第一章その4

 雪水冬花は昼休み、五時間目の授業の準備してくるという名目で一足早く音楽室に入ると中には誰もおらず、後ろの壁にはベートーベンやバッハ、ショパン等の有名な音楽の偉人の肖像画が飾られ、黒板の前にはグランドピアノが置かれていた。

「あの……こんにちは!」

 扉を閉めると音楽室は閉ざされた世界となる。

 外の校庭で遊んでる生徒たちの声がまるで遠い別世界のように聞こえ、一歩ずつ踏み締める冬花の足音が静かに響くと、隣の音楽準備室に通じるドアから一人の先生がゆっくりと柔和な笑顔で姿を見せた。

「はいこんにちは……えっとどちら様かな?」

「あっ、五時間目に授業を受ける二年三組の雪水冬花です。今日はちょっと柴谷先生にお訊きしたいことがあって早めに来ちゃいました!」

 吹部でもない生徒の訪問に柴谷先生は少し首を傾げてる様子だ。柴谷先生は背は低いけどイケメンで変わり者の先生で、音楽準備室を私物化してる噂だ。

「丁度お茶を淹れたところなんだ、飲みながらゆっくり話そう」

「あ、はい……お邪魔します」

 柴谷先生に招かれて準備室に入ると、楽しそうに談笑してる女子生徒が三人いた。

 制服のリボンを見ると一年生の紺色、二年生の赤色、三年生の青色と一学年に一人ずついて冬花と同じ二年生の子は確か一組の駒崎八千代さんだ。

「あれ? あなた確か……三組の雪水さん? 今日は如月君と一緒じゃないの?」

「あらあら可愛いお客さんが来ましたよ、先生ハーレムですね」

 背の高い抜群のスタイルで黒髪ショートにそばかす顔の知性的で大人っぽい風貌の三年生が「ニヒヒ」と茶化すと、柴谷先生も微笑みながら冗談に乗る。

「それは困った話しだね、家内に見られたら大変だ」

 一年生の子はおとなしそうな感じで、三つ編みお下げに黒縁眼鏡子をかけていて緊張した面持ちで「こんにちは」と挨拶した。

「えっと、皆さんはもしかして吹奏楽部?」

「そうよ、こちらは三年生でフルートの小坂おさか朱美あけみ先輩。そちらが一年生でトロンボーンの栢原かやはら美織みおりちゃん、そしてあたしはオーボエの駒崎八千代よ!」

 駒崎さんは二人の先輩後輩を紹介して自己紹介する。

 その間、柴谷先生はガラスのティーポットから五人分のカップに注ぐ、それはとても優雅で思わず見惚れながら駒崎さんが用意してくれた椅子に座る。

「柴谷先生の淹れる紅茶……とても美味しいんですよ」

 栢原さんは視線を柴谷先生に向けて仄かに艶やかな笑みを浮かべる。

 この表情、淡い恋心を抱いてるかも? 冬花はなんとなく察する。

 周りには紅茶を淹れるためのカセットコンロにやかん、ガラスのティーポットや茶菓子、あと柴谷先生の愛読書なのかジョージ・オーウェルの小説「一九八四年」や「動物農場」が置いてあって、どう見ても音楽準備室に置くような代物じゃない。

「あっ……美味しい」

 柴谷先生が淹れた紅茶を飲むと栢原さんの言う通りとても美味しい、音楽準備室を私物化してるのは本当のようだ。

 小坂先輩はうっとりした表情で言う。

「でしょう? 先生の紅茶を飲めば午後の授業は睡魔に悩まされずに済むわ!」

「朱美先輩、受験生ですよね?」

 駒崎さんに鋭く指摘されると、小坂先輩は「グハッ!!」と刃物で胸をぶっ刺されて吐血するようなリアクションを取り、両目を不等号にして嘆く。

「言わないでぇ~駒崎ちゃん! 高校最後の夏休み、いっそ八月三一日の夜に彗星が地球に衝突してくれたらと何度願ったことか!」

 それだとコンクールはどうするんだろう? こんなに楽しいと風間さんも――あっ! 吹奏楽部の人たちとティータイムを楽しんで目的を忘れたことに気付く。

「そうだ! 柴谷先生、風間さんのことなんですけど」

「!? 雪水さん、夏海のことどうして?」

 駒崎さんは戦慄した表情を見せて訊くと冬花は「昨日一緒に帰ったの」とだけ答える。柴谷先生はにこやかな笑みは鳴りを潜め、少し厳しい表情になる。

「駒崎さんや小坂さんから聞いたよ。僕の答えは……決めるのは風間さんだ。彼女の演奏を以前動画で見せてもらったけど、とても素晴らしいものだった。だけど、それとこれとはまた別問題だ」

「先生の言う通りよ……残念だけどフルート奏者の風間は……もういないわ、まあ戻ってくるなら歓迎するけどね」

 小坂先輩の表情は悲しさと寂しさが入り混じり、栢原さんは恐る恐る訊いた。

「あの……柴谷先生や私たちが来る前、吹部に何があったんですか?」

 小坂先輩は悲しげに唇を噛み締め、駒崎さんは徐々に顔を顰めてカップを持つ手を握り締め、怒気を放ち、血が出るんじゃないかと思うくらいギリギリと歯を噛み締めて忌々しげに憎悪に満ちた口調で言う。

「あの巨匠気取りの笹野……思い出すだけで虫酸が走るわ。高校生活を吹部だけにして結果を出しても褒めない、認めない、怒鳴る、頭っから否定する……何より才能溢れる夏海を……潰したのよ!」

 駒崎さんの瞳には全てを焼き滅ぼすような憤怒と憎悪の炎が宿り、栢原さんが「ひっ!」と怯えると隣に座っていた小坂先輩が優しい母親のように抱き締める。

「大丈夫よミオちゃん、怖くないわ。駒崎、気持ちはわかるけど落ち着きなさい……ミオちゃん怖がってるでしょ」

 小坂先輩は毅然と口調でした諭すと、駒崎さんはカップの紅茶をゆっくり飲んで落ち着かせると大きく息を吐く。

「すみません。でも、どうしても許せないんです……あたしたちの一年間、そして先輩の二年間をふいにしたあの顧問のことが……」

「駒崎さん、やっぱり……何かあったんだね」

 冬花は確信して言うと、小坂先輩が代わりに話し始めた。


 私が話すわ。いずれミオちゃんや柴谷先生にも話しておかないといけないことだったからね。

 柴谷先生が来る前、笹野が吹部の顧問をしていた頃は所謂ブラック部活だったのよ、聞いたことあるよね? ブラック企業とかブラックバイトとか、あれの部活バージョンよ。

 毎日始業前の朝練や遅くまでの練習、そのうえ土日祝日は自主練の強制参加。

 練習も笹野の罵声や怒号、理不尽な指導で何人も泣かされたわ……おまけに部活に支障が出るって、男女交際とかも色々禁止って入った後で知らされたわ。

 私もね、実は好きな人がいたの……中学の頃からのね。実を言うとその人と一緒になりたくてこの学校に入って、いい所まで行ったんだけど……話す機会もなくなって、その人も彼女作っちゃって失恋。

 そういう意味では私も笹野が憎いわ……今は二年の彼氏がいるけどね。

 ああそうだ、脱線したわ。雪水さんだったね? 風間のこと知りたいって?

 フルートの演奏……本当に素晴らしかったわ。

 才能溢れる天才と言っていいほどよ、あの子がうちの吹部に来た時はそりゃもう歓迎したわよ。一年のホープだったわ……今思えば入部を止めるべきだったわ、全力で……あの時の私たちは笹野のパワハラで洗脳され切ってた――いいえ、そうでないとやってけなかった。

 卒業した先輩たちの中には風間のことを快く思わない人もいたし、妬んで手段を問わず平気で嫌がらせや、憂さ晴らしにいじめて精神的にサンドバッグにする人もいた。

 笹野も笹野で風間に歪み切った形で期待して特に厳しくしていた……いいえ、厳しいなんてものじゃない、あんなの指導という名の悪質なパワハラ――いいえ最早虐待よ。

 笹野と先輩たちに板挟みにされたあの子は去年の七月、その日は台風が通り過ぎた暑い日だった。

 あの子は突然音を立てて壊れたわ。

 大会も近づいて笹野はいつも以上に罵声や暴言、指揮棒を飛ばして、私も怒鳴られたわ……午前中の練習が終わった時よ。

 あの子が突然吐いて倒れて保健室に運ばれたわ……熱中症だったと思う、幸い意識はあったけど笹野は気遣うどころか、練習が滞ったから滅茶苦茶に怒鳴ってお前には失望したとか今まで何やってたんだとか、そりゃもう人格否定のお手本と言えるほど酷かったわ。

 そして大会の前日の朝、あの子は音楽室に退部届けを置いて来なくなったわ……今にして思えば最初で最後の反抗だったと思うの、大会の結果も散々だったから。


「酷い話だな……そんなの顧問失格以前の問題だ……私が顧問になって最初にみんなの演奏を聞いた時、悪くはなかったけど……一番大切なことを忘れて、酷く怯え切っていて萎縮していた」

 小坂先輩の話しを聞いた柴谷先生の表情は険しかった。冬花はやっぱり部活入らなくてよかったかもと安堵してしまう自分が嫌いになりそうだった。

 すると、重苦しい空気を振り払うように駒崎さんは明るい笑顔で柴谷先生を見つめる。

「でも、あたしは柴谷先生が来てくれて本当によかった。練習は厳しいけど……決して怒鳴らず否定せず……音楽の楽しさを教え直してくれたから」

「私もよ! もうコンクールなんて行けなくていいから卒業までに吹奏楽を通じて音楽の楽しさを教え直して欲しいなってね!」

 小坂先輩は能天気に言うがまさか、小坂先輩も? 彼氏いるのに? その証拠に栢原さんはジッと絶対に負けないと、意志の強そうな眼差しで見つめてる。

 柴谷先生は知ってか知らずか爽やかな笑みで紅茶を口に運んでいた。

 二人とも左手の薬指に指輪が光ってるの忘れてない?

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