235話 その名は『泣』
黄龍が髭を撫でるのを止めた。今度は髭を引っ張ったり、緩めたりしている。
「威圧は感じます。さっきから肌がビリビリしますから」
「肌がビリビリ? 儂はお前さんのくれた水でお肌ピチピチじゃがの」
お肌ピチピチ……。黄龍が前足で自分の頬を押さえる。肌って言うより鱗って感じだ。
……違う。そうじゃない。黄龍のマイペースさに思考を流されるところだった。
「まぁ、冗談は置いておくとしてじゃ。ここは『精霊の眠る場所』。復活を待つ精霊たちが傷ついた魂を休ませる場所じゃな」
「復活を待つ……死んだら来られるわけではないんですか?」
死ぬのと眠るのは少し違う。死ぬのは怪我や寿命を全うしたときで、精霊としての生涯を終えることだ。一方、眠るのは体が一時的に保てなくなったときだ。
「死んだら世界の理力に還ってしまうじゃろう。ここには来られんよ」
何を今更、みたいな顔をされた。随分表情が豊かな龍だ。眉もないのに眉が跳ねたように見えた。
それが精霊の常識なのか。それともこの場での常識なのか、定かではない。でも死んだらここには来られないと言うことは理解できた。
「……世界の理力といえば、お前さん、随分世界に愛されているそうじゃの?」
黄龍がピラピラと紹介状を振ってみせた。黄龍の大きな爪の先端に小さな紙切れが張り付いている。
「そのことでご相談が……」
やっと本題に入れた。長居は無用とか言っていた割には話が長くなってしまった。もっとも半分は僕のせいかもしれない。興味本位で色々尋ねてしまった。
粗方の出来事を黄龍に説明する。誰かにこの説明をするのは、もう何度目になるか分からない。そのおかげで説明に慣れてきた気がする。
「ほうほう。土精がのぉ。随分失礼なことを言ったもんじゃな」
そう言いながら黄龍は紹介状をひっくり返した。すぐにもう一度ひっくり返して、爪の先で書いている内容を追っている。
「概ね、この紹介状に書いてあることと一致しておるが、何ヵ所か端折られておる。大方、土理王の
「埼ちゃん……」
土理王さまをそう呼べるのは黄龍くらいだろう。試しに垚さんがそう呼ぶ場面を想像してみた。案の定、垚さんが袋叩きにされる姿しか浮かんでこなかった。
「僕はこの先どうしたら良いんでしょう」
僕が不快に思ったり、怒ったりする前に世界が動いてしまう。土精の件もそうだけど、潟さんみたいに近しい精霊も傷つけてしまうかもしれない。
迂闊に外を出歩けなくなってしまう。これでは視察にも行けない。
「水理王はお前さんが世界を回ったことで、繋がりが深まったと言ったそうじゃな。それは分かる。しかし儂はそれよりもお前さんの理力が気になっておるんじゃが」
「僕の理力に何か問題がありますか?」
黄龍は巻いた体をゆっくり解いて、尾で僕の体を撫で始めた。鱗の感触の他にチクチクした肌触りがある。
「何だか懐かしい気配なんじゃよ。この理力は我が友、
あまりにもくすぐったいので思わず尾を掴んでしまった。失礼なことをしていると自分でも思う。でも考えるより手が勝手に動いてしまった。
「
黄龍は怒ることもなく、僕に掴まれたままの尾の先端をユラユラと動かしている。
「顔は似ていないが、もしや親子ではないのか?
「父上……初代理王の……?」
声が掠れてしまった。ここで父上のことを聞くとは思わなかった。
「そうじゃ。
父上の名は
それが分かっただけでも来た甲斐があったと言うものだ。分かったからどうだと言うこともない。でも記録すらされていない父の名をここで知ることが出来るなんて、思ってもみなかった。
黄龍の尾を放す。すると今度は尾で僕の頭を撫で始めた。次いで暖かい風と冷たい風が体を包み込んだ。
「
黄龍は途中で考えることを放棄した。黄龍は精霊の大地を開いて、そのあと眠りについたとすると……恐ろしいほど長い間ここにいることになる。
ひとりだったら発狂しそうだ。
「あの泣き虫にも魂を繋ぐ相手がいたのじゃなぁ。父は達者か?」
今、サラッと父上の悪口を言われた気がする。でもさっき我が友と言っていた。だから悪口ではなく、慈愛の言葉だと受け取っておこう。
「父には会ったことがなくて……あ、いえ、御上が言うには会ったことがあるらしいんですけど」
僕は父を知らない。だから会っても気づかない可能性は大きい。でも始祖の精霊と呼ばれる偉大な精霊に対面すれば、否応なしに分かるはずだ。
しかもベルさまが言うには、水の王館にいるらしい。
「おかしいのぉ。初代は皆、王館にいるじゃろ? 王太子制が出来た折に必ず初代の…………いや、待てよ。あぁ、なるほどのぉ。そういうことかのぉ。
黄龍がひとりで喋ってひとりで納得している。急に体勢を変えて頭を低くし、目の高さを僕に合わせてきた。
「……お前さんの世界に好かれる理由は分かったぞ。土理王が何故、ここに寄越したかもの。何とかしてやらんこともない」
「本当ですか?」
黄龍がニィッと悪そうな笑みを浮かべた。白い歯が覗いている。噛まれたら腕や足を持っていかれそうだ。
黄龍は笑みのまま上を向いた。視線の先には潟さんと桀さんがいる。
「紹介状を持っているのは木精ひとりじゃな。どれ、水精の方を借りるとしようか」
黄龍が指をクイッと折り曲げると、潟さんが引っ張られるように降りてきた。本当に時間が止まっているらしく、ピクリともしない。瞬きもせずに固まっている。
「こいつも理力が強いのぉ。理王みたいじゃ。どれ魂は一旦預かるかの」
「ちょ、ちょっと待って! 潟さんに何するんですか!?」
黄龍が潟さんに爪を突き付けた。慌てて飛び出してその先端を止める。
「なに、傷つけはせんよ。ここには
黄龍は僕を払いのけて潟さんを鷲づかみにした。その瞬間、僕の目の前で潟さんが煙になって消えてしまった。
「潟さん!」
「心配性じゃのう。ちゃんと返すから心配するでない。お前さんは自分の心配をした方が良いぞ?」
黄龍はまた尾で僕の体をペチペチと叩き始めた。ちょっと鬱陶しい。
潟さんを握りつぶした手は開かずに、反対の手で何もない空間を指差している。何かを数えるような……吟味するような動きだ。
時々何かを撫でるように、指先を右から左へスライドさせている。
「誰にするかのぉ。水精……水精っと……」
ちょっと楽しそうだ。まるで幼子がお菓子を選んでいる姿を見ているようだ。ウキウキしている感情が一瞬だけ読み取れた。
「何か探しているんですか?」
「お前さんの相手をする精霊を選んでおるんじゃよ。水精の
そう言いながらも手は止めない。一体、黄龍には何が見えているのか。僕のところからでは何も見えない。ただ真っ白な宙を黄龍の指が滑っているだけだ。
「僕の相手?」
「そうじゃ。儂は今から木太子の相手をしてくるでな。お前さんの相手は別の精霊にしてもらうからの」
黄龍の指が一瞬だけ止まった。今度はまるで字を追うようにゆっくりと動いている。
今から桀さんの相手をするらしい。僕は何をしていれば良いのだろう。今の桀さんみたいに時間を止められて待機か……でも。
「僕のこと、何とかしてくれるのではないのですか?」
「してやるぞ。その相手を選んでおるのじゃ。……ふむ、これが良かろう。お前さんと同じ雨に通じる名を持つ者じゃ。相性は良いじゃろう」
雨……?
黄龍はそう言いながら潟さんを握った手を振り下ろした。
「目覚めよ、氷雨の
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