に僕らの家として登場するための条件が揃っていて、いらないものはなにもない。奥には見下ろすように鐘楼がひとつ。通り抜ける風はないけれど、淀んだ空気もない。すべてのものに姿形はあるけれど、太陽がないからか影はなかった。


 空に浮かぶ物語の箱庭。生活と呼べるものが僕らにあるのかはわからない。でも、気付けばここにいた。


 僕はカタリィ・ノヴェル。人の心に封印されている物語を、与えられた「詠目よめ」で読み解いて、求めている人の元へと届ける「詠み人」だ。今日もまた人々の中に眠る物語を見つけ出して、誰かに手渡しにいく。どのくらい続けているのか僕も知らない、僕のプロフィール。


「『至高の一篇』は見つかった?」


 音がなかった世界で、輪郭をもった言葉が僕の耳に届いた。振り返ると、戸口に立ったリンドバーグ――バーグさんが微笑んでいた。

「至高の一篇」が見つかれば、僕の役目は終わってしまうんだろうか。僕自身が自分の終わりを決めるまではたぶん、見つかることはないんだって思ってる。


「ううん、まだだよ。……じゃあ、急いでいるから、もう行くね」


 バーグさんと交わす言葉は少なめにしている。

 彼女もまた、いつの間にかここにいたり、いなかったりする存在だ。人間ではなくお手伝いAIなんだそうだ。僕には、人と人の姿をしたAIを見分けることはできないけれど。


「そう、お気をつけて。……ですが、地図は読めるようになった方がいいと思いますよ。持ち歩いている意味がありませんから」

「バーグさんも、愛されるAIになりたいのなら相手を泣かすようなことは言わない方がいいと思うけど」


 このくらいで僕は泣いたりしないけれど。

 僕とバーグさんのやり取りは、あってもわずかだった。お互いに必要以上は踏み込まないようにしているから。


 僕は「詠目よめ」を使って、人の中に封印されている物語を小説にして求めている人たち届ける「詠みよみびと」。僕の行為には「書き手」の存在は必要ない。世界には物語が生み出され続けている。すでに溢れるほどあるというのに、読む人が求める物語を見つけることが難しいのはどうしてか。僕は、理由のいくつかを知っていた。


 バーグさんは、自分の能力を使って物語を書く人のお手伝いをしているそうだ。下手でもなんでも物語を書き続けることを支える。バーグさんの行為は書く人に寄り添ってはいるけれど、今「読み手」が求めているものが埋もれていくことには目を向けない。バーグさんだって書く人が書き続けることを苦しくさせる理由をいくつも知っているんだ。


 僕は「読み手」を優先しているし、バーグさんは「書き手」を優先している。

 僕たちに自らの意思があったとしたら、対立していたのかもしれない。


 小説を読む人だって、いつか書く人になるかもしれないし、書く人だって、読み手として素敵な作品に出会って書き手になったはずだ。

 そんな未来や過去があるから、僕とバーグさんは繋がりを保っていられる。

 僕もバーグさんも、自身の行為がより人を幸せにできると信じている。だから、僕たちは自分のすべきことをして、互いに干渉はしない。


 どんな意味があるのかは、そこにある物語を読めばわかる。ふたりが言い争いをして相手の誤りを決める必要なんてない。しなくてもいいようになっているんだ。


「じゃあ」

「うん、また」


 扉の前のバーグさんは笑顔のまま、僕を見送ってくれた。


 本当は、僕だって知っている。物語を受け取った人が感動して喜ぶ姿をみて、手渡せて良かったと感じているんだ。それは「書き手」が感じるはずの気持ちだと思う。バーグさんが大切にしている人たちの喜びを、僕はちゃんと知っているんだ。


 バーグさんは書き手のそばにいて熱意を感じている。待ち望んでいた物語を誰よりも先に手に取れる喜びがある。込められた想いを知っているから感じられるものだってあるはずだ。「詠目よめ」で切り取った小説にはないものだ。バーグさんも「読み手」の気持ちを知っている。あらかじめ物語に価値が決まっているわけじゃなくて、どんなふうに読むかでも物語の意味は変わってしまうんだから。


 僕らはわかっているはずなんだ。書く人も読む人も、どちらがいなくてもだめだってこと。

 ただ、大切にしたい人の気持ちが失望に変わってしまうのが怖い。互いの大切にしている人たちがそうさせるんじゃないかと恐れてしまう。それだけのこと。


 僕は「至高の一篇」を追いかけることが楽しい。実は、見つけられなくたっていいんだ。読む人にとって「至高」なのか、書いた人にとってなのか。たぶん、両方が満たされた気持ちになれるからこそ「至高」なんだと思う。


 太陽も風もない、影だってない箱庭。それは物語に過不足のない、必要十分な「美しさ」といっていいんだろうか。歪で不自然な「醜さ」だったりするのだろうか。決めるのは、少なくとも僕らではない。


「――すべての物語を愛する人たち」


 僕は言葉にして気付く。どんなふうに言葉を切り取って解釈するか。物語を愛しているすべての人を指すつもりで言葉にしたけれど、「すべての物語」を愛してしまえる人だっているのかもしれない。


 もしそんな人がいるのなら、僕は「至高の一篇」と同じくらい、出会ってみたい。優劣をつけないでいられるような愛情があるのなら、僕はその感情に触れてみたいと思った。

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