144話 理王の記録
「久しぶりじゃの。朝から講義をするのは」
「そうですね。宜しくお願いします」
早めに自分の部屋を出たのに、資料室に向かう途中で先生と会ってしまった。目的地は同じだから一緒に向かっている。
「しかしまた一段と背が伸びたのぅ。わしも抜かれたな」
そう言う先生は僕と目線が変わらない。先生の身長を抜いたかどうかは微妙なところだ。
「高位になってから数ヵ月は理力量が不安定だったが随分と定着したと見える」
潟さんが来たばかりの頃だ。理力余剰だと言われたことがあった。気持ち次第ですぐに理力が動くから気を付けろと言われた。それがきっと落ち着いてきたんだろう。
「理力が安定したらもっと色々な理術が使えますか?」
「いや、もう理術に関しては教えることはないじゃろ。あとそなたに必要なのは理術では補えものじゃ」
剣術も数学術も……まだまだ教えて欲しいことがたくさんある。それに理術だって指南書を終えただけで経験が足りていない。紙の上だけでは分からないことがたくさんあるはずだ。
資料室に近づいたので少し先生から離れて先に扉を開けた。先生が中へ入るのを待って後から入室する。
「今日は世の知識に触れようかの。教養はいくらあっても腐らん」
先生はそう言いながら僕に待つよう指示をして部屋の奥へ消えていった。その間に借りていた本を手前の棚に戻す。今回、借りていたのは混合精に関する本だ。勿論水精を中心にした本だけど、確認されている混合精について詳しく書かれていた。
海藻は水精と木精の混合精。泥水は水精と土精で、温泉は水精と火精など様々な種類が列挙されていて、生まれる可能性の低さについても説明されていた。それを読んで
しばらくして戻ってきた先生は、分厚い本と本とは言い難い紙の束をいくつも抱えていた。本は固そうな表紙のしっかりした作りだけど。もう一方はただ穴に紐を通しただけのような簡易な綴りだ。
「すごい量ですね」
先生はその他に巻物を脇に挟んでいた。少し色あせていて嫌でも古い物だということが分かった。
「年譜と記録誌じゃ。三十冊以上はあろう」
水理王の記録。それはまた貴重なものが出て来た。
「新しい物は製本が終わっておらん。何しろ御上ときたら即位した際に書庫番まで追い出したかな。管理する者がいなくなってしまったのじゃ」
「はぁ……」
これ触ってもいいのかな。触れたら破れてしまいそうなものもある。先生はそんなことお構いなしに机の上に巻物を勢いよく転がした。堰き止められていた川が一気に流れ出すように勢いよく中の字が露わになる。
紙が長いから端までは見えない。多分今日は立ったまま話を聞くことになりそうだ。
「さて、順番通りなら精霊界創造の
先生はそう言いながら一冊の本を脇へ避けた。精霊界創造の話も気になるけど先生に任せよう。
「まずここを見よ」
先生が指し示す箇所を見ると『第三十三代 水理王即位』と書かれていた。
「三十三代って淼さまのことですよね?」
「そうじゃ。全てここから遡る」
高位に昇格したときだ。任命書の最後に第三十三代水理王と書かれていた。その時はあまり気にしていなかったけどこうして年譜を見ていると、歴史の一角に淼さまがいることを実感する。
「淼さまには真名がないのですか?」
少し遡って三十二代のところには『
「そんなわけなかろう。真名は引退したときに記されるのじゃ。わしの名も書いてあるじゃろう?」
先生……三十一代目のところには『漣』としっかり名が記されていた。
「当代御上の即位はおよそ二百年前じゃ。ここから遡るが、その前に他属性を見ようかの」
先生は淼さまの行をなぞると下の欄へ指を下げる。五列並んだ欄は一見するとバラバラに埋められているようだ。
「ここには各理王が即位順に書いてあるのじゃ。水精を軸にまとめた物じゃがな」
年譜の見方がなんとなく分かった。右へ行けば行くほど古くなり、縦に見ると他の理王が何代目か分かる。どうしても一番上に書かれた水理王のところに目が行ってしまう。けど意識して目線を下げれば、淼さまの少し前に木理王さま、少し後に土理王さまが即位していることが読み取れた。
上下を照らし合わせてみると今の各理王はーー
第三十三代 水理王
第四十二代 木理王
第五十六代 金理王
第二十八代 土理王
第六十一代 火理王
「代数に随分ばらつきがありますね」
一番少ないのが土で最も多いのが火の理王だ。この違いは何だろう。
「寿命の違いじゃ。火の寿命は短いからの。それでも最近は長生きしている方じゃ。王館では安定的に燃料が手に入るからの」
そういえば火精は他の精霊に比べて寿命が短いって焱さんが言っていた。焱さんは王太子になってから寿命が少し伸びたって言ってたけど、同年代の
「それと金精じゃが……金精は
火精同様、金精も在位期間が伸びているのか。昔に比べて精霊の暮らしが改善されてきたってことだろうか。
「水精・土精・木精は長寿の申し子じゃ。しかしそなたも知っている通り、木理は近年退位が早かった。昔は在位期間が千年を越える理王もいたようじゃがここ数代は……最短では十年じゃな」
「千年と十年……」
差が凄すぎて理解が追い付かない。十年というのは他の理王と比べてもかなり短い。僕が王館に来てから十年だ。今思えばあっという間だと思う。
「年譜を見てみよ。各理王即位の記録からは概ね空白があろう。その空白の長さが在位期間じゃ。近年の木理は隙間なく書かれておる。それだけ在位期間が短かったということじゃ」
例えば寿命が短いって言われた火の理王も記録を辿って数字を見ると三十年から五十年という方が多い。現代に近づくとその間隔はどんどん広がっていて、今の火理王さまは三百年を越えている。淼さまよりも在位期間が長い。
「木理は問題が解決したようじゃから今後は間隔が空くじゃろう。金精も黄金は錆とは縁遠い。
林さま、じゃなかった……新しい木理王さまは長く就いてくれると良いな。親しくしてもらった方が元気で長生きしてくれたら嬉しい。
「さて、ここまでは全体の基本的な話じゃが、水精に話を戻そう」
先生の声の調子が少し変わった。ほんのちょっとだけ固くなった気がする。
「水精の中で在位最短は先代水理王であるが最長は初代水理王じゃ」
先生が僕の前を歩いていった。最短だという先代水理王の名を通りすぎて紙の端へ移動する。僕も先生に付いて端へ行くと目の前には『初代水理王 即位』と記されていた。淼さまと同じように名が書かれていない。
「
「初代水理王の真名は書かれないのですか?」
先ほどの先生の話なら退位しているから書かれても良いはずだ。
「初代水理王は退位こそしてはいるが精霊界を支える役目を下りたわけではない。引退したとは言えぬから真名は書かれておらん」
退位したけど引退していないってどういうことかと一瞬思った。けど、先生も退位してから僕の指南役として復帰してるから似たようなものかな。その割には先生の名前はしっかり書かれているけど。
僕が少し混乱していると先生は宜しいと頷いた。それから少し移動して大量の本の中から分厚い一冊を取り出した。
「どれ、少し順序は変わるが初代さまに触れようかの」
先生が掲げる本の表紙には見覚えのある紋章が捺してある。漆黒の表紙に金字で描かれた初代理王の紋章はまるで夜の海に浮かんでいるように見える。
「まずはそなたの父の話じゃ」
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