100話 汞の最期
反響していてどこから声がするのか分からない。低い声だから男だろう。焱さんも鋺さんも、正面を向いたままだ。滾さんが僕から少し距離を取って一歩前に進み出る。
皆の視線は汞の入った火の檻を通り越し、ずっと遠くに見える太い柱に集まっていた。残念ながら僕の背では見えない。仕方がないので屈んで檻を作る格子の間から覗きこんだ。ひとり分の姿を捉える。
「社交的な方は好きですが、お喋りが過ぎるのはいけませんよ」
灰色の服が見える。暗い室内でも良く映える薄い灰色だ。顔は見えないけど長い足を軽く組んで柱に寄りかかっているようだ。
声はぬるま湯のような心地よい響きがあり、ずっと聞いていたいような思いにかられる。この声を何の障害もなく聞いていたい。他のことはいいからもっとこの声を聞きたい。
うっとりしかけたところでカタカタという音が僕を現実に引き戻した。小さな音でさえ邪魔に感じる。ぼーっとしつつ視線を下げると腰で水晶刀が小刻みに震え音を鳴らしていた。静かにしてほしくてそっと押さえる。
「っ!」
何かに刺されたような……痺れるような痛みが手に走る。その瞬間、頭がスッキリした。短い時間だったとは思うけど恐ろしく長い酩酊状態だったように感じる。今は雨酔いから醒めたみたいに現状がはっきりと認識できた。水晶刀が叩き起こしてくれたのかもしれない。
「あぁ
汞が叫んでいる。その声は何かに酔ったように熱を帯び、先程までの自信に溢れた雰囲気とは全く違う。僕もあんな風になりかけていたんだろうか。
「救済者……」
僕がぽつりと呟くと焱さんが僕と滾さんの前に立った。庇われているらしい。僕も水晶刀に柄をしっかり握った。もう痺れるような痛みは感じない。コツコツと靴底を鳴らしながら、灰色の人影が近づいてくる。
直前で止まると思ったのに、格子をスルリとすり付けて火の檻の中に入ってしまった。これには焱さんも驚いている。檻の前に座ったままの鐐さんを鋺さんが引っ張って退がらせた。
「私はまだ本調子ではないのですよ。出来れば表に出たくないのですが……」
燃える様子も熱がる様子もない。痛みを感じないのだろうか。顔ははっきり見えない。うなじを隠す程度の髪は燃える格子を反射して何色だか分からない。切れ長の目は炎を照らしてゆらゆらと揺れているように見える。
「えぇ存じております。しかし、妾は、妾は」
「しかし、この状況では仕方ありませんね」
愛おしそうに汞の髪に指を入れる。肩口までの髪の数回梳くと汞は恍惚とした表情で目を閉じた。水銀に直接触れても問題ないなら金精でも水精でもなさそうだ。
でももしかしたら
「救済者、妾をここから出してください」
「えぇ勿論」
髪から顔に移した手に汞がすり寄る。自分の頬に置かれた手に縋るように両手を添える。信頼しきったその顔は瞬きをしている間に消えてしまった。
顔が……首がない。
「ほら、もう自由に出られますよ」
見間違いなどではなかった。少し遅れて体ごと倒れた水銀は服も残さず灰になってしまった。風など付加ない室内では灰が飛ぶこともない。先ほどまで水銀がいた檻の中で小さな山になっていた。救済者が軽く息を吹きかけると灰は火の檻から飛び出してわずかに舞い上がる。
灰が舞う様子を見ていると貴燈山で黄金虫が灰になっていたのを思い出す。あの時とほとんど一緒だ。
「メル!」
鐐さんが飛び出そうとするのを鋺さんが抑える。鑫さまの顔は見えないけどとてつもない怒りを感じる。もし淼さまがここにいたら泉が丸々凍ってしまうような、そんな怒りだ。
「おや、二の姫様もご一緒でしたか。気付きませんでした」
気づいていないわけがない。そう返したくなるような言い方だ。けれど穏やかににっこり微笑む様子を見ると僕が間違っているような気がしてくる。
「救済者、メルはどうなったのですか!?」
「フフ、ご安心を。精霊がいずれ還る場所に送って差し上げただけですよ」
それって……。鐐さんが鋺さんの腕にしがみ付きながら崩れ落ちた。檻の中では救済者が世間話でもするような軽さで、少し首をかしげながら鐐さんに優しく語りかける。
「そう嘆くこともごさいません。彼女は独り寂しく生きるのが辛かったのです。ならば今頃多くの魂に囲まれてさぞ……」
言葉が不自然に切れた。僕のすぐ目の前で焱さんが新しい矢をつがえている。救済者の胸に焱さんの火焔之矢が刺さっていた。
「覚悟は出来てんだろうな」
「はて、何の覚悟でしょう。ああっ、御挨拶が遅れてしまったことですね! これは失礼しました、焱さま。火太子におかれましてはご機嫌麗しゅう」
胸に手を当てて
「てめぇ……」
「おや、まだお怒りが解けませんか? 焱さまよりも
焱さんが息を詰めたのが分かった。焱さんの真名を知る者は少ない。なんで救済者はそれを知っているんだろう。焱さんが黙ったことで救済者が向きを変える。
「
腕を大きく振って再び胸に手を当てる。鑫さまは槍を握り直して半回転させた。鋺さんがさらに鐐さんを引っ張っている。肩から落ちたスカラベが腰に巻かれた布にしがみ付いていた。
「聞きたいことはいろいろあるけどこれは貴方が仕組んだのかしら?」
鑫さまの低い声を初めて聞いた。いつも明るく優雅な高めの声だった。声だけ聞いたら鑫さまだと分からないかもしれない。
槍の柄の方で床を突く。舞踏場の床にピシピシとヒビが入り、檻の中の救済者に伸びていく。救済者もそれに気づいているはずだけど挨拶の姿勢を崩しただけで、美しい笑みはそのままだった。
「仕組んだとは心外なお言葉。私はただ皆と共にありたいという
悪びれる様子は一切ない。自分が悪いとは全く思っていないのだろう。
「
汞との繋がり、貴燈山の辰砂と事故、銅の誘導……すべて汞が絡んでいる。それはすべてこの救済者が
「釛さまのお誘いなら是非ともお受けしたいところですが、私自身は助言をしただけ。寂しいなら合金にすればいつでも一緒にいられる。皆自分の意思を残しつつ、貴女の思うように動いてくれますよと」
伸びたヒビは救済者の足の下にまで届いた。鑫さまが小声で何かを呟くとヒビの間から無数の針が突き出す。針と言っても僕の腕くらいの太さだ。そのほとんどが救済者に刺さっている。
大量の針に刺されて救済者の姿が見えない。鑫さまも容赦ない。見ているこっちが痛くなりそうだ。連行するって言ってたけど連れていける状態ではなくなってしまうんじゃないだろうか。
「釛さまはお美しいだけでなく、理術の扱いも大変器用になさるのですね。なるほどお見逸れ致しました」
針の中から腕が伸びてゆったりとした様子で針を一本抜き取る。カランと投げ捨てると、それを合図に針がバラバラと崩れる。
「普通の金精は本体と人型が一体。それでいて理術を使うとなると本体を使うのが一般的です。大気中には金属性の理力がほとんどありませんからね」
まるで雲の中から出て来たかのように平然と歩を進めてくる。火の檻もさっきと同じように通り抜けてしまった。
近づいてきたことで顔が見えるようになった。目鼻のバランスが良く、整った顔立ちをしている。口元は薄く弧を描き、通った鼻筋は顔に影を落としている。
鑫さまも鋺さんも斧や槍を脇に構え直している。僕も水晶刀を抜いた方が良いだろうか。滾さんは素手だけど取っ組み合いの準備みたいに構えていた。
「しかし貴女さまは今、先ほど舞った灰の中から僅かに残った金属の理力を取り出して扱った。並の金精に出来ることではありません。流石、王太子と言わざるを得ません」
パチパチと拍手をしながら僕たちに近づいてくる。金精の
「おっと、釛さまの美しさに見とれて訪問の目的を忘れるところでした。本日はこれをお返しに参ったのです」
救済者が左手を
「
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます