131話 水風呂

 夜霧でてつくような月明かり。その冷たい月光で目が覚めた。強い風に流された雲が光を削っていく。

 

 月を眺めながら水風呂に浸かっていたのだが、どうやら意識を飛ばしていたようだ。この洞窟なら誰かに寝込みを襲われることもない。強めに作った結界は私と私が許す者のみが通れる。

 

 浅く息を吐き出して浴槽の縁から左腕を下ろす。くすぐったさを微かに伴って水滴が胸を通り抜けていった。鎖骨に溜まっていた液体が振動で溢れたのだろう。

 

 凭れた頭を持ち上げようとすると、腹部が鈍痛を訴えた。無意識に手が伸びる。ざらりとした感触が水の中でも分かる。

 

 ーー治りが遅い。

 

 先日、水晶刀で刺された跡だ。傷口は塞がったが治ってはいない。しばらく動けないが特に問題はない。むしろ楽しささえ感じる。ここ最近こんな傷を受けたことなどない。

 

 適度な湿度が肌にまとわりつくのを楽しんでいると、僅かに空気が乾いた。誰かが結界内に入ってきたようだ。

 

 予定ならば三人いるはずなのだが、多く見積もって二人分の気配しかない。ひとりは今にも消えそうな弱い理力を感じるのみ。僅かに首を動かすと、月明かりが届くところにようやく姿を確認した。

 

 妖艶という言葉を物にした女性と真っ黒な物体。元の形を知らなければ何を持っているのかと聞いたかもしれない。

 

「……戻ったわ」

「あぁ、ごくろうさま。よく戻れましたね、いつ

 

 帰還を心から喜んでの言葉ではない。『命令を遂行せずによく戻れたな』という意味だ。いつは少し恐怖の混じった顔を私に向けた。皮肉は伝わったようだが決して目をらさない辺りが彼女らしい。

 

「私は『水晶刀と雫を持ち帰れ』と命じたはずですよ」 

「水晶刀は持ってなかったわ」

 

 持っていなかった……となると、水理王の手元へ戻ったか。惜しいことをした。前回会ったときに少し無理をしてでも奪ってくれば良かった。

 

「なら、雫は? 来ていないとは言わせませんよ?」

 

 いつは美しい顔を歪ませて下唇を噛んだ。しばらくそのままだったが、沈黙に耐えられなくなったようで、ついに私から目を逸らす。

 

「苦労したのですよ? 雫自ら花茨へ救援に行くようどれだけ手を回したか。竜宮城の精霊が来てしまっては意味がないですからね。各自持ち場へ行かざるを得ない事態を作り上げたのですから」

 

 雫が王館を出て竜宮城へ行くという情報を手に入れた。その間に雨伯の子等の領域各地で疫病や小競り合いなどの問題が起こるよう導いた。しかし、どれも竜宮の精霊が来ればすぐに収まる程度の規模だ。だから時には宥めながら鎮静化したように見せかけ、紛争のピークが雫の帰省と重なるように争いを高めたのだ。

 

 なかなか調整が難しく、ただ単に争いを盛り上げる方が余程簡単だった。

 

「っい……けてぇ……熱ぃ……」

 

 か細い声に回想の邪魔をされる。ちょうどいつが右手を持ち上げているところだった。

 

「ところでそれは木偶パペットですか?」  

「ええ、全部は持ち帰れなかったけど」

 

 そう言いながら私に炭のような物体を差し出す。直接触れることはせずに指をクッと折り曲げてそれを引き寄せる。宙で回転させながら観察すると白い一角があった。

 

「火精にでも遭遇しましたか、ベン

 

 炭の中では細い蛞蝓なめくじが一匹痙攣していた。莬は元々百匹以上の蛞蝓で構成されていたはずだが、一匹しか残らなかったようだ。その一匹もところどころ体の粘液がなくなり、ヒビが入っていた。

 

「雷伯にやられたのよ。おまけに塩水をかけられてね」

  

 雷伯も足止めしておいたはずだ。間に合ってしまったか。それは計算外だ。

 

「塩水……先々代理王でも同行しましたか」

 

 雫が使えるとしたら大気中の水分を集めた水か、自身の泉の水のどちらかだ。高位になったからといって塩水は使えない。れんのような海関連の精霊でもいなければ海水まで使えるはずがない。

 

「その息子よ。せきとか言ったわね」

「あぁ、あの塩湖ラグーンですか」

 

 雷撃による火傷と塩水による脱水か。よく生きてるものだ。浴槽から腕を伸ばし、なるべく傷口に触れないようにそっと蛞蝓なめくじをつまみ上げた。ヒィッと声が聞こえたのは空耳だろう。


「確かに雷伯と元理王の息子が揃ったら貴方たちでは勝てないでしょうね」

 

 少し見せていた怒りを静めるといつがほっとしたような表情かおをした。それを感じ取ってか否か今まで黙っていた蛞蝓が騒ぎだす。

 

「たい……痛いよぉ……痛」

「ああ、失礼。確かにこれは痛そうですね。冷やしましょうか」 

 

 自分が浸かっている浴槽に近づける。いつがアッと小さく声をあげて、慌てて口元を手で抑えていた。

 

「さぁ、どうぞ冷たいですよ」


 指を浴槽の縁に置いて蛞蝓なめくじに下りるよう促した。浴槽の冷たさを感じ取ったのか動きは鈍いが前進していく。縁から浴槽の中へ下りる途中で勢い良く水の中へ入っていった。

 

 落ちたのか飛び込んだのか知らないが別に興味もない。

 

「ギッ………………」

 

 一瞬悲鳴が聞こえたのは気のせいに違いない。突然訪れた静寂にうっとりして目を閉じた。

 

「……残酷ね」

 

 あぁ、まだいたか。もう少し静寂の余韻に浸っていたかったのに。

 

「貴方が入ってたのは王水でしょ。そんなものに触れたら金精じゃなくても……」

「苦しまずに済んだのですよ」

 

 何か残酷なものか、失敗した者を苦しめずに送ってやったのだ。むしろ感謝されるべきだと思う。

 

「完璧とは言えませんが木理王の弱体化としもとの件はよくやりました。だから最期を楽にしてあげたのですよ」

 

 浴槽の端へ足を掛け水の中に手を入れた。王水をひと掬いし自分の顔にかける。冷たい水は怒りで沸騰しそうになる頭を冷ますのにちょうど良かった。

 

「『ベン』の名は没収しますがね」

 

 いつが何か言いたそうだったが無視して浴槽から上がった。体の表面に残った水分が衣服を構成していく。床に足を付ける頃には全て着用済みだ。

 

 だが服の必要ない手や髪は濡れたままだ。

 

 前髪からポタポタと雫が滴り落ちてくる。月光を取り込んだ目の前の雫を指で掬った。

 

 雫ーー新たな名を付けるのを楽しみにしていたのに。 

 

 例外の魅力を跳ね返したあの少年。

 

 例外に惹かれない者など理王や王太子、それに次ぐ高位精霊くらいだ。いや、理王ですら陥落させたこともある。

 

 雫は今でこそ高位精霊になったようだが、あのときは一介の叔位カールだった。何故、例外の魅力が効かないのか……。水晶刀の力か、それとも彼自身の力か。

 

 いずれにせよ、興味がある。

 どうすれば雫に例外の魅力を感じてもらえるのか。様々な案を巡らせ思い付いた。

 

 例外の魅力が効かないなら、いっそのこと彼自身を例外にしてしまえば良いのだ。

 

 そうすればその素晴らしさが分かる。一度でも例外を手にすればその虜になるはずだ。彼も離れられなくなるだろう。もしそれでも拒絶するならその理力だけ奪い取れば良い。

 

 もうすでにいくつか名の候補も決めてある。必要ならば名に合わせて性別も変えられる。彼が望むなら水精でなくすることもーー。

 

「それで次はどうするの?」


 楽しい思考を邪魔された。逸は挑戦的な目をしているがむき出しの肩は隠せないくらい震えている。顔さえ見なければ笑っているのかと思うかもしれない。

 

「貴女は私の右腕ですが初めての失敗ですね。だから軽い仕置きをあげましょう……」

 

 一瞬で距離を詰めて頭ひとつ分低い逸の額に右手を当てた。さらに腕を伸ばして逸の首に右腕を絡める。いつが息を飲んだ音がする。

 

「しばらく私の腕の中で休みなさい」

 

 そう言い終えるころにはもう逸はいなかった。あるべき場所である私の右腕に吸い込まれたから。

 

「さて、ベンいつもいないとなると……フフッ、お待たせしました。やっと貴方の出番のようですよ」

 

 強い風が吹いて雲が勢い良く流れていった。光量が戻っても決して明るすぎない快適なここは気に入った場所のひとつだ。一見すると狭い洞窟だが外との境目は分からない。何故なら私がそう定めたから。

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