01話 水理王
私の朝は早い。
何故なら眠る必要がないから。
水の精霊を正しく管理し、精霊の力の源である理力を
水の王館に住み、時には自ら視察に行くこともある。本来、視察は王の仕事ではないが、諸事情で自ら行かねばならない。
雫と食事を終えた後、高位精霊から救援要請を受けた。本当は大量の書類と向き合いたかったが仕方ない。救援要請とあれは動かざるを得ない。
しかし、要請主は古い大河の精霊だ。実力もかなりある。もしかしたら、着く頃には解決しているかもしれないと、淡い期待を抱いた。
しかし、その期待は虚しく崩れる。現場に着いて見て、一瞬唖然としてしまった。
大河が支流に侵攻されている。
支流が逆流し、大河の一部を飲み込んでいた。
「アハヒャハハッ!! 行け行け行けーっ!!」
水が不自然に泡立った場所に加害者を見つけた。
川面をものすごい力で殴って強引に流れを変えている。時々、水の塊を撃ち込んでいるようだ。その度、爆音と
見覚えがある精霊だ。
あの男は近年領域を侵している。これまでにも数回、繋がりのある他の支流を飲もうとしていた。
確か、階級は
本人は下位精霊だが、本流である親は高位精霊だ。
下位精霊は必ず高位精霊の傘下に入る。親や兄姉に高位がいれば、その庇護下に入ることがほとんどだ。
しかし、こいつは支流のみならず、
親である高位精霊は、私に協力的な精霊のひとりだ。それに免じて、これまでは厳しい罰は与えず、口頭注意で済ませていた。
それを良いことに調子に乗っているようだ。
「止まれ。勅命である」
静かにそう言いながら左手を軽く振った。その瞬間、逆流を続けていた水の流れがザワリと変わる。
侵攻が止まった。
波は不自然に止まり、風が吹いても動かない。
波だけではない。
一粒の
水は『止まれ』という私の命令を忠実に守っている。
「お、おい! 何だ、何をやっている!
支流の精霊は何が起こったのか分かっていないらしい。不自然に止まった水を動かそうと更に暴れだした。
水理王の勅命と一介の下級精霊の命令……どちらが勝つかは明らかだ。直接的に管理しているのは支流の精霊だが、水精の頂点に立つ私の命令に敵うわけがない。
指の先に氷の粒をひとつ生み出す。それを水面へそっと落とした。
氷の粒が着水してしばらくすると、ドンッという轟音が鳴り響いた。巨大な水の壁が立ち上がる。それを合図に水が勢いよく退いていく。
「再三に渡る警告を無視したあげく、度重なる
そう告げると、ようやく私の存在に気づいたようだ。私が力を抑えているせいで分からなかったのだろう。認識した瞬間、苦々しそうな顔をされた。
「お、
顔を歪ませた男は、固まった水面に膝を着いた。礼の形を取っているつもりなんだろう。
「弁明があるなら聞こう」
無駄だとは思うが、一応反省の弁を述べるつもりなら聞いておこう。しかし何も言う様子はなく、ただガックリと頭を垂れている。
「……」
「言いたいことはないようだな」
罰を告げようとした。その時、耳に小さな詠唱が入ってきた。大気中の水分が私に危険を知らせてきたようだ。
「くらえっ! 『
濁った水の球が飛んできた。
頭ほどの大きさだ。
本人にしては力一杯投げたつもりなのだろうが、緩慢な動きだった。止まっているのかと思ってしまう。
当たることはないが、一応避けておいた。
この男、項垂れたフリをして、攻撃の準備をしていたらしい。理王に攻撃を仕掛けるなど身の程知らずだ。
呆れて何も言う気にならない。新たに詠唱を始めているが、止める気にもならなかった。
「河の気よ 命じる者は 大河の子 岩をば砕き 場を押し流せ! 『鉄砲水』!」
男の腕から勢いよく濁流が放たれた。濁流は重力にも負けず、昇ってくる。まるで逆流した瀧のようだ。
まっすぐ私に向かっているのは分かっている。だが逃げも隠れもしない。
ほんの一瞬、周りが水に包まれて視界が悪くなった。一般的な低位精霊ならこの濁流に飲み込まれただろう。
「ヒャッハハハハ! ざまぁ見ろ! 邪魔しやがって! 理王ったって無傷では済まねぇだろ!」
しかし、水は私の体に触れないよう、自ら避けていく。私に水の攻撃を仕掛けたところで効くわけがない。無駄なことをする。
涙を払うように瞬きをひとつする。
瞬く間に水は散っていった。視界が明るくなる。散った水がキラキラと輝きながら落ちていった。
「無傷で悪いな」
心にもない謝罪を口に乗せる。
男の驚愕した顔が無様すぎて少し笑えてきた。
「なっ……『鉄砲水』が効かない?」
明らかに
罪状と罰を言い渡してさっさと終わりにしようと思ったが、気が変わった。こういう愚か者は少し痛め付ける必要がある。
「余の番か?」
詠唱なしで水球を量産した。
私の周りで浮遊する澄んだ水の球、その数およそ百個。
「行け」
短く命じた。
百を越える水の球がまっすぐ男へ向かって行く。
「くっそ! 『
意外なことに初弾を防いだ。咄嗟に氷の壁で自身への攻撃を防いだようだ。少し手加減しすぎたかもしれないが、ここは褒めてもいい。
「変転せよ。『
水球を氷へ変える。手加減しすぎると調子に乗るが、手加減しないとうっかり倒してしまう。面倒くさい。
男の作った氷壁は、私の
腕や顔は赤く腫れ、足は恐らく片方が折れているだろう。
「うっ、く……そ……い、てぇっ……はっ」
「どうした? 終わりにするか?」
降参を薦めてみる。これ以上やったところで、私に敵わない。罪を認めて償えと暗に示したのだが……。
「んな、ざけんじゃねぇ! こんなっ、まだ……『
氷で出来た串状の刃物を投げてきた。まだまだ元気だ。鋭利な先端が私を狙っている。
溜め息が出てしまう。なぜこんなに無駄な時間を過ごさなければならないのだ。早く帰りたいのに。
「散れ。『
長さも太さも数も格段に増やした。一本一本が腕くらいはあるだろうか。先端の鋭利具合にも磨きをかけておいた。
一本でも刺されば大怪我だ。流石に男は逃げようとしている。だが、その足は震えて、うまく歩けていない。
這うようにして水面を移動している。少しでも私から遠ざかろうとしているが、無謀な試みだ。『
「ギャアッ!」
男に数本の
「あ……けっ……ケフッ……ハ」
刺されていないのに、男は無様な醜態を晒している。口はパクパクと意味なく動き、音を為していない。恐怖で戦意はないだろう。
「
男の持つ名も取り消してしまう。
精霊は名がなければ人の姿でいることはできない。
私がそう宣言すると、一瞬淡い光が立った。光はすぐに収まり、男のいた場所には
これで水精としての力はかなり削いだ。だがその場に残しておくのは危険だ。何をやらかすか分からない。ひとまずその身を預ることにした。
水面に下りて
諦めたのか、それとも状況が理解できないのか、特に暴れることも逃げ出すこともしない。
しばらくは水槽にでも閉じ込めて反省を促そう。もし反省したら元の川と名を返してもいい。
反省しなかったら、その時は……。
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