閑話 美蛇江 渾~雫との出会い①
「ちちうえー、ちちうえー」
早く父に会いたくて裸足で来てしまった。初めて出来た
父を探していると自分と同じ色の髪が目に入った。床にまで流れる髪を水面から入り込む光がゆらゆらと照らしていて、髪が波打っているように見える。
「ははうえ、ちちうえはどこですか?」
もちろん母にも見せたくて急いでやって来たのだ。母を愛してやまない父は一日の大半を
「
「どうして?」
今日もきっとここにいると思っていたのに、珍しく母は独りだった。何をすることもなくただ遥か上の水面を見上げている。
「父上は世界を支える柱となったのです。二度と会うことは出来ません」
二度と会えないという母の言葉を理解するのに時間がかかってしまった。それでも数秒だったとは思うが、その意味が分かった瞬間、持っていた氷盤を落とした。
足元で砕け散る氷盤の欠片は冷たいはずなのに、足に当たっても何も感じなかった。
父がもういない?
嘘のように思えるが、いつも母の隣にいた父がいないという現実が全てを語っている。時間が経てば経つほど頭が事実として認識し始めた。
「渾、泣くのはお止めなさい。泣くのは父上の仕事です。貴方のすべきことではありません」
母に言われて初めて自分が泣いていることに気づいた。事実が悲しいからか、それとも氷盤の欠片で切れた足が痛むからか……。
「渾、よくお聞きなさい。父上は理力のほとんどを残していきました」
母は膝を折って目線を自分と同じ高さまで下げる。左手を捻ると河の水が大きな玉を運んできた。自分の頭くらいの翡翠た。濃い碧色は髪の色に合わせたように母に似合っていた。
そこから父の理力を感じる。流れは少なく、心地よい冷たさを湛えた理力だ。
「母の理力と合わせればたくさんの子が生まれます。貴方は兄になるのですよ」
「あに……」
父と母に守られて、母の支流としてずっと過ごしていくものだと思っていた。三人での生活が続くと思っていたのにそれが崩れてしまった。弟や妹が生まれると言われてもそれが嬉しいことなのか、よく分からない。
「父のお顔を知っているのは貴方だけです。これからは弟や妹を守っていかなければなりません」
自分だけ?
そう言われると不思議な優越感がある。それと同時に兄になるという言葉が、これから生まれる弟妹たちへの庇護を生み出した。
◇◆◇◆
ーー数百年後
華龍河は大変混雑している。
「にーにー、お腹空いたよ」
「兄さんっ、波乗り行きたい!」
「お兄ちゃん、これ着せてー」
母上の子は順調に増え、今では百人を越えている。上の方の
「分かった分かった、順番にな。それと兄上と呼ぶんだ。いつも言ってるだろう?」
ひとりで過ごせると言っても母上の傘下であることに代わりはない。
「あにうえー、着せてー」
「兄上っ、波乗り行きたい!」
「おにうえー、ごはんー」
何かひとり違う呼び方が混ざっていた気がするけど……あとで指導しておこう。叔位とは言え、
勿論、自分も
本来ならば父上と母上の役目だが、この子たちは父上の顔すら知らない。それに母上は高位精霊として増えた家族の本体を管理するのに忙しい。
長兄として出来ることはするつもりだ。幼い頃だけとは言え、父からある程度の教育を受けている。弟妹が生まれる前は母上から付きっきりで教えてもらうことも多かった。それを下の子たちにも受け継がせなくてはならない。
「あにうえ、これなーに?」
ひとりが翡翠の玉を抱えて寄ってきた。慌てて取り上げて傷がないか確かめる。濃い碧色だった玉は昔に比べると少しだけ、ほんの少しだけ淡くなっていた。
弟や妹が生まれるためには
「母上のお部屋に入ったのか!?」
母の部屋に翡翠を戻しに行く。何人か付いてきた。バツが悪いのか中には入らず、入り口に手をかけて立ち止まっている。
「いいかい? これは大切な物だ。父上の……」
「兄上ーーっ!!」
ドタドタと賑やかな足音がして何人か走ってくる。今度は何だ。喧嘩でも始めたのか。軽くため息が出てしまう。
「どうした? 廊下を走ったら危ないといつも言ってるだろう」
「変な奴が来た!」
変な奴って何だよ……と言いたくなるのを飲み込んだ。情報が少なすぎる。母上の部屋を出ると勢いよく腕を引っ張られた。二、三人に服を引っ張っられているので袖が伸びそうだ。
妹が睨んでいるのは一段高い母上の席だ。母上が外出中の今、空席のはずのそこには知らない男が座っていた。
「てめぇが華龍河かぁ?」
粘着質な喋り方が不快感を煽る。この状況から見て弟たちを傷つけたのはこいつだ。しかし思い込みで行動してはこちらの不利益だ。
相手は理力量から判断して恐らく
「いいえ。私は華龍河の長子
一応、丁寧に挨拶したつもりだったのだが、鼻を鳴らされて終わってしまう。名乗り返すくらいはしても良いだろう、普通。
でも話す気がないのなら仕方がない。こちらの言い分を聞いてもらおう。
「母は只今登城しております。恐れながらそこは母の席ですので、お降りいただけ……っ」
「兄上っ!」
頭に固いものが当たった。くらくらして膝をついてしまった。足元に氷の欠片が散らばっている。氷球か氷盤を投げつけられたか? 詠唱が聞こえなかったな。
妹が駆け寄って来た。袖で氷球の跡を撫でてくれるがむしろ痛い。妹の手を押さえて顔を上げる。男は次の氷球を宙に投げて楽しんでいた。
「ガキがしゃしゃり出て来んじゃねぇよ、あぁ? 華龍河じゃねぇなら用はねぇんだよ! 今からここは俺が治める。ありがたく思え」
ざわつく
男は足を組んで座っているが腹が出すぎていてしっかり組めていない。ずいぶん蓄えがありそうな体だ。理力を溜め込んでるのか。
額には脂が光っていた。川が濁りそうだな。油の精霊か?
「おーっと、てめぇらは今から人質だ。華龍河に手出しはさせねぇ」
「ぅ、ぐっ!」
男の持つ氷球ばかり見ていて、足下から生えた水の鞭に気づけなかった。右足を取られ川底に叩きつけられる。痛いには痛いが幸い石や木の実など固いものはない。母上の手入れの賜物だ。
「きゃあぁっ!!」
衝撃で息が詰まって反応が遅れてしまった。妹の悲鳴が思ったよりも遠い。近くにいたはずなのに気配がない。体を捻ると水の鞭は妹を巻き取って男の元へ運んでいた。
「女もガキしかいねぇ。まぁいい
男は腰にぶら下げた瓢箪を妹に手渡し酌婦の真似事をさせようとする。当然だが妹はそんなことしたことはない。差し出された瓢箪を震える手で受け取ったところが見えた。
「くっ……そ」
右足を挫いたかもしれない。起き上がろうとしたら力が入らなかった。痛みはないから折れてはいないと思うが、踏ん張りが効かない。
慣れない手つきで酌をする妹にやめろと叫びたくなった。大人しく従っている妹に男は上機嫌だ。
「ガキかと思ったが……よく見りゃイイ顔してんな。俺の女になるか? あぁ?」
「ぃ、いやっ!」
下卑た笑い声と妹の小さな悲鳴が聞こえたのは空耳ではないはず。妹は水の鞭から解放されてはいたが、男の手が腰に回っていた。
そんな汚い手で……怒りが沸々とこみ上げる。立ち上がって簡易な氷剣を右手に生み、男に向かって構えた。
「放せ! 狼藉者!」
そう叫んだ瞬間に男は氷付けになっていた。
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