113話 雫の護衛
先生の顔に深く刻まれた皺がない。肌は瑞々しく張りがあって、濃い色の銀髪はかなり豊かになっていた。オールバックに撫で付けた髪はいつもと同じだけど、ただ違うのはひと房だけ額に垂れていることだ。
元々背筋が伸びていたけど、今は背中に定規でも入っているんじゃないかと疑うくらいはまっすぐだ。
そして何より違うのは目がちゃんと開いていることだ。若干、垂れ気味の目は本当に先生かと疑ってしまうほどパッチリ開いている。澄んだ海のような瞳の色までよく分かった。
「先……生?」
恐る恐る声をかけると若い先生が口元を緩める。普段先生はこんな微笑み方をしない。
「雫、わしはこっちじゃ」
え?
いつもの年老いた……元へ、熟練の先生がソファで寛いでいた。目の前の若い先生と見比べてキョロキョロしてしまう。状況が飲み込めない。先生が二人いる?
「それはわしの
先生の息子さん?
聞き直そうとしても驚きで声が出ない。口をパクパクさせているとドンッと言う音に驚かされる。淼さまが執務席で判子を捺していた。
欠けてしまって金理王さまに修理に出した判子だ。その日の内に直ったらしいけど僕が金の王館で騒ぎを起こしてしまったので、取り調べを受けている間に金精の誰かが届けてくれたそうだ。
「待たせた。これが任命書だ」
淼さまは手元の長い紙を巻いて先生の息子さんに差し出した。頭を下げながら両手で恭しく受けとっている。
「謹んで拝命いたします」
高く昇った太陽が差し込んだ。二人のそれぞれ色の違う銀髪が窓から差し込む光を受けて更に輝いている。
寒流の中に
喉の奥の……胸までいかない辺りが詰まる感じがする。苦しいまではいかないけど息がしづらい。
「さて、雫もお待たせ」
淼さまから声がかかって胸につかえていた何かがスッと消える。息をするのが楽になった。
「金と木には行ってきたんだよね?」
「はい。えっと……」
腰に結んだ袋に手を掛ける。金理王さまから預かった腕輪を渡したいのに結び目が固くてなかなか解けない。
「まぁ、話は後だ。まずは紹介しよう」
淼さまが僕の動きを制して手招きする。執務席に近づくと先生の息子さんが自然に場所を開けてくれた。
「雫。今日から雫に護衛を付けることにした」
「ほえー?」
ホエーって発酵させた乳の上に溜まる水みたいな成分のことだよね。それを僕に付けるって? 僕は淼さまに心配されるほど肌荒れしていたのだろうか。
両手を頬に当てて肌の調子を確かめていると息子さんが僕をじっと見ていることに気づいた。折角背が伸びたのに頭ひとつ分僕より大きいから見下ろされている。
「この度、御上から雫さまの護衛を賜りました。
先生の息子さんは
潟さんは真っ白なシャツに真っ白な手袋をしていて清潔感が漂っている。蝶ネクタイとベストは同じ黒で揃えていて、ジャケットは背中の方がかなり長かった。こういうの燕尾服って言うんだっけ。
「父共々、お世話になります」
ところで
ぎゃーーーーっ!!!
……心の中だけで叫んで耐えた。鑫さまに
「
「ち、忠誠っ!?」
手を取り返そうとしてもびくともしない。強めに引いてみても動かなくて僕の腕なのに僕のじゃないみたいだ。
助けてほしくて淼さまを見る。淼さまは机に肘をついて両手を組み、その上に顎を乗せていた。僕のこの状況を楽しんでいるように見える。
「
先生が助け船を出してくれた。
背筋が伸びて、目がパッチリで、ニコニコしていて……これだけ先生と違うところがあるのに先生とそっくりなのは何故だろう。やっぱり父子だからだろうか。
「さて挨拶は済んだね。
潟さんは先生のソファまで下がった。座るのかと思ったら先生の後ろに控えて立っていた。
僕は徽章を外して淼さまに渡す。淼さまは徽章をひっくり返したり、縦にしたりして眺め、更に縁の青い部分を一周指で撫でた。
「良いデザインだ。
淼さまは満足そうに頷きながら僕に徽章を返してくれた。先生が後ろから感嘆の声をもらす。
「ほぉ! 淡水魚か水草を使うかと思ったが、良い選択じゃ。鷺は長期の目標達成の象徴じゃからの。雫にはぴったりじゃ」
鷺にそんな意味があったんだ。受け取ったとき、泉だから水鳥なんだろうなってことしか考えなかった。初めて手にした自分の徽章に泉や仲位の紋が入っているだけで感動的だったので、そこまで考えていなかった。せっかく考えてくれた金理王さまに失礼だったかもしれない。
「あ、それと淼さまにもうひとつお渡しする物があって……」
言いながら袋の結び目を解く。淼さまは少し首をかしげて待っていてくれるので焦ってしまう。
ようやく緩めて袋の口をゆっくり下に向けると袋のサイズに合わないお盆が滑り出てきた。片手でしっかり押さえて腕輪がちゃんと乗っていることを確認する。
「金理王さまから
淼さまにお盆を差し出す途中で手が止まってしまった。こんな表情の淼さまを見たことがない。パッと見ただけでは無表情に見えるけど、実際は色々な感情が織り込まれている。
一瞬だけだったけど、淼さまから流れた理力が乱れていた。そこには嬉しいような、懐かしむような、悲しいような、慈しむような……それと僅かな怒りも感じられた。
「び」
「……直ったのか」
口を開いたのは同時だった。少し淼さまの方が早かったかもしれない。淼さまは手を伸ばしてお盆ごと腕輪を受けとった。僕の
執務席の前に立っているけど多分僕のことは目に入っていない。下がった方が良いだろうか。首を捻って先生の様子を窺うと先生も微妙な表情をしていた。そこから感情は読み取れない。
もう一度前を向くと淼さまは腕輪を両手で持って額にくっ付けていた。その体勢は何かを祈っているようにも見えるし、嘆いているようにも見える。
その腕輪は淼さまにとってとても大事なものだってことがよく分かった。部屋に置いていかずに持って歩けって、焱さんが言ってたのはこういうことだったんだ。
「……雫」
「へ、ふぁい」
予想しなかったタイミングで呼ばれて返事が変だ。周りから何も言われないので余計に恥ずかしい。
「正式に侍従になったし、引き続き身の回りの世話をしてもらおうと思っていたけど、侍従長としての初仕事を与える」
侍従長と淼さまから役職名で呼ばれてドキッとしてしまう。そもそも他に
「水理王の遣いとして雨伯の居城 竜宮城へ行け」
ようやく顔を上げた淼さまはいつもの表情に戻っていた。
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