03話 雫の成長

「雫、今日はどんな日だった?」 

「はい、淼さま。今日は……」

 

 夕食を摂りながら、いつものように淼さまが一日の様子を尋ねてきた。どこを掃除したとか、淡さんに注意されたとか、そういう話がほとんどだ。

 

 でも今日は……浴室での出来事を話した方がいいのだろうか。浴室に精霊が住んでいることを知らなかった僕の失態を、責められるかもしれない。


「どうした?」

 

 淼さまが食事の手を止めて僕を見ている。何色だかわからない濃い色の瞳に僕が映っていた。

 

 怒られても仕方がない。悪いのは僕だ。 


「今日はいつもとちょっと違って……」

 

 浴室での出来事をびょうさまに話した。淼さまは僕の話をじっと聞いていてくれた。


 最初は笑顔だったその顔が徐々に険しい顔になってきた。自然と自分の声が小さくなっていた。

 

 もしかしたら、あの浴室の精霊は淼さまの部下だったのかもしれない。王館で精霊の姿を見ないと思っていたけど、僕が関わっていなかっただけで、実は他にもたくさん王館に住んでいるのかもしれない。

 

「それで目を瞑っている間に、いなくなってしまったんです。棲み処を汚してしまったので、怒って出て行ってしまったのかも……」

 

 淼さまに怒られる覚悟で事実を告げたのに、お叱りは来なかった。それどころか怪我はないかと僕の心配をしてくれた。


「水蛇か。……そうか、奴もあちら側か。私の留守を狙って来るとは」

「淼さま?」 


 淼さまが本格的に食事を止めてしまった。ブツブツと小声で何かを呟いているけど、よくは聞こえない。

 

「雫。念のために言っておくが、私はその蛇に王館滞在の許可を与えてはいない」

「え? じゃあ、どうして」

「王館の水源と隣接した水源を領域としている。間違えて入ってきたのだろう。雫は悪くないよ」


 僕は悪くないと言われてホッとした。力が抜けすぎて匙を落としそうになってしまった。

 

「雫はここに来てどれくらいになる?」

 

 匙を落とさずに済んだところで、淼さまが話題を変えた。


「来月でちょうど十年になります」


 助けてもらってから十年だなぁ。としみじみ思っていたのは今日の朝の話だ。まさにその話題だった。


「そうだね。もうそれくらいになるね。水精にとっての十年は短い。だが、雫にとっては長かったかもしれないね」

「この十年、淼さまに感謝しない日はありません」


 びょうさまは笑いながらまたスプーンを手に取った。良かった。今日の汁物スープがお気に召したようだ。今日のレシピを心のメモに書き留める。


「大袈裟だよ。第一感謝しているのは私の方だ。食事の用意なんて、私一人だったらしないからね。私は食べても食べなくても問題ないけど食事が楽しいということを教えてくれたのは雫だ」

「え?」

「え?」


 今、食事がなくてもいいと仰らなかっただろうか。


「いや、何でもない。この話は置いておいて。もしくは忘れて」

「?  はい」


 そう言って淼さまはスプーンを置いた。どうやらからになったようだ。


「雫。この十年間で何が出来るようになった?」


 汁物スープのお代わりは必要だろうか。とソワソワしていたせいもあって、突然の質問に反応できない。何が出来るか? 何って何……?


 これはまさか、もっと役に立つかと思って連れてきたのに、大して役に立ってないから暇を出す的なあれを遠回しで言われている?


「また検討違いな考えをしているね?」

「ぶっ」

「話す前に熟慮するのは大切なことだけど、考えすぎはよくないな。私の聞き方が悪かったかな? えーそうだな。この十年間で何か分かったことというか、学んだことはある? 気づいたこととか、覚えたこととかでもいいけど」


 ただ聞いてみたいだけだから、なくても問題はないよ、と付け足して僕の返答を待っている。


 何を学んだかと言われても……。びょうさまは食後のお茶を楽しみながら僕の答えを待っているようだ。正直に言ってもいいのだろうか。


びょうさまがお好きなものは水羊羹みずようかんということを覚えました」


 淼さまは一瞬、ん? という顔をした。


「うん、そうだね。水羊羹は好きだけど、あとは何かある?」

「あとは水餃子と水炊きでしょうか」

「……一旦食べ物から離れようか」


 料理以外でということだろうか。それなら……。


「あとは、衣類の襟に火熨斗アイロンをかけるときはきっちり糊つけされている方が好みということを覚えました。特に謁見えっけん用はパリッと襟と立てて……」


 びょうさまが微妙な表情でこっちを見ていた。

 

 この表情は見覚えがある。二年くらい前に、どこかの高位精霊が、淼さまに嘘情報を五十個ほど持ち込んできた事件と同じ表情だ。勿論僕ごときが直接立ち会ったわけではない。でも謁見から戻ってきた淼さまの温度が氷点下だったことは記憶に新しい。


 その時の精霊がどうなったか知る由もない。僕は今何かやらかしたのだろうか。


「あっえっと、それから執務室の書類を整理するときは日付順よりも地域別の方が処理しやすいと以前仰ったので……そのように」


 あああ、びょうさまが固まってしまった。答えを間違えたのだろうか。怒ってはいないようだ。でもすごくがっかりさせてしまったような気がする。模範解答があれば教えてほしい。


「……あの」

「うん、よく分かった。私の事をよく理解してくれてありがとう」


 ありがとうといいながら、淼さまは額に手を当ててしまった。肘をテーブルについて何か考え始めた。こうなると僕は何も言えない。

 

 本当にクビだと言われるかもしれない。


 まとめる荷物はない。全部ここに来てから与えてもらったものだ。頭の端でそんなことを思いながら、食べ終わった食器をそっと重ねる。


 するとびょうさまは顔をあげずに僕に話しかけてきた。


「雫。明日から料理も掃除も洗濯もしなくていい」


 あぁ、やっぱりそうか。

 そうだよな、そもそも僕がこんな恐れ多い場所にいるのがおかしい。

 

 そう思っていたら、違う、と声がかかり思考を遮られた。


「ここから出ていけという話では断じてない。雫を連れてきたのは私自身だよ。追い出すことなど有り得ない。安心して」


 淼さまのことは信頼も尊敬もしているけれど、今の言葉が信じられない。


「確かに『王館に住む代わりに雑用をしろ』とは言ったけど、それありきではないんだよ。明日からは雑用ではなくて、やってもらいたい仕事がある」


 びょうさまにそう言われても、今ひとつ理解できない。王館に住まわせてもらう代わりに雑用をするという約束だったのだ。水回りは僕の仕事場だ。今度は炊事も洗濯も掃除もせずに、何をしたらいいのだろう。


「明日から、雫の仕事は、勉強することだ」


 一言ずつ区切って、僕に言い聞かせるように答えをくれた。びょうさまは僕が何かを言う前に間髪いれず、ごちそうさまといい、そのまま席を立って執務机についてしまった。


 何の勉強をするのか尋ねるタイミングを完全に逃してしまった。気にはなったものの、本格的に仕事を始めた淼さまのお邪魔は出来ない。サインをしたり、判を押したりしている淼さまの邪魔にならないよう、静かに片付けをする。失礼しますと小さな声で呟いて扉を閉めた。

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