第6話 岩のドラゴン
「何でだ、あの時もう一枚、いや、それより……」
翌日、出発の朝である。
街のすぐ外で腰を下ろす中、アレクはまだぶつぶつ言っていた。思いこみ効果は所詮思いこみ。持続時間には限りがあり、効果はいつか必ず切れる。それを感じて引き下がれるか、そのまま突っ込んで自滅するかという点では所詮いつもと同じ事。結局アレクはいつも通り手持ちの全財産をすった。
「まったく、お金が入ったからってすぐに全部使うなんて」
「本にあったよ。なんだっけ、悪銭身につかず?」
「まあまあ良いじゃないですか、たまにしか出来ない事ですし」
いけしゃあしゃあとマキノがそんな事を言う。先日の収穫から、一行は借金を返済し、装備を買い替え、食料も揃えた。元々アレクの手元にはその上で不要とマキノが判断した分しか入っていなかったのだ。文字通り身を軽くして出発できるという訳である。
「でももういいじゃない。どの道ボクらは……」
赤くなるメイル。昨日の事でも思い出したのか。
「『ボク』らは、今日でトレントを離れる予定だったわけだし!」
結局、一人称は変えないらしい。本ばかり読んで少女として全うに育たなかったせいなのか、この癖はクライムとフィンが初めて彼女と出会った頃から変わらない。クライムは苦笑しつつ、当時を知るフィンに目配せした。
だが目は合わない。
フィンは荷物の上で蜷局を撒いたまま、少し不機嫌そうにしていた。
トレント西門。見上げるほどの城壁で囲まれたこの街を出入りするには東西南北のどれかの門を通る他ない。クライム達は南西にある街に向かう予定で、今朝方宿を出て門番との手続きを済ませ、今は街のすぐ外で軽食を取っていた。
「この道を通るとすると山越えが必要ですからね。今晩は野宿でしょう」
「いつもの事だろ。布団でばかり寝てたら体が硬くなっちまう」
「ここ。この辺りに確か小さな村があったと思うけど」
そうメイルが指さして見せたのは、山の反対側中腹だ。
「村というより山人の溜まり場だよ。妙な伝統が無い分旅人にも寛容だって」
「寝ている間に身ぐるみ剥がされる位はあるかもな」
「しかし一息つくには良い場所ですね」
「山に魔物はどれくらい出るだろう。それによっては野宿の方がむしろ」
四人は手慣れた調子で話を擦り合わせる。メイルの知識を元に皆で方針を決め、マキノが詳細を煮詰め、アレクが直感で修正を加え、クライムが迷走させる。それが彼等の旅だった。そして大体フィンは否定も肯定もせず、それを傍観する。今回も荷物の上から動くつもりはないらしい。
だがクライムは、そのフィンの様子がいつもと僅かに違う気がした。
「フィン、どうしたの?」
フィンは面倒くさそうに片目を開ける。
「だるくてね。それだけさ」
クライムは少し顔をしかめる。二人の付き合いは大分長い。その旅を通してフィンはクライムの嘘をほとんど見分けられるようになったが、当然その逆も増えている。フィンはため息をついた。
「なんでもないよ。本当さ」
「かもね。でもフィンの勘ってたまにとんでもない事を言い当てたりするから。ちょっと気になってさ。何か、嫌な予感がするし」
「嫌な予感ならしょっちゅうさ」
「よし! 決まりだ!」
アレクはガンと剣を地面に突き立てた。今日明日の予定が決まり、広げた荷物をまとめ始める。そしてクライムが一瞬目を離した隙に、フィンは話を打ち切ってそのままクライムの荷物に潜り込んでいた。これが、彼の今日明日の予定という事らしい。
「まあ、良いんだけどね」
そう言ってフィンが入ったままの荷物をそのまま背負った。
アレクが先頭を切り、メイルがクライムの横に収まり、マキノがその後ろにつく。体力が有り余っているのはアレクだが、一行の中で一番旅の経験が長いのはクライムだ。いつも自然と、この形に落ち着く。
フィンにしても、長旅の定位置はクライムの荷物の中だった。旅慣れした彼の歩調は乱れる事も少なく、その規則的な振動がまた眠気を誘う。一度アレクの荷物に失敬した事もあったが、突然走り出すは魔物と戦うはで落ち着けもしなかった。足並みにまで性格は出る。
「あれ?」
ふとクライムが振り返った。
後ろからついて来ている筈のマキノの足音がしなかったのだ。見れば、先ほどの場所から歩き始めて数歩の地点で止まっている。
「どうしたの?」
マキノは茫然と立ち尽くしていた。周囲に何がある訳でもない。だがクライムが声をかけてもアレクが急かしても、ピクリとも動かなかった。
風の音。
木々の音。
奇妙な静寂が続く。
だが、次第に別の何かが聞こえ始めた。人のざわめき。城壁の向こう、たった今出たばかりの街の方角からだ。次第に大きくなる声に皆が嫌な予感を抱き始める。いつしかざわめきは、クライム達の元まではっきり聞こえるほど大きくなった。
マキノはバッと振り返って空を見上げた。彼自身も自分が何に反応したのか分からなかった。だが直感が、彼の視線を空に釘付けにした。
急にクライムが出たばかりの門に向って走り出した。
彼の荷物に入っていたフィンも道連れだ。
「クライムさん!」
「おい! 勝手に入るな!」
門番が止めるのも気にしなかった。こういう時の行動力は不思議と高い。追いかけてきた門番はアレクが後ろから殴って気絶させた。荷物から顔を出して、フィンが呻く。
「クライム、どうしたのさ」
クライムは答えない。未だ戸惑う人が多いトレントの通りを、人ごみを掻い潜りながら険しい顔で走っている。
そしてざわめきとは別の、地鳴りのような振動が徐々に強くなってくる。クライムはその中心に向かって走っている。しかし、その中心もまた、こちらに向かって動いているかのようだった。
急にクライムが足を止める。
もう振動は壁にヒビが入るほどの轟音となって街を襲っていた。
クライムが上を見上げて、フィンもそれにつられる。高い建物や雑多な増築で、この街から見える空は狭い。ここからは何も見えなかった。轟音だけが緊張となって辺りを支配している。
そして、街に、大きな影が落ちた。
「何だ……」
ゆっくりと現れたのは、巨大な、岩の塊。
トレントの狭い空が、黒く埋まっていく。
とてつもなく大きかった。そしてとてもゆっくり飛んでいる。クライムも、フィンも、街の人々も、それに圧倒されて声も出なかった。
下から見る限りではそれが何なのかは分からない。何かの形を成してはいるようだが、それがとても大きい上に、とても低く近く飛んでいて全体像が見えないのだ。しかし、クライムにはそれが何なのか分かった。冗談のような噂話は本当だったのだ。呆然と、その言葉が口から零れる。
「岩の、ドラゴン……」
フィンは露骨に顔をしかめた。ようやく分かった。彼が今朝から感じていた気持ちの悪い感覚の正体はこれだ。そしてマキノが同じく気付いたという事は魔法の類が関わっている。ただのドラゴンではない。まるで、底の知れない闇を覗き込んでいるような恐怖が、町中に広がっていく。
ここまでだ。
フィンはその瞬間、そう見切りをつけた。
これは、絶対に関わってはいけない何かだと。
その時、どこからか悲鳴が聞こえた。見ると街で一番高い見張りの塔にドラゴンが迫っている。まだ誰もが動けずにいる中、クライムは街中に響くほどの声で叫んだ。
「何してるんだ! 逃げろ!」
ぶつかった。塔はゆっくりとひしゃげていき、瓦礫が道に落ち、激しい音を立てて砕ける。それで緊張が解けた。恐怖が一気に爆発し、人々は悲鳴を上げて我先へと塔から離れる。しかしクライムは何人もの人にぶつかられながら、逆に塔に向かって走り出した。
見張りの塔は一部で裂け始め、遂に上半分が切り離されてゆっくりと倒れ、下に落ちる。その先に腰を抜かした一人の男が見えた。
「だめだ!」
クライムは止まるどころか加速した。男は迫りくる死から目が離せずもう指一本動かせない。間に合わない、そう判断したフィンがクライムを止めに荷物から飛び出す。
『止まれ!』
鋭い命令が、轟音も悲鳴も切り裂いた。落ちる塔が、舞い散る瓦礫が、空中でぴたりと止まる。時間が止まったかのようだった。クライムはそのまま突っ込んで男を抱え、一気にその下を走り抜ける。
マキノだ。
クライムが駆け込んだ先に居たのは、異様な雰囲気をまとった灰色の髪の魔術師。宙の瓦礫を右手で鋭く指さし、瞳孔ごと見開かれた目は瞬きすらしない。
「あ、ああぁ……」
ようやく男が口を利いた。離れた所から見直して、自分が押し潰される筈だった事を改めて理解したようだった。マキノの目がふっと緩む。その瞬間、轟音と共に塔は地面に激突し、爆発したような砂埃が一瞬で全てを埋め尽くした。
煙が晴れた時、塔の残骸と岩の破片で辺りは見る影もなく潰れていた。幸い男の他に人影は無く、怪我人も少ないようだ。マキノは深く息をつき、崩れるようにその場に膝をついた。クライムは茫然とした男の頬を叩いている。
そのクライムまでもが、急に身をかがめた。
「っつ!」
遅れてメイルが走ってきた。荷物から血止めや包帯を出しつつ、動けずにいるマキノとクライムを同時に診る。次第に周りには恐る恐る街の人々が戻ってきた。潰れた一角とクライム達を遠巻きにあれこれと騒ぎだす。気付けば街を支配していた重い空気は消えていた。
岩のドラゴンは、どうやら何をするでもなく街を通過したようだった。
「マキノ、大丈夫? あんな大きな物を止めるなんて」
「そんな顔しないでくださいメイルさん。大丈夫ですから」
「クライムは? どこか怪我でもしたかい?」
「ごめん、なんか、指輪が熱くて」
思わぬ返事に、皆の視線が集まる。見れば指輪は赤熱した鉄の様に赤く光っていた。急いで引き抜こうとするメイルをマキノが止める。険しい顔で指輪を観察していた。
一人の男が無言で彼等を横切り、背中に庇うように立った。アレクだ。マキノもクライムも無視して、腰から剣を抜き、肩に担ぐ。
その視線の先には、塔の残骸に紛れて地面に転がった大きな岩。この街の建物とは異質な黒っぽい硬質な岩だった。ドラゴンの欠片だ。塔にぶつかった際に削り落ちたのだろう。
ごと、と岩が身震いした。
アレクに遅れて四人も身構える。メイルはクライムと男を連れて後ろに下がった。仔牛ほどもある大岩がしきりに震える。そして動かなくなったかと思うと、その一部が細長く突き出て地面に脚をついた。そう、それは確かに脚だった。それを最初に岩は鈍い音を立ててどんどん形を変えていく。
岩は四つの脚で体を支え、口から深く熱い息を吐いた。人間のような五本の指に細長い手足、ずんぐりとした体。その姿はまるで醜く大きな猿のようだった。岩の猿がゆっくりとこちらを向く。顔に当たる部位には赤く光る眼があり、それがアレクを捉えていた。
歯をむき出して低く唸り、身を深くかがめる。
「下がってろ」
猿よりも早くアレクが大きく踏み込んで間合いを詰めた。
猿は甲高い声で叫ぶと右腕を振り上げ、同時に懐に飛び込んだアレクが下から剣を斬り上げる。金属音がして剣が右手に食い込み、猿はそのまま剣を掴む。岩の体に剣が通用していない。
ふっと短く息を吐くと、アレクは身をねじって更に一歩踏み込んだ。素早い動き。猿の悲鳴。気付くと猿の右腕はねじ切られ、根元から砕けていた。
逆上した猿は突進して掴みかかる、アレクはその場で一瞬身を固めて剣を後ろまで構え、大きく横に薙ぎ払った。
猿が吹き飛ぶ。
少し遅れて。
巨大な頭が地面に落ちた。
ごとりと重いその音が、生温い日常の終わりを告げる。
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