143話 苦手な水
淼さまの声はするのに姿が見えない。
「垚。昨日返事をしたはずだ。来るのは構わないが今日の午後は謁見が入っているから後日にするようにと。まさか読んでいないなんてことはないだろうな」
垚さまは額にじっとりと汗を掻いていた。それを横目に潟さんが内ポケットに手を入れて小さな巻貝を一つ取り出した。
「や、やーね。読んだわよ。勿論分かってたわ」
「では、不在と分かって私の部屋を訪れたのか。土太子、無礼にもほどがある。土理王に伝えて罰を与えてもらおうか」
淼さまの声はその巻貝から聞こえるみたいだ。声がする度に潟さんの手のひらでわずかに揺れている。
「や、や、そ、それはまず……あたくし、帰るわね! じゃあ、雫ちゃんまたね!」
垚さまは慌てていたのか、今度はちゃんと扉から出て行った。空になった茶器を持って行ってしまったんだけど、後で返してくれるかな。
「御上が私をお呼びになった理由が分かりました」
端から見れば潟さんが誰にともなく発したように聞こえるけど、多分淼さまに向かっての発言だろう。
「ご苦労。雫もお疲れさま」
「あ、い、いえ。淼さま謁見は終わったんですか?」
潟さんが巻貝を手に乗せたまま近づいてきた。淼さまの声がさっきより鮮明に聞こえる。
「一件目は終わったよ。来週空いているところで視察の予定を組んでおいて」
早い。この分なら二件目の謁見も待たせることはなさそうだ。分かりましたと返事をして机上の予定表を確認する。
「それにしても潟に近衛用の貝を渡しておいたのは正解だった。花茨の事件を踏まえて外出用のつもりで渡したものがまさか今使うことになるとは思わなかった」
「謁見中に失礼いたしました。立場上、私では土太子を諫めるのは限界がありますので」
近衛用の貝か。いつでもどこでも淼さまと連絡がとれる感じかな。ちょっと羨ましい。
「はは。謁見中に垚の声が聞こえた時は驚いたけどね。緊急だと思われたらしくて早々に切り上げられた」
僕も会話に混ぜてほしい。ちょっとした寂しさは覚えたけど不思議と以前のような嫉妬心は生まれなかった。
「雫、垚は悪いやつではないけどちょっとクセある精霊だ。今回も私の返事を無視して勝手に訪問してきたくらいだからね。でも……あ、時間だ。また後で」
次の謁見が始まるんだろう。貝から淼さまの声が聞こえなくなった。潟さんは貝を再び服の中にしまう。いいなぁ。僕も欲しい。
「……雫さま、これは近衛用の連絡貝ですので侍従の雫さまはお持ちになれません」
「わ、分かってます」
じっと見ていたのがバレてしまった。それを誤魔化すように次の話題を探す。
「と、ところで垚さまは淼さまのこと苦手なんですか? 逃げるように帰っていきましたけど」
テーブルに残された皿と中身の残った
潟さんは少し唸りながら返事を考えているようだった。いつもなら間髪入れずに答えや意見をくれるけど、今回は違った。
「御上のことは理解できなくて苦手といったところでしょうか。真に恐れているのは土理皇上でしょう」
そういえば淼さまが土理王さまの名前を出した瞬間に顔色を変えて飛び出していった。
「御上も仰ったように
「責任感の強い知りたがりってどういうことですか?」
王太子なんだから責任感が強くて当然だろう。茶器のない皿を棚に戻しながらそう思う。いつもより広い隙間が寂しく見えた。
「あらゆることを自分で確かめたい。知りたいという気持ちが強いのです。現に今日も雫さまのことを自分の目で見極めようと来たでしょう?」
わざと蔑むようなことを言ったり、煽ってみたりして僕の耐性を見ていた。でもそのあとちゃんと助言もくれたから嫌なことではなかった。
「土属性の話なら分かります。しかし……今日のことに関して言えば、例えば
あ、確かに。淼さまでも先生に遠慮して教えてくれるのを控えることがある。途中まで教えてくれても続きは漣に聞けと何度か言われたことがあった。
「雨香くらいでしたら世間話程度ですから
潟さんはバサッと少し大袈裟に服の裾を直した。ずれていないはずの手袋も軽く引っ張って深く嵌める。
「じゃあ、何でそんなことをするんですかね」
「土の性質でしょうね。精霊の住む大地を守らねばならないという気持ちが根底にあるのです。全てを知りたいというのも全てを支えたいという思いからでしょうね。その分、頼れば喜んで助けてくれますよ」
ずっと昔だけど知らないことを知らないと言えるのは素晴らしいことだと昔淼さまから言われたことがある。知らないことを知りたいって思うのは別におかしいことではないと思う。
「ただ、土太子では御上を支えられないどころか、土の性質を以てしても抑えることは出来ないでしょう。そう言う意味で苦手なのですよ」
テーブルの片付けを終えて、淼さまの謁見の予定も組んだ。あとは淼さまが帰ってくるまですることがない。かと言って今から自分の部屋に戻るのもどうかと思う。潟さんもいるし、淼さまが帰ってくるまで大人しくソファにでも座って待つことにした。
「ところで潟さんは随分垚さまと親しそうでしたね」
潟さんにも向かいの席を勧める。僕の部屋ではないので勝手に勧めるのも変だけど、ずっと立っているのも変だろう。
「親しいと言いますか……そうですね。彼も王太子付の侍従武官でしたから」
垚さまの過去が垣間見えた。侍従武官って言うと潟さんの前の地位と一緒だ。属性が違っても同僚って言えるのかな。
「垚は現土理皇上が王太子だった際に付き従っていたのですよ。何でも……どこぞの地方で荒ぶっていたところを数種の精霊から袋叩きにされ、死にかけたところを視察に来た王太子に救われたとか踏まれたとか」
「踏まれ……?」
それは救われたのか、それとも足蹴にされたのか。足蹴にされていたらここにはいないだろうから救われたと思って良いよね。
「紆余曲折経て王館勤めになり、調子に乗っていたところで我らの御上に叩かれたとか踏まれたとか」
「踏まれ……」
ダメだ。紆余曲折も気になるけどもう踏まれたことしか頭に入ってこない。あとで分かる
「私はあまり詳しくありませんが、父なら分かると思います。明日、授業があると窺っておりますからお聞きになっては?」
是非そうしよう。先生の授業も最近は不定期だ。この機会を逃したくない。
「それと、雫さま。授業の話が出たのでついでと言っては申し訳ないのですが、明日、雫さまが授業の間だけ私は
「あ、分かりました。帰省ですか?」
珍しい。でも僕と潟さんが出会ってから一度も帰っていない。先生は一瞬で来ているけど、潟さんは王館に泊まり込んで僕に付きっきりだ。ちょっと申し訳ない気がしてきた。
「帰省というほどでもありませんが、手入れをして参ります。夕方までには戻りますが、御上がお出掛けの際はなるべく父と一緒にいてください」
淼さまも潟さんも心配しすぎだ。でも実際、王館の浴場で襲われたこともあるし、言われた通りにしよう。
「それと入り用の物があるので
「え、突然言われても思い付かないです」
市なんて単語は久しぶりに聞いた。笹のおじさん元気かな。
「明日までに何か思い付きましたら仰ってください。明日は土行日ですので土や石が並びますよ」
欲しい物は普段お世話になっている人たちへの贈り物だ。以前は淼さまの分しか手に入らなかったから、先生や焱さんへの贈り物をしたいけど、それを潟さんに頼むわけにはいかない。分かりましたと返事をしたけどきっと何も思い付かないだろう。
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