253話 免の行方

「免は東南東に向かったよ」

 

 水の王館へ戻ると、ベルさまは開口一番にそう言った。僕たちも報告したいことがたくさんあるけど、まずはベルさまの話が先だった。

 

「どうして分かるんですか?」

「こっちでも探ってみると言った手前、のんびりしていられなかったからね」

 

 現場にいた僕たちではそこまで分からなかった。うさぎに振り回されている間に、ベルさまは着実に仕事をしていた。

 

「土理に怒られない程度に水脈を伸ばした。不自然な理力を追いかけて、行けるところまでね」

 

 まぬがの後をこっそりつけるなんて、流石はベルさまだ。土理王さまも免に印を付けてわざと逃がそうとしていたらしいから、二人とも目的は同じだ。

 

 怒られることはない……いや、土理王さまならあり得るか。

 

「東南東には何かあるのですか?」

 

 潟さんが僕の代わりにベルさまに尋ねた。ベルさまの手腕に感心しきっている場合ではなかった。

 

「ここから見て東南東だから……厳密に言えば少しずれる」

 

 ベルさまが地図を広げてくれた。普段丸まっているせいで、すぐに戻ってしまう。適当な本や筆記具立てを置いて、三人で地図を覗き込んだ。

 

 ベルさまの白い指が地図の上を滑る。そのほぼ中央に大きく縁取られた箇所があった。泉よりも湖よりも大きい。

 

「ここが王城。普段あまり言わないけど、五つの王館を総称して王城と呼ぶ。私たちがいるのはその北側だ」

 

 ひ……広い。

 

 近くに書いてある森林地帯がすっぽり入ってもまだ余る。他の王館へ行くときは中庭を通ったり、渡り廊下を通ったりしている。近道しているので、ここまで広いとは思わなかった。

 

 端から端まで移動したことはないけど、試そうとしなくて良かった。

 

「水の王館から見て東南東だから少し下げて……」

 

 ベルさまは机の中から長い物差しを取り出した。こんなに長い物をどうやって収めていたのか。でもこれに突っ込んではいけない気がして飲み込んだ。

 

「ここから東南東だと概ねこの辺りだ」

 

 ベルさまは地図の上に筆記具を走らせた。直線が引かれていく。

 

「王城の中心がここ。水の王館からここに垂直に……」

 

 ベルさまが手際よく線を引いていく。水の王館から王城の中心へ。更にその線に対して垂直に線を加える。東へ向けて線を伸ばしていくと、最初に引いた線とぶつかった。


「やはりね」

「何ですか?」

 

 ベルさまが一人で納得している。そのスピードに付いていけない。潟さんも分かっていないようだ。僕一人取り残されているわけではないようで、ちょっとホッとしてしまう。

 

「ここは泰山たいざんという木精管理の山だ」

 

 ベルさまは二本の線がぶつかったところを指差す。更にその場所をトントンと軽く叩いた。

 

 泰山という名に潟さんがピクリと反応した。いつも垂れている前髪が小刻みに揺れている。動揺しているようだ。心なしか顔色が悪い。やっぱり理解できていないのは僕だけのようだ。

 

 ベルさまが地図から手を離した。代わりに腕を組んで、地図を睨んでいる。

 

「泰山には何があるんですか?」

 

 ベルさまが顔をあげてくれた。濃い色の瞳がまっすぐに僕を見つめてくる。

 

「何もないよ。泰山があるだけ。それに意味があってね。……あれ、天地開闢てんちかいびゃくの本は読み終えてなかった?」

 

 一瞬責められているのかと思ったけど、ベルさまは怒ってはいなかった。あくまでも純粋な質問だ。

 

「すみません。読み終えたと思ったんですが」

 

 正直にそう言うとベルさまは不思議そうな顔をした。もしかしたら僕が読み飛ばしていたのかもしれない。

 

 ベルさまは少し考えてから、まぁいいかと小さく呟いた。


「泰山というのは精霊界を守る砦みたいなものだよ」

「砦って……免はそこを崩しに行ったんですか?」

 

 早く追わないと、本当に精霊界が滅びてしまうかもしれない。のんびりはしていられな。竹伯や等さんが言うような危機が急に差し迫っている気がしてきた。

 

「まぁ、落ち着きなさい。泰山だけが砦というわけではないよ。他に四つの山がある」

 

 ベルさまの指が再び地図に乗った。泰山たいざんから指が下へ左へと滑っていく。

 

「南には衡山。ここは火精の山だ。西には金精の華山。中央には土の嵩山すうざん。そして北には水精管理の恒山こうざんがある」

 

 五つの場所をくるりとなぞって、ベルさまの指が地図から離れた。五山の中だと嵩山すうざんが一番王館から近い場所にあるようだ。

 

「この五つの山がこの世界を人間界から遮断しているらしい」

「らしい?」

 

 確定ではなく推定の言い方がちょっと気になった。

 

「直接経験したわけではないからね。ずっと昔……父から聞いた話だ」

 

 驚いてベルさまの顔を凝視してしまう。ベルさまは普段、玄武伯のことを語らない。漣先生でさえ、この件は腫れ物に触るようだった。


 どういう心境なのか、ベルさまから玄武伯のことを聞くとは思わなかった。でも玄武伯の言うことなら間違いないだろう。この世界を開いた精霊のひとりだ。砦を作ったのも始祖の精霊たちかもしれない。

 

「発言しても宜しいですか?」

 

 少しの沈黙の間をぬって、潟さんが軽く手を上げた。ベルさまが視線だけでそれを許可する。

 

「雫さま。先ほど免が地獄への案内をほざきましたが、断った際『人間と戦わずに済んだ上……』とぬかしませんでしたか?」

 

 要所要所に免を罵る言葉が入っている。恐らくわざとではなく、素だ。

 

「そう……だね」

 

 思い出したくもないけど、免の言葉を思い出す。鳥肌が立つような免の声が頭の中に入ってきた。

 

 ーー人間と戦わずに済んだ上、先々代水理王も助けられたのに。愚かな選択をしましたねーー


「っあの野郎、先生に何したんだ!」


 ドンッと机を叩いてしまった。不自然な沈黙が続く。

 

 大分時間が経ってから自分の口から乱暴な言葉が出たことにも驚いた。潟さんの言葉が移ったかも知れない。

 

「す、すみません」

 

 シワが寄ってしまった地図を撫でる。お義理程度に伸びたけど、折れ目が付いてしまった。

 

 ベルさまの表情が固い。品のない言葉を使ったから幻滅させてしまったか……。

 

「地獄への案内だって?」

 

 ベルさまは険しい顔のまま僕たちに問う。まだ報告していなかったので、免との会話を順序立てて説明した。

 

 石の精霊の皮を被って土の王館へ侵入したこと。

 地獄へ案内すれば今後、精霊は襲わないと示したこと。

 無患子の騒動も免が仕掛けたこと。

 土の王館で戦闘になって、追い詰められたら、大量のうさぎが湧き出てきたこと。

 

 地獄での出来事から話すと長くなりそうなので、とりあえずは土の王館での出来事だけだ。

 

「逃げられてしまい、誠に申し訳ありません」

 

 ベルさまに頭を下げる。

 

「いや、土理のことだから石の精霊がおかしいことくらいは気づいていただろう。その上で泳がせておいたんじゃないのかな」

 

 思わず顔を上げた。何故か潟さんまで僕と一緒に頭を下げていたらしく、少し遅れて腰を伸ばしているのが見えた。

 

「流石にまぬがだと分かったかどうか……。でも土の王だから土精には敏いよ」

 

 そうか、土理王さまは時間をかけて監視していたのか。それなのにあっさり逃がしてしまったから、垚さんはあんなに怒られてたのか。

 

 垚さん……生きてるかな。

 

 心の中で手を合わせておいた。

 

「で、まぬがは先々代のことも口走ったのか……」

「ベルさま、どうしましょう。先生に何か……先生は免に捕まっているんでしょうか。だとしたら助けにいかないと」

 

 前のめりになっていたらしく、潟さんに肩をそっと引かれた。父親のことなのに潟さんの方が落ち着いているように見える。

 

 でも僕の肩を掴む手は、少し強張っていた。

 

「いや、漣どのは無事だ」

 

 ベルさまが間髪入れずに答える。その自信に少し安堵が生まれる。 

 

「先々代は北の砦・恒山こうざんにいる」

 

 北に書かれた山を見据えながら、ベルさまはそう断言した。

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