342話 火付役の悲しみ
でも、漕さんには全く効いていない。颷さんが中から押した分だけ、漕さんの伸びる。まるでゼリーに釘でも打とうとしているようだ。それくらい無意味に見える。
漕さんのお腹の中では、颷さんが火の理術を放ったところで、効果はほとんどない。属性の差が生きている。
焱さんは漕さんの割り込みを屋根の上から眺めていた。その隣に足を付ける。
「漕が来たと思ったら、雫まで来たのか。どうした、何かあったのか!?」
焱さんが僕に気づいてくれた。何があったのか聞きたいのはこちらの台詞だ。
「火の王館が燃えてるから消火の手伝いに来たんだよ」
「ハハッ! 水太子サマ自らお越しとは恐れ多くて受け取れねぇよ!」
焱さんが冗談を言った。でもその顔に浮かんでいる笑いは乾いたものだった。
「……情けねぇとこ見られたな。御役の裏切りなんて醜聞だ」
「そんなこと……」
焱さんの視線の先では颷さんが暴れまくっている。その内、颷さんが勢い良く膨らんで、漕さんは僕たちの目の前でパンッと弾けてしまった。
「漕っ!」
「漕さん!」
漕さんだった水分がバラバラに散っていく。集めに行こうとする僕の腕を、焱さんが思い切り引いた。
「雫、来るぞ!」
焱さんの動きにつられて屈みこんだ。頭の上を乾いた熱風が通りすぎる。
すぐさま立ち上がると、今度は颷さんが火の塊を発生させ、巨大な翼で煽ってきた。
風に煽られた火は瞬く間に広がって、辺り一面を飲み込んでいく。建物も枝も。高い位置にあるものから赤く染まっていく。
颷さん。本気で……。
「止まれ」
焱さんが片手を前に突き出して、一言命じる。目の前に迫った炎が不自然に止まった。焱さんの手の前に壁でもあるみたいだ。
「理力へ戻れ」
続けてそう命じると炎はパッと消えてしまった。焦げた壁や、真っ黒になった木がなければ、幻だったと思ったかもしれない。
「チッ。待て颷!」
颷さんがいなくなっていた。
しまった。今のは逃げるための時間稼ぎか。
火太子相手にまともに戦って勝てるはずがない。
「焱さん! 乗って!」
待機させておいた雲に飛び乗って颷さんを追う。二人で乗ることを想定していなかったから少し狭い。焱さんが弓を射るスペースを考えるとギリギリだ。
「くそ! どこへ行きやがったっ!」
焱さんが悪態をついた。
あの巨大な鳥を見落とすはずがない。
そう思って見ても辺りにその姿は確認できない。火の気配が多過ぎて、辿ることも難しい。
火の王館が見下ろせる位置まで昇っても、颷さんの姿は見つけられなかった。でも昇ったおかげで、火事が収まったことは確認できた。目的は違うけど、まずは良しとしよう。
「
すでに弓には矢がつがえてある。焱さんも本気だ。
「……ねぇ、颷さんって子ども、亡くしてるの?」
「あ……あぁ、漕に聞いたのか?」
漕さんのことも心配だ。元々が変幻自在の魚とは言え、バラバラに散ってしまって大丈夫だろうか。
「ううん、違うよ。さっき会った火精が教えてくれたんだよ」
「そうか」
焱さんは弓から少しだけ力を抜いた。僕に返事をしつつ、ゆっくり視線を動かしている。焦れったくなるほどゆっくりと、王館の端から端まで観察している。
獲物を狙う瞳、そのものだ。
「颷の子は生まれて一年にもならない内に死んだ。流没闘争の混乱の中でな」
「水精に殺されたの?」
そういう火精は少ないない。流れ
「いや、違う。寿命だった」
「い、一年未満で寿命!?」
「火精にはそういうのもいるんだよ」
火精は寿命が短いと聞いてはいる。でも、そんなに短い火精は初耳だ。焱さんだって少なくとも二百歳は超えている。
尤も焱さんたちは、最近は燃料が良くなったから長生き出来るようになったらしい。言流没闘争時に、その燃料が使えたかどうか。
いや、例えあったとしても颷さんの子が生き長らえたかどうか。
「でも颷はそれを受け入れていない。流没闘争さえなければ、生きられたと思ってる」
「寿命だったのに?」
軽く寿命とは言ったものの、自分の子の死をすんなり受け入れることは……難しい。難しいという言葉さえ軽く感じる。颷さんの心痛は僕なんかには計れない。
「俺みたいに鍼治療できる奴もいたが、当時は手一杯でな。木の王館にも駆け込んだらしいが、いつでも薬不足でよ」
流没闘争の惨劇を僕は直接知らない。ベルさまが戦いに明け暮れ、水精は混乱し、火精はその被害を受けた。
経験した
表には現れないところで、記録には残らないような被害がある。しかも身近なところで。
「それで土精から賢者の石を貰ってきて、飲ませても効果はない。当たり前だよな、寿命なんだから」
焱さんの目が一点で止まった。王館の中庭にある半分ほど焦げた一本の木だ。
黒く変色している枝に焼けていない葉がついている……ように見える。その一枚があまりにも不自然だった。
「それで……雫の泉ほどじゃねぇが、回復効果のある水を飲ませたんだが、残念ながら亡くなった」
雲を近づけようとすると、焱さんに止められた。
ここからかなりの距離がある。王館と同じくらい高い木が、僕の人差し指くらいの大きさにしか見えない。それでもこの位置から射る気らしい。
「焱さん……」
ここから狙えるのか。
いや、颷さんを本気で射つのか。
ギリギリと焱さんが弓を引く。
「颷はそれで子が死んだのは水精のせいだと言い張ってる」
颷さんが水精を嫌う理由が分かった。
水精側からすると理不尽な話だ。でも……
「理屈じゃないんだろうね」
「誰かのせいにしなきゃ、やってやれねぇんだろう……よ!」
矢が放たれた。
矢が届く前に葉に擬態した颷さんが気づいて枝から離れる。でも火太子専用の
「雫、悪い。飛ばしてくれ!」
僕の出せる最速のスピードで矢を追う。
颷さんが逃げ回っている。右へ左へ、上へ下へ、向きを変えてはいるけど、矢との距離は縮まっている。
「焱さん、
「心配すんな。
不安定な足場で焱さんが二本目の矢を放つ。
外れた。
雲のスピードが遅い。乾いた空気が雲を少しずつ弱らせている。速度が上がらない。
「雫、もっと飛ばしてくれ!」
「……分かった!」
懐に手を入れる。無造作に括った紐を手繰り寄せる。先代の木理王さまから頂いた形見の品。
これで雲は強くできなくても風は操れる。真っ赤に石化した果実の力を最大限に借りた。
「うぉっ!」
「わっ!」
一気に雲がスピードを上げて、ガクンッと頭が後ろに引っ張られる。
「このままの速度で頼む!」
「了解!」
手の中が熱い。
限界だ。焱さんが矢を放つまで、持ってくれ!
颷さんは一本目の矢に追い付かれている。だけど、それを頑丈な爪で払い落とそうとしている。
それを狙って、焱さんが二本目の矢を放った。
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