183話 初めての視察

 また部屋を移ることになった。この部屋は前の離れに比べたら大した月日を過ごしていない。けれど、最近になってようやく愛着が湧いてきたというのに、また引っ越しだ。 

 

 執務室と同じ階に王太子用の部屋がある。ベルさまの執務室が王太子用だったから、てっきり私室もそのままだと思っていた。

 

 でも私室は即位したときから、ちゃんと理王のお部屋を使っているそうだ。十年いたはずなの何でそんなことも知らないのかと、少しショックを受けたのはベルさまには内緒だ。

 

 ベルさまは一日の大半を執務室で過ごすから、執務室は私室と言ってもおかしくない。ベルさまも私室はなくても困らないと言った。ただ執務に関係ない物をしまっておくだけの物置と化しているらしい。

 

 そういうわけで、僕が今度入る部屋はベルさまも今まで使っていなかった部屋だ。

 

 二百年以上空いていた部屋はすぐに使えるような状態ではなく、掃除と片付けが必要だった。

 

「雫さま、これはどちらに?」

ぬた、それは壁に付けて」

 

 幸いなことに今度は三人いるから人手はある。

 

「雫さま、こちらはしまってよろしいですか?」

「あぁ、頼むね。ぬり

 

 ぬりぬたを呼び捨てにするのにちょっと抵抗があったけど、何度か呼んでいると意外とすぐに慣れた。

 

 二人を使う立場であることを自覚するようにベルさまに言われた結果だ。二人から敬称を外すと意外と嬉しそうだった。

 

 大きな変化は呼び捨てにした途端、二人の見分けがつくようになったことだ。これは不思議だ。ベルさまに尋ねたら、それは普通のことだと逆に不思議がられてしまった。

 

ぬた、机の向きが逆だよ。それだと引き出しが開かないから。あとぬり、本棚にお皿入れちゃダメだ」

 

 ふたりともちょっとずれている。人手はあるのに手間が二倍くらいかかる。

 

 でも、僕も王館に来たときは掃除もろくに出来なかった。焱さんと出会わなければ出来ないままだったかもしれない。それに比べればかなりマシだと思う。

 

 それに泥も汢も長い間地中生活だったらしいから、出来なくても仕方ない。

 

 土の王館に預けられてから、ベルさまから水門の管理を任されたらしい。水門を地中に隠し、必要なときだけ地上に出す係りだったそうだ。

 

「雫さま、そろそろお出掛けのお時間ですが」


 ぬりが皿を食器棚へ入れ直して、僕に声をかけた。午後には母のところへ行くと昨日の内に連絡をいれてある。

 

「じゃあ、僕行ってくるんで、あと頼むね」

 

 家具の設置を二人に任せて、華龍河へ向かう。ちょっと心配なことはあるけど任せることも学ばなくてはいけない。

 

 僕自身も初めての視察だ。無事に済ませて帰ってきたい。母上のところとは言え、ただの里帰りとは違う。それを忘れてはいけない。

 

「水門はお使いになりますか?」

 

 汢も片手で机を持ち上げながら尋ねてきた。机の行く末が心配だ。

 

「いや、御上が水先人パイロットを貸してくれたから必要ないよ」

 

 ぬりぬたに声をかけて未完成の部屋を後にした。

 

 帰ってきたとき部屋が荒れていたらどうしよう。

 

 悪い考えを振り払って、漕さんの待つ中庭に向かう。すでに池の表面から透明な魚が見え隠れしていた。

 

「お待たせ、そうさん」

 

 挨拶がわりというように、漕さんがヒレで水をかけてきた。顔にかかった水を蒸発させながら池に足を入れる。足が濡れると思ったのに、水が勝手に避けた。

 

「華龍河までお願いします」

 

 僕がそう言うと漕さんは一度潜って、巨大化して浮上してきた。以前、背中に乗せてもらったように跨がれということだろう。

 

 そう思い足を持ち上げたら漕さんに避けられた。口先で器用に後ろを示す仕草をしている。

 

 漕さんの後ろに輿こしのような船が出来ていた。一人用の屋根つき船とでも言うべきだろうか。これに乗れということらしい。

 

「これって御上専用なんじゃないの?」

 

 そもそも水先人自体が水理王専用だ。王太子になった僕だって独断では使えない。尤も勝手に使おうとは思わないけど。

 

 漕さんは僕の心配を無視して船を揺らしてきた。早く乗れと急かされているらしいので、足場の悪い船に乗り込んだ。

 

 足場は悪いけど敷かれた布団の厚みが凄い。ふかふかすぎて体重を預けるのが勿体ないくらいだ。大鳥の羽でも入ってるんだろうか。

 

「わっ」

 

 遠慮がちに腰を下ろすと漕さんは容赦なく船を出航させた。船は漕さんに導かれて池の中へと入っていく。


 水中でも船はしっかりと漕さんの後ろをついていった。紐でもついてるのかと思ったけど、そんなものは見えない。 

 

 漕さんが右へ左へと向きを変えてもちゃんと跡を追っている。乗り心地は快適だ。見た目は揺れているのに全くと言って良いほど振動を感じない。

 

 これが水先人の本来の仕事なんだろう。漕さんは出発してから一度も後ろを振り返らない。その透明な背中に絶対的な自信が現れていた。

 

 背中で語れるって何か格好良い。

 背中自体は透けてるけど。

 

 突然水量が変わった。目に見える揺れがなくなって、大河に出たことが分かる。懐かしい匂いだ。間違いなく母上の河だ。

 

 見覚えのある岩や穴が見えてくると、大きな渦が近づいてきた。まるで口をポッカリ開けた蛇みたいだ。

 

 母上が僕たちを誘導している。それは僕にも分かった。

 

 渦はどんどん太くなってトンネルを作っていく。そこに自ら飲み込まれるように漕さんは突き進む。

 

 見覚えのある岩を見て懐かしさに浸っていると、船が止まった。絨毯のような水草の上にそっと置かれた。

 

 漕さんは僕が船から下りて姿を消してしまった。僕を船ごと置いて漕さんは引き返してしまった。ここからは僕ひとりだ。

 

 水草へ導かれるように奥へ進む。広がった空間に母上が待っていた。

 

「母上! ただいま帰りました」

 

 母上は一段高い自分の場所で僕を見下ろしている。そこからわざわざ降りてきてくれた。


「ははう……」

「王太子・淼さまのご来訪に感謝致します」

 

 足が止まってしまった。母上から堅苦しい挨拶をされるなんて予想してなかった。

 

 でも母上が正しい。僕は仕事で来ているわけだから公私混同はいけない。

 

「出迎えご苦労様です。華龍河支流美蛇江の定期観察に参りました」

「窺っております。案内の者は必要ですか?」

 

 必要なはずはない。よく知っている場所だ。この形式ばったやり取りは必要なんだろうか。


「いえ、場所は分かりますので不要です。後程美蛇へ立ち入らせてもらいます」

「承りました」

 

 そこまでの会話を終えるとシーンと静寂が訪れた。母上は僕をチラッチラッと窺ってくる。

 

「えっと……母上、ただいま戻りました」

 

 儀礼的なやり取りは終わったはずだ。ここからは私的な話をしても良いだろう。僕が態度を切り替えると、母上も表情を一変させた。

 

「お帰りなさい、愛しい子っ!」

「ぐぇっ!」

 

 さっきまでの他人行儀はどこへやら。

 

 力一杯抱き締められた。母の大きな愛情に背骨が悲鳴をあげている。変な声が出てしまったのは許してもらおう。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る