閑話 美蛇江 渾~雫との出会い②

 椅子の上に巨大な氷。小さな氷山と言っても良いかもしれない。妹が段差を降りて駆け寄ってきた。力いっぱい抱き締められて少々苦しいがそのままにさせておこう。怖かったはずだ。

 

「皆怪我はないですか?」

 

 背後の妹弟の群れから現れたのは正装の母上だった。倒れていた弟二人を助け起こし、足にまとわりつく小さい子たちを優しく制している。

 

 登城していたはずだったが思ったよりも帰りが早い。構えた氷剣を下ろすとすぐにバラバラになってしまった。氷剣も水槍も得意ではない。多少の威嚇にでもなればと思って構えただけだったから使わずに済んで少しだけほっとしている。


こんも大事ありませんか?」 

「母上……ありがとうございます。助かりました」

 

 母は抱きつく妹の頬に手を当て、反対の手を自分の後頭部へ回してくる。母の背を抜かして久しいが、母にとっては自分はいつまでも子供なのだろう。

 

「お、お帰りが早かったですね」

 

 弟妹の前で母に頭を撫でられるのが恥ずかしくて、そっと手を抑える。幸い母は何も言わずに手を下ろしてくれた。

 

「えぇ、立太子の儀が短縮されたようで早く戻れました」

 

 母は小さい子供たちを奥へ戻すように妹に指示をした。怪我をした二人の弟も速やかに手当てをする。母の理術で怪我はみるみる消えていく。この分だと跡も残らないだろう。

 

 自分が不甲斐なく思える。弟と同じ叔位だから仕方ないと言えば仕方ないのだが、兄として守ってやりたかった。

 

「これは下流の仲位ですね。王館で見ないと思っていたらまさか我が家に来ているとは」

 

 母が段差を上り氷の固まりを覗き込んだ。碧の髪が葦のように流れている。

 

 氷付けになっている男も高位精霊だから儀に呼ばれていたはずだ。しかしこんな男が王館に上がるなど……何か面白くない。

 

「母上、弟たちを休ませてきます。この男はどうしますか?」

 

 怪我が治ったとは言え、まだ気絶したままの弟を抱える。ひとりは肩に乗せ、もうひとりは脇に抱えた。流石に重すぎるので少し波の力を借りた。ひとりだったら自力で持てたかもしれないが。

 

「一旦下流に送り届けましょう。そのあと御上に上奏し、沙汰を待ちます」

「送り届ける?」

 

 そんな丁寧なことをしてやる必要があるのかと聞き返してしまう。

 

「そうです。どんなに憎くても私たちが手を下すことは出来ません。罰を決めるのは御上のお役目です」

 

 何故だ。勝手に領域に入り、弟を傷つけ、妹に手を出そうとした。それで何故丁重に扱わなければならないのか。沙汰を待つ間にこの男がまた来るかもしれないのに。せめて捕縛しておいても良さそうなものを。

 

「それがルールです」

 

 そう言われてしまえば黙るしかなかった。母がおもむろに川の水を動かし、氷の固まりを運び出した。恐らく下流に運ばれるんだろう。

 

「身内が誰かいるでしょうから私からだと分かるでしょう。迂闊に攻めてくることはないでしょう」 

 

 母がそう言うならそうなのだろう。もう来ないならそれで良い。しかし、心には釈然としない何かが残っている。

 

 

 

 ◇◆◇◆

 

 

 

 ーー夜。

 本体である美蛇江に帰って来た。

 

「波動の理 命じる者は 美蛇のこん 動きを止めて 凍てつくたれ 『四方氷壁』!」

 

 用意しておいた水球が一瞬で形を変えて凍りつく。平らな波乗板サーフボードを縦にして四方を覆ったような形状が出来上がる。何度か繰り返してようやく自分の身長と同じくらいの高さにはなった。

 

「はぁ……はっ」

 

 頬を汗が伝ってきた。初級理術だがその中では難易度が高いものだ。今まで使おうとも思わなかった。だが、あんな男に侵入された以上、この先同じようなことがないとは限らない。

 

 母がいるときは良い。しかし、母は幼い子達の本体を管理するため支流に出歩いていることが多い。そうなったときに弟妹を守れるのは長兄である自分だ。一呼吸おいてもう一度詠唱を始める。

 

「凍てつく気 命じる者は 美蛇の渾」

「あら、熱心ね」

 

 背後から女の声がした。驚いて振り向くと同時に飛び退いてしまった。手頃な岩に腰掛けた女がいる。岩と同じような色の服だ。

 

「だ、誰だ!」

 

 昼間と言い今と言い、今日は侵入者の日だ。昼間の奴とは違うみたいだが不審者であることに違いはない。

 

 理力はそんなに感じないから高位精霊ではないだろう。いつから入り込まれていたのか、全く気づかなかった。身構えて今放とうとしていた攻撃に備える。

 

「あらあら、驚かせる気はなかったのよ。でも何度お声をかけても気づいてくれないから勝手に入ってきちゃったわ」

 

 軽く謝罪をしながら女は立ち上がった。体のラインにぴったり合った裾の長いドレスは妖艶さを感じさせる。肩から腕は剥き出しだ。少しだけ嫌悪感を覚えた。

 

「それは……申し訳ない。気づかなかった」

 

 声をかけたというなら侵入者ではなくて客か。気づかなかったこちらの落ち度だ。

 

「あら、怒らないの? 優しいわね」

 

 うふふと耳に心地よい笑い声を上げて女は近づいてきた。見た目の嫌悪感に反してもっと聞きたくなるような声だ。

 

「私はいつ。貴方の名前は何て言うの?」

 

 少しぼーっとしていたらしい。気づけば女は目の前に迫り、逸と名乗った。真名を名乗られたからには名乗り返すのが礼儀だ。

 

こんだ。美蛇江の渾」

 

 そう返すと逸は良い名前ねと言いながら更に一歩踏み込んできた。少し前屈みになって自分を見上げてくるので露出が気になってしまう。それが寒そうで咄嗟に自分の上着を脱いでいつの肩にかけた。

 

 逸はキョトンとした目で見上げてくる。しまった! 弟妹にする感覚で直に肌に触れてしまった。罵られるかもしれないと覚悟をしていると予想外に微笑まれた。

 

 その笑顔を見てホッとする。何故ここに来たのか聞こうとしたが、どうでも良くなってしまった。

 

「ふふっ、ありがと。お礼にイイコト教えてあげるわ」

「イイコト?」

 

 逸は更に距離を詰めてくる。誰もいないのに声を潜めて口許に手を当てる。その仕草に誘われて耳を近づけた。屈んだ肩に手を置かれる。

 

「さっきの詠唱ね、『美蛇の渾』のところを『大河の子』か『華龍の子』に変えてみて」


 何故と聞こうとして口を開いた瞬間、唇に指を当てられる。黙ってやってみてと言われた気がするが、その指の柔らかさと冷たさに意識を持っていかれる。

 

 逸が離れていく。少し名残惜しさを感じたがやってみろと言うからには実行しなくてはならない。まずは水球を四つ作り次の詠唱に備える。

 

「波動の理 命じる者は 大河の子 動きを止めて 凍てつくたれ 『四方氷壁』」

 

 顔面に水圧がかかって息が詰まる。苦しいはずなのに驚きが勝ってあまり苦しく感じなかった。厚さも大きさも先ほどの氷壁とは比べ物にならない。倍かそれ以上か。もう少し本気でやれば地上へ突き抜けるかもしれない。

 

「すごーい。いくら高位の名を借りたからって普通ここまではならないわ。素質をお持ちなのね」

 

 少し後ろで逸が手を叩いていた。褒められて悪い気はしない。先ほどの嫌悪感が嘘のように消えていた。

 

「母の理力を借りたのか?」

「そうね。けど華龍河にとってはこの程度の理力なんて髪の毛一本分にも及ばないわ」

 

 これだけの違いがあって髪の毛一本分だと?

 

 高位精霊との違いはこんなにもあるのかと愕然としてしまう。肩を落としていると逸の手がそっと腕に触れた。

 

「そんなに落ち込まないで、低位なんだから仕方ないわ」

 

 低位なんだから……その言葉が胸に刺さった。その通りだ。弟妹たちをまとめられていると思っていたが、同じ叔位カールの分際で守ろうなんて無謀だったのだ。

 

「貴方は低位なんだから守られて当然でしょう?」

 

 守られて当然……そうだ。自分だって低位だ。だから高位に守られて当然。それがルールだ。

 

「なのに貴方は守ることに一生懸命で……でも低位だから理力が足りないのよね?」

 

 低位だからと言うフレーズに力が込められたのは気のせいだろうか。ただ内容はともかくこの声は心地が良い。もっと聞いていたい。

 

「それなら貴方を守るべき高位精霊から理力を借りる権利があると思わない?」

 

 いつが両腕を絡ませてきた。肩に頭を軽く乗せられるが重さを感じない。見上げてくる灰色の瞳と視線が交錯する。

 

「しかし、母上の理力を……」

 

 いくらわずかとは言え、母の理力を奪うことになる。それは出来ないと頭を思い切り横に振って、安易な選択をしそうな自分を戒める。

 

「華龍河もそうだけどもうひとりいるでしょう? 本来なら貴方の保護者たる精霊が」

 

 ねぇと言いながら顔をゆっくり近づけてくる。視界が逸でいっぱいになる。

 

「お父上の理力があるでしょう?」 

 

 首の後ろに手が回されたのが分かる。耳は心地よい声に満たされて他のことはどうでも良くなった。

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