329話 先代水理王と免
「……え?」
ベルさまの姿を想像して、うっかりうっとりしてしまった。そのせいで反応がやや遅れた。
「ベ……いや、御上……えーと、当代に何かされたんですか? それとも言われたとか?」
ベルさまはそんなことしない。ベルさまは無闇に誰かを傷付けるようなことは絶対にしない。案の定、先代は首を振った。その上で、でも……と続ける。
『立太子のすぐ後、初めて顔をあわせたとき……どうやって、そんなに綺麗に理力を抑えているのか、と聞かれた』
「あー……あぁ」
ベルさまの、実はちょっと天然なところが出てしまったようだ。本人にとっては純粋な気持ちで質問したことでも、理力の弱さで悩む先代にとっては、嫌味に聞こえただろう。
『余は淼が恐ろしかった。淼は何でも出来る。何でも知ってる。何でも見透かされているようだった』
先代が突然立ち上がった。じっとしていられないという様子だ。灰色の肌が心なしか青ざめて見えた。
『余がしてきたことを全て。余はいつか淼に討伐されそうで恐かった。だから、淼に近づかないようにした』
先代は、まるで寒さから身を守るように、両手を体に巻き付けた。本当にベルさまのことが恐かったらしい。
『余は淼が憎かった。何一つ……余は淼に敵わない』
「それは憎いんじゃなくて、ただ羨ましいだけじゃないですか?」
『そうかもしれない』
迷うことなく答えた辺り、自覚があったのかもしれない。体を抱えた手を上げ、無造作に髪の中へ突っ込んだ。
『……
「僕ですか?」
『其は理王を憎く思わないの?其は今の理王より強いの?』
「いえ、全然」
僕も即答だ。別に対抗したわけではない。
ベルさまを憎いなんて思わない。思うはずがない。もし万が一そんなことを一瞬でも考えたら、それはもう……僕がおかしい。僕が僕でなくなったときだ。
……自分で何が言いたいのか、分からなくなってきた。
「僕は御上……当代に恩があるんです」
寧ろ恩しかないというか。いや、感謝と……あと
「当代は、消滅寸前だった僕を助けてくれました。その頃の僕は
『当代が……そんな……そうか……』
先代は、信じられないという顔をした。でもすぐに、何かに気づいたような顔に変わり、自分で納得していた。
『余はダメだった。その内、皆離れていって……付いていた者で残ったのはひとりだけだ』
ひとりでも支えてくれる人がいるのはありがたい。この人のために頑張ろうという気になれる。
「支えてくれる
『理力を流さなければ良い。余のところで止めてしまえば良い……と言われた』
最低だ。
支えるどころか
殴るか、蹴るか、斬るか、潰すか、してやりたいくらいだ。
「それで……貴方はどうしたんですか?」
『そんなこと、しない』
無意識に息が漏れた。理王が理力の流れを止めるなんて、理王であることを放棄したようなものだ。
『止めなかった……はずだった』
「はず?」
『余はその誘惑に心が乱れた。迷った時点で理力の流れがおかしくなってしまった』
「…………」
これは先代を責めるべきなのか?
部下の言葉に惑わされたことの責任は重い。でも思い止まったことは……流石に理王だ。
『おかしくなった流れを利用して、幾人もの水精が不相応な力をつけた。その内、領域争いになって……其も知っている?流没闘争と呼ばれるようになって……』
「知っています」
返答がちょっと……ぶっきらぼうだったかもしれない。流没闘争と聞くと、どうしても兄との嫌な思い出が蘇ってしまう。
流没闘争は美蛇の消滅によって終結宣言が出された。何だか、ついこの間のことのようだ。
他の
でも何故だ……。何故だか、引っ掛かる。
『淼が王館にいないことが増えた』
戦いを抑えるために戦うという矛盾した生活を送っていた……昔、ベルさまはそう言っていた。
『淼が王館にいないと皆、勝手に動くようになった。王館の財を持ち出されることもあった』
「誰も止めなかったんですか?」
本当なら、何故止めなかったのか聞くべきだろう。でも、この方にそれが出来ないのは明らかだった。
『淼の側近が止めていた気がする……でもよく知らない』
それは恐らく
『理力を止めて、余が強くなるように、とまた言われた。そうしないと流没闘争は終わらないと……』
「側近にそう言われたんですか?」
先代はまだ喋っている最中だったけど、口を挟んでしまった。どうもその助言は気に食わない。
『側近じゃない』
「侍従ですか?」
『侍従でもない』
「じゃあ……重臣の誰かですか?それともご身内?」
先代は小刻みに首を振った。
『真名は知らない。
「
免の二つ名だ。
その呼び名を聞いても思ったよりも冷静な自分に驚きだ。
『媛ヶ浦を救うため、余に精霊を食べさせるよう両親に助言をした精霊。王館にも付いてきた』
「それで……救済者にそう言われて、貴方はどうしたんですか?」
心臓がドクドクとうるさく音を立てている。先代が免の言葉に屈していたとなると、話が少し変わってくる。
『余は……出来ないと言った』
良かった。先代はやっぱり理王だった。理力が弱かろうが、覇気が少なかろうが、理王は理王だ。
『そうしたら、用済みだと言って……余が、余が食べた分の理力を奪われた』
いかにも免がしそうなことだ。月代で
『余はその瞬間、
王館に理王がいないのと同じ状態だ。
水理王が低位である時点で、すでに理王でなくなっている。理力をちゃんと流す意思があったとしても、低位の力では出来ない。
「それで退位することになったんですか」
『……余は自害した。余がいなくなれば淼が即位して流没闘争が収まる……から』
先代は屈んで骸骨の服を捲った。腹の辺りに傷ついた骨が見えた。刃物で傷つけられたような跡がある。
『でも淼は余を助けようして……先代は余を死なせなかった』
ベルさまが先代を助けようとした?
『先代は余が魄失になって、利用されるのを恐れた。だから、余をこの部屋に封印した』
最初の話とようやく繋がった。
話が途切れ途切れで分かりにくかった先代が、こんなにスラスラ話してくれるようになるとは……。この短時間でどんな心境の変化だろう。
『余は魄失になるつもりなんてない。この世に未練なんてなかった』
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