第一章その3

 その数十秒前、朝霧光は周囲を見回してようやく夏海に日記帳を返却することができた。

「あ、ありがとう……どこで拾ったの?」

「屋上の塔屋にある梯子の下さ、えっと……」

 夏海の名前を呼ぶわけにはいかず、口ごもってると夏海は察したのか自己紹介する。

「あっ私、風間かざま夏海なつみ

「よろしく風間さん……あの、昨日も屋上に上がって叫んだりしてた?」

 光は六月のあの日のことを思い出しながら訊くと、夏海は口を開けたまま固まり徐々に健康的な白い柔肌が、触れたら大火傷おおやけどしそうなほど赤熱して裏返った声になる。

「ど……どうして知ってるの? も、もしかして聞いてた?」

「ああ大丈夫大丈夫! 誰にも言ってないし、見たの一度だけだから!」

「だ……誰にも言わないよね?」

 夏海はまた泣きそうな眼差しで見つめながら言うと光は二度首を大きく縦に振る。どうすれば信用してくれるか? 答えはシンプルだった。

「い、言わないさ、僕だって叫んだよ……今年の夏休みを大切な宝物にしたいって、泣いたり笑ったり……恋をしたい……ってね」

 光は頬を赤くして恥ずかしい黒歴史を教える。これでおあいこだと思った次の瞬間、校舎の方からいくつもの悲鳴が聞こえた。

 なんだろう? 光は校舎の方に顔を向けると、二階の窓から女子生徒が躊躇うことなく飛び降り、光は幻を見てるかのように見つめ、夏海は目を見開いて両手で口元を覆った。

 だが着地の瞬間、華麗に前転! 受け身を取って立ち上がると悲鳴が歓声に変わった。

 桜木春菜だ! 立ち上がる勢いを利用してそのままダッシュ! 獲物に襲いかかるチーターのように詰め寄られた。

「おやおやおやぁ~? 誰かさんと思えば昨日の屋上の君じゃないか? 夏海に何の用だい?」

「お、お、お、落とし物だよ! 昨日屋上に上がったら風間さんの日記が落ちてたから」

 ヤバイ! 今度こそ喉笛を食い千切られる。全身から脂汗が噴き出し、命の危険を感じてると夏海が間に割って入る。

「待って待って春菜ちゃん! 朝霧君は落とし物を届けてくれたし、中身も見てないって!」

「どうかな? おとなしそうな見た目に反して、実はゲスかったりムッツリスケベだったりするんじゃない?」

 疑いの眼差しを向ける春菜、竹岡みたいにゲスいのはともかくスケベなのは否定できない。夏海もどうしていいかわからず、おろおろしている。

「待ってくれ桜木さん! 光は悪い奴じゃないよ!」

 そこへ望が駆け寄り、冬花も息を切らしながら追ってくる。

「はぁ……はぁ……二組の桜木さんに……一組の風間さん……だよね?」

 ありがたい! 二人が来てくれたからどうにかなるだろう。光は安堵すると、春菜は溜め息吐いて二人に訊いた。

「そうだよ、まさか……あなたたちじゃないよね? 二組の誰かが、校内で喫煙してたって噂流したの――おかげでホームルームが長引いたわ」

「ええっ酷い! なんで!?」

 冬花は驚いて信じられないという反応を見せる。桜木さんのいる二組に恨みでもあるのか? 望は首を横に振りながら否定する。

「少なくとも俺たちじゃないよ桜木さん、風間さん……場所を変えて話そう」

 周囲を見回すと、校舎の窓から生徒たちが注目していて騒ぎを聞き付けたのか反対側の校舎からも上級生、同級生、下級生問わず光たちに興味を視線を注いでいた。

 この分だと先生が来てもおかしくないと、そそくさとその場を後にした。


 細高を出ると熊本市内を走る路面電車(※通称:熊本市電或いは単に市電と通じる)の交通局前電停で乗り、通町筋電停で降りると熊本市繁華街――通称:下通しもとおりアーケードの夕方は仕事帰りの人や学校帰りの学生で溢れ、賑わっている。

 光達は下通にあるファーストフード店にあるマクミラン・バーガーに入り、それぞれ飲み物を注文し、エアコンが利いてひんやりとした店内に座ると、早速冬花が夏海に優しく話しかける。

「風間夏海さんだよね……前は吹奏楽部でフルートしていた」

「うん……去年の……夏までね」

 夏海は躊躇いがちに頷いた、もしかすると光は確信して訊いた。

「もしかしてさっきの人たち吹奏楽部? 戻ってきて欲しいって言ってたけど」

「戻るか戻らないか……決めるのは夏海よ。あたしはどっちも尊重するわ……まっ、あたしだったら戻らず、自由と青春を謳歌するけどね。辞めた者同士だから、気楽に寄り添い合ってるのよ」

 春菜は横目で夏海を見つめると、冬花は頷いてニッコリと言い放つ。

「うん知ってる! だってテニス部の練習中に突然ラケットを落としたかと思ったらコートのど真ん中で大泣きしたもんね!」

「えっ? 冬花、もしかしてその現場を見たの?」

 望が訊くと冬花は「うん!」と自信満々に頷き、黒歴史を暴露された春菜は恥ずかしそうに顔を真っ赤にし、破局噴火寸前の火山のように水蒸気を噴き出しながら早口で言い訳する。

「だだだだだだだだって、あんな暑苦しい二〇世紀に絶滅したはずの昭和のスポ根脳筋顧問の大神だから、毎日毎日毎日毎日来る日も来る日も来る日も来る日もテニスの練習ばっかりで休みもない、暇があったら練習練習練習の三拍子で気がついたらテニス部以外の思い出が全くなくて――」

「あ、あの……このこと触れないであげて……凄く気にしてるみたいだから」

「気にしてないよ夏海……本当のことだから」

 夏海が一生懸命フォローするが、春菜にとっては事実である以上受け入れるしかない。

 光は疑問に思ってることを口にした。

「去年の夏に辞めたって……どうして今になってを復帰を求められてるの?」

「吹部の空気が変わって、夏海が必要になったんだって」

 春菜が代わりに言うが、どういうことなのかはわからず光は勿論、冬花や望も首を傾げる。簡潔すぎて見かねたのか、夏海が説明する。

「前に吹部の顧問をしてた笹野ささの先生がお母さんの介護で辞めて、代わりに今年入ってきた柴谷しばたに先生が顧問になって吹部の改革を推し進めたの」

 吹部前顧問の笹野先生は恰幅のいい四〇代後半の音楽担当の男性教師だ。確か独身で母親とアパートで二人暮らししてたらしいが、去年の夏にその母親が階段から転げ落ち、足を骨折したため介護が必要になったと言ってた。

 後任の柴谷先生は今年やってきた新任の先生だ。

 フルネームは柴谷しばたに太一たいち。細高OBでウィーンの国立音楽大学を出ている。

 背はそれほどでもないが少し垂れ目の柔和で爽やかな落ち着いたイケメン俳優みたいな甘いマスク、浮き世離れしてることもあって女子生徒の間では大人気の先生だ。

 夏海は説明を続ける。

「それで……吹部の雰囲気がいい方向に変わったみたいで、さっき待ってるって言ってた守屋もりや恵美めぐみちゃんと一緒にいた駒崎こまさき八千代やちよちゃんに復帰して欲しいって言われてるの」

 ショートカットの子が守屋恵美でセミロングの子が駒崎八千代かと光は二人の顔を頭に思い浮かべながら訊く。

「風間さんは吹部に復帰しないの? しないならしないって言えばいいような気がするけど……何かあるの?」

「簡単に決断できれば苦労しないよ、部活を途中で辞めるのってさ……凄く勇気がいるんだ、ましてや一度捨てた部に復帰するなんて……相当な覚悟がいる」

 望の後半の口調は重く、春菜と夏海も同感だと言わんばかりに頷いた。望ももしかしたらきっと重い決断に悩んだことがあったのかもしれない。

 だけどあの時夏海は叫んでいた、もう吹部に戻りたくないと。

「そういうこと、今は鳴りを潜めてるけど……あたしも夏海も辞めた直後は陰で裏切り者呼ばわりされたり、根も葉もない悪い噂を流す奴らもいたんだ」

 春菜の瞳は忌々しいことを思い出してるようで、冬花は理不尽だと感じたのか首を横に振る。

「酷い! どうして? 途中で辞めたからって、そんなのおかしいじゃない!」

「……冬花、もし仮に冬花がどこの部でもいい。毎日の放課後は勿論、休みの日や夏休みも辛くて苦しい練習ばかりの日々を送っていて、一緒にいた人がある日突然辞めたとしたらどう思う?」

 こういう時、望は冷静で的確な質問を投げ掛けてくる。光だったら練習に嫌気が刺して辞めたんだろう? 人によっては楽な方に――そうか、そう考えるよな。

「えーと……なんで辞めて……あっ! そうか、自分だけ逃げたから!?」

 少し考えると冬花は頭にパッと花を咲かせ、思いついたかのように答える。

「ご明察! 部活を辞めると……それまで仲良くしていた奴らが手の平返して、陰であいつは逃げたとか裏切り者とか、自分だけ楽の方に逃げやがってとかで……酷い時は顧問が率先して辞めた奴の陰口を言ったり、いじめるように煽るんだ……理不尽な部活の練習の憂さ晴らしにするサンドバッグにしてね、そろそろ帰るわ」

 春菜はコーラを飲み干すと席を立ち上がり、夏海もそれに続くかのように鞄を持って席を立った。スマホの時計を見るとさすがにもう帰る時間だった。

 帰り際、誰かの視線を感じたが気のせいかもしれない。


 家に帰ると、訊きたいことが後から浮かび上がってきて、もっと訊いておけばよかったと光は後悔する。

 どうして吹奏楽部を辞めたんだろう? どうして戻るべきかどうか悩んでるのだろう? 何よりあの六月の晴れた日に、どうして夏休みなんて大嫌いだと叫んだのだろう?

 そう考えて一晩過ごし、翌朝登校すると一番絡まれたくない奴に絡まれた。

「おはよう朝霧、昨日はさぞ楽しかったんじゃないか?」

 竹岡が嫌味と嫉妬でいっぱいな口調と歪んだ表情で挨拶してくる。

 こいつ面倒臭っ! 一緒に登校してきた倉田がフォローしてくれる。

「朝っぱらから悪いな朝霧、こいつは嫉妬深いんだ……大変だったんじゃないか?」

「うん大丈夫……ありがとう」

 擁護してくれる倉田君に感謝するとチャイムが鳴る。いつもギリギリで来てよかったと思ってると、大神先生が着席を促しながら教室に入ってきた。

 昼休みになると、望からメッセージが来て食べ終わるなり冬花がどこかに行ってしまったらしい。

 こっちに来てないか? という内容だが、こっちには来てないと返信する。

「おい朝霧、まさか元吹部の風間さんとLINEか? やめとけ、あいつは確かに可愛いけど吹部辞めて以来とか色んな男をとっかえひっかえしてヤりまくってる清楚系ビ――」

 倉田は竹岡の顔面に目にも止まらぬ速さでキレのいい裏拳をかました。

「下品なことを口にするな食事中だ」

 竹岡が変なことしゃべると、倉田は時々こうして警告なしで実力行使に出るのだ。とはいえ夏海の悪い噂を誰かが流してるのは本当だとわかった。

「全くあんなのは根も葉もない噂だ。こっちなんか風間と桜木は実は女同士で付き合ってるとか、風間が笹野先生を介護で辞めさせるために母親を階段から突き落としたって聞いたぜ」

「マジ……それなら」

「今度は首筋をねじって全身麻痺にしてこれからの人生死ぬまでベッドの上にするぞ」

 倉田は言わせないと威圧感満載の口調と殺気に満ちた眼光で睨み付けると、顔面の凹んだ竹岡は観念したのか無言で頷いた。

 やはり変な噂を流されてるというのは本当だ。

 だとしたら春菜が部活辞めるまでの間、ずっと一人で心ない噂や誹謗中傷に耐え忍んでいたのか?

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る